なまあたたかい風がカーテンをゆるりと撫で、教室に春を運ぶ。夕陽のオレンジが、スポットライトみたいに日誌を書く彼女の手にやさしく降りそそぐ。向かい側で頬杖をついて座っているオレなんか眼中にないらしく、白いページに黒のシャーペンで次々と空白を埋めていく。影が鮮明に浮き出るほど夕陽がまぶしくて、きっと彼女も文字が書きにくいだろうと、もっとカーテンをひいてあげようかと思ったけど、それは自分勝手な理由によって躊躇われた。オレンジのやわらかい光を浴びてる彼女が、額縁に入った絵画みたいに美しくて、長い睫毛の影が頬に落ちている。

「キレイだ」

 意図せずに漏れた言葉は、彼女の書く手を静止させてしまった。驚いている彼女のくりくりした目に、自分の驚いた間抜けな表情が映ってる。純粋な白と意思の強さを表すような黒のバランスがよく取れている瞳だ。

「え?氷室くん、今なんて?」
「いや、キレイだなと思って」
「え!?」
「字、すごいキレイだ」

 決して嘘をついたわけでもないし、誤魔化したわけでもない。彼女から生み出される字たちは本当に繊細で美しい。日誌をぜんぶ書いてくれると言った彼女に甘えたおかげで、今日のページはさぞ読みやすいものになったことだろう。日直欄のところには彼女の「」という名前とオレの「氷室辰也」が並んでいて、彼女に書いてもらった自分の名前が何だか照れているようにも感じる。書く人間が変わるだけで、こんなにも輝くものだろうか。

「上手くはないけど、丁寧には書こうって思ってるからそう言ってもらえると嬉しい」

 そう直球に返されてしまうと、何だかこちらまで少し照れくさくなってしまう。ちいさくて華奢な手はついに動きを止め、彼女からは「よし」という満足そうな言葉がこぼれた。「ありがとう」と言うと「ううん、日誌とか書くの好きだから」と言ってパラパラとめくりはじめた。ページのはしっこには、誰かが書いたパラパラ漫画のようなイラストが残されており「ほら、見て。これきっと阿部くんだよ。日誌の中は全然書いてないくせにこういうのだけは一生懸命書いてるんだよね」と笑いながら楽しそうに見せてくれた。

「じゃあ最後に黒板を消して終わらせようか」
「うん、わたし黒板消すのも好きなんだ」
さん、変わってるね」
「え、そうかな?白い線がうっすらとさえも残らないようにとにかくキレイにしたくなるんだよね」

 もしかしたら凝り性なのかもしれない。そういえば、彼女とは挨拶くらいはするけど今まであまり話したことがなかった気がする。この前の席替えで隣の席になって、今日の日直で初めてここまで喋った。どんな子かなんて全然知らなかったけど、春の陽だまりみたいによく笑ってる彼女はいつだってまぶしくて、楽しそうだ。両手で黒板消しを持って、おそらくありったけの力を込めているのだろう。上からゆっくりと下へ滑らせていくその動作にでさえ一生懸命で、黒板消しが通ったあとのキレイな濃緑を見ては満足そうに微笑んでいた。けれど、さすがに上までは届かないのだろう。バレリーナみたいに爪先立ちをしているけれど、脚が震えている。ちいさな子どもが一生懸命手を伸ばしているみたいで、なんだか微笑ましくて暫く見ていたけど、さすがに可哀想になってきたので助けに行くことにした。

「上はオレがやるから」
「あ、ありがとう…ふう」
「息切れてるよ」
「氷室くんは背が大きいから知らないかもしれないけど、背伸びって結構体力使うんだよ」

 きっと、普段のオレだったらすぐに上を消してあげたと思う。意地悪と言われてしまえばそれまでだけど、頑張ってる姿を見たかったんだと言ったら許してもらえないだろうか。クスクス笑ってると「もー、笑わないでよ」と言われたので「ごめんごめん」と返して、それだけなのに楽しいだなんて、もしかしてオレはすごく単純なんじゃないかと思わされた。

「うわあっ!」
「え?さん、どうかした?」
「む、虫だ!おっきいの!」

 言葉になっていない言葉を振り撒きながら踊るみたいにくるくるしてる姿がおかしくて、また笑いそうになってしまった。彼女をからかうように飛んでいたその虫は、今度は黒板に止まったらしく、彼女も黒板消しを盾にするかのように持ちピタリと静止している。「大丈夫?」と声をかけると「任せて」と頼もしい言葉と正反対に震えた声が返ってくる。追い払ってあげようかと思ったけど、彼女があまりにも真剣なので、見守ることにした。「そいやー!」と大袈裟な声を出して黒板消しを思いっきり虫に押しつけようとする。まさか潰すつもりじゃ、と思ったらどうやらその通りだったらしい。勇ましいんだが無謀なんだかよく分からないその行動がなんだか愛らしく思えた。然し、残念ながら虫は間一髪のところで逃げてしまったらしく、強い勢いに我慢出来なかった白い煙が黒板消しから生まれてしまい、彼女の顔を覆っていた。

「げほっ、ごほっ」
「大丈夫?」

 思わず駆け寄ると、咳込みながらも彼女は「大丈夫」とちいさく答えた。制服の肩の部分がうっすらと白くなってしまってるので、それをはらうように無意識に触れていた。まだ咳込みながら「ありがとう」と言う彼女の声で我に返り、安易にこんな風に触れてしまって大丈夫だっただろうかと柄にもないことを考えた。最近はバスケばかりで、大きい男たちと日々ぶつかりあっているせいか、彼女の華奢さに一瞬だけ驚いてしまったのだ。肩をはらってあげてるだけなのに、力を調整するのがこんなに難しいなんて初めて知った。

「氷室くん、もう大丈夫。ありがとう」
「ごめん、あまり落ちなかった」
「いいのいいの、自業自得だから」

 夕陽を透きとおらせるような彼女の細い髪がハラリと揺れ、邪魔に思ったのかその髪を耳にかけた。その時だろうか、手に白い粉がついていたらしく彼女の頬にも白いものが移ってしまった。

「あ、ちょっと待って」

 それこそ本当に無意識だったと思う。当たり前のように彼女の頬に手を触れた。思っていたより冷たくてやわらかい頬は春の夕陽に染まっても白くて、まるで雪みたいだ。あとすこしで白い粉が落ちそうになったところで彼女の瞳にまたしても自分の姿が映る。その一瞬だけ時間が止まったみたいに静寂が訪れた。風でカーテンがバサリと舞うように揺れ、ようやくお互いの時間が動き出す。すると、みるみるうちに彼女の頬が熱を持ち、赤くなっていった。

「え?」
「あ…え、えっと…」
さん、顔すごく赤いけど…」
「いや、えっと、その…」
「それに熱くなってきたし…大丈夫?熱とかあるんじゃないかな」
「い、いや…ああああありがとう!もう大丈夫だから!それじゃ!」

 オレの手からすり抜けた彼女は自分の鞄を持つと逃げるように帰って行ってしまった。沸騰したみたいに熱くなった彼女の頬は大丈夫だろうか。いや、違う。熱いのはオレの手だ。もう彼女に触れていないというのに、手にまだ彼女の温度が残っているみたいに熱い。
 慌てた彼女はどうやら定期を忘れて行ったらしい。追いかける口実が出来たのはちょうど良い。気づいたら、春を追いかけるように走り出していた。