
「すごく良い香りがする」
「ね、でも味もすごく美味しいんだよ」
ただでさえ、そんなに大きくないキッチンだけど、大きい彼と一緒に立つとより狭く感じる。なのにちっとも嫌じゃなくてむしろちょっと落ち着きもする。キッチンで紅茶の缶を開けると、すぐに茶葉から品のある香りが漂ってきて鼻腔が穏やかにくすぐられた。「淹れるからソファーに座って待ってて」と彼に告げ、湯を沸かす。そして、先日買い物をしている時にふと出会ったこの紅茶に合うオーガニックの蜂蜜。これも出そうと蓋を開けようとしたけど、なかなか開かない。あれ、本当に開かない。なんて頑固な蓋なんだ。やかんがピーっとサイレンみたいに鳴っているのに、なかなか火を止めないわたしを心配に思ったのか「!?」と彼に呼ばれてようやく我に返り火を止めた。
「どうしたの?大丈夫?」
「瓶の蓋が開かなくて」
「開けてあげようか?」
「いや、もうちょっと頑張ってみる」
何故か分からないけど開けられないのがか悔しくて、自分でも意固地になってることが分かる。わたしの悪い癖が出たようだ。とりあえず何でも自分で限界までやってみなきゃ気が済まないらしい。例えば本屋で欲しい本が高いところにある時、彼と一緒にいれば背の高い彼に取ってもらえば良いのに、とほとんどの友人は言うけど、わたしにはどうしてもそれが躊躇われた。台を使えば自分ひとりで何とか出来る。すこし頑張れば自分で出来るであろうことを人にお願いするのが苦手なのかもしれない。可愛げがないと言われてしまえばそれまでだけど、きっと甘えるのが上手ではないのだろう。
「ふぬぬぬぬぬ」
「あまり無理しちゃダメだよ」
恥も何もかもを捨てて、バカみたいな声を出しながら瓶を回す手にありったけの力を込める。どうして開いてくれないの?!お願いだから開いて!この紅茶を引き立たせるためには貴方が必要なの!と演劇の舞台みたいに情熱的なセリフを頭の中に響かせ、ひたすら力を入れ続けた。しかし、現実とはなかなかに厳しいもので1mmも動く気配が無い。何かで溶接でもされてるんじゃないだろうかというくらいの頑固さである。力を入れて顔が赤くなるのが恥ずかしいので、リビングでこちらの様子を心配そうに窺ってる彼に背を向け、もう一度声を出して頑張ってみる。しかし開かない。せっかく沸かしたお湯が冷めてしまうので、仕方なく彼が座ってるソファーへ行き隣に座って正座した。
「開けて?」
「最初からそう言えば良かったのに」
「自力で開けたかったの」
「その頑張りは認めるけどね」
瓶を渡すと「男としては、たまにくらい甘えて欲しいけどね」と言いながら、何かのついでくらいな軽い所作で蓋を回してあっという間に開けてくれた。パカっと単純だけどずっと聞きたかった音がして、特別でも何でもないこの音がこんなにもわたしのこころに響いてくるとは思わなかった。
「え?嘘?!え!?」
「はい、どうぞ」
「…わたしが数分もかけて開けられなかった蓋をいとも簡単に…」
力だけはそこらへんの女の子よりあると思っていたのに…と根拠も何も無い自信を抱いていたわたしにとって、この事実はショックでもあり、同時に簡単に蓋を開けてくれる彼の頼もしさを改めて認識するという複雑な思いに挟まれた。自分でもよく分からない感情を顔に浮かべていると、彼が「どうしたの?」と言うので「何でもないよ」と誤魔化すことにした。
「手赤くなっちゃったね」
開けてもらった蜂蜜の瓶をテーブルの上に置いて、キッチンで紅茶を淹れてこようと立つ寸前で彼に手を取られた。確かに手のひらと指はすこし赤くなってる。あの時は手がちぎれようが指がもげようが何としてでも蓋を開けたいという、今思うとよく分からない一心不乱な気持ちだったので手が赤くなってたことに全く気付かなかった。それに赤みなんてどうせすぐに引くんだし。そう思っていたら、いきなりに指や手にキスをされてたので、びっくりして反射的に手を引っ込めようとしたけどそんなことは無意味とでも言うかのように彼の胸に引きずりこまれてしまった。彼の黒目にわたしの顔が映って、あ、と思った瞬間にはもうくちびるは重なっていて、おまけに離れたと思ったらまたすぐに重なってその繰り返し。
「お、お湯冷めちゃう!」
「また沸かせば良いじゃないか」
「そうだけどまた時間かかっちゃうから」
「じゃあ、その間ずっとこうしてようか」
手や指に散りばめられるようにあった赤は、いつの間にか頬に移って熱い。ホットはやめてアイスティーにしよう。