純白に、生まれて初めて目を奪われたかもしれない。
白い服ならいくつも持ち合わせている。何にでも、どんな色にも合わせやすいから、トップスもボトムスもクローゼットの中に1着は入っている。ただその反面、汚してしまったら取り返しがつかないという緊張感が生まれてしまうのも事実だ。それに、目の前にいる彼と違って没個性的なわたしが着たらあまりに普通過ぎて、周りの景色に同化して存在自体が飲み込まれて消えてなくなってしまうのではないかという謎の不安もある。それから更に言うと、例えば白いワンピースなんかは、かわいい女の子やキレイな人しか着ることが許されていないという固定概念みたいなものが頭の片隅に存在していて、自分で着るのを躊躇ってしまうことも多い。そもそも白と純白の違いもよく分かってはいないけど、普通の白より洗練されているであろう純白を意識したこと自体、あまり無かった。
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仕事から帰ってくると、たまに合鍵を使って訪れてきたであろう長身の体躯がわたしのベッドで窮屈そうにしながらも、普段からは想像できないほどやわらかな表情で眠っている時がある。しばらくそんな寝顔をひとり占めにして、ベッドとその身体の隙間に潜り込むように、体温を分け合っていっしょに眠るのが好きだ。翌日はわたしが休日なことがほとんどで、きっと普通の社会人と同じように働くわたしの休みに合わせて、こうして来てくれているのだと思う。次の日はめざまし時計もかけず、起きたい時に起きてふたりで時間を共有する。夜に会うことが多いわたしたちが、陽光が窓を貫いてくるような時間帯に部屋でのんびり過ごすのは、ちょっとした特別にさえ感じる。そんな特別であろうひとときに、ふたりでソファーに座りながらもスマホに夢中になっていたわたしに不満を持ったのか、腰に長い腕が絡みついて力強く引き寄せられる。「ナニ見てんの?」という言葉が耳元で落とされて、その言葉の裏には「そんなもん見てねーでこっち」という意味が隠れていたのは分かったけど、どうしてもスクロールする手が止まらず目線も相変わらずスマホに向けたままになっていた。せめてもの償いとして、腰に回された手に空いていた片方の手を重ねると自然と指と指が絡まるように繋がった。
「新しいパーティードレス買おうかなと思って」
「パーティードレス?」
「最近結婚式に呼ばれるの多いんだよね」
年齢的な問題だろうか。結婚、そして挙式を行う友人や知人が男女問わずここ最近やたらと多い。学生時代の友人などは共通しているため、誰も他人のパーティードレスなんて気にしていないということは分かっていながらも、写真に残ることも多いためそろそろ新しいパーティードレスを買いたいと思っていた。慣れというものは確かに存在していて、初めて結婚式に招待された時はわざわざお店に足を運んで、未だに残っているのか疑問な細かいマナーや常識に翻弄されながら服として出す値段としては高めのパーティードレスを選んだりしていた。まるで知らない華やかな世界に足を踏み入れるような緊張と高揚があった気がして、ヘアもわざわざ美容院でセットしていた。今となっては家にいながら指一本でドレスの購入に至れる。ヘアは自分でアレンジできるようにもなった。25歳の誕生日に自分で自分に買ったパールのアクセサリーを身に着ければ自信が持てる。ハイヒールの窮屈さにもいつの間にか慣れていた。
「ふーん」
「見て、これかわいくない?」
「それもいーけど、オマエこっちのデザインのが好きだろ」
「え、よく分かったね。でもこっちは欲しい色が売り切れなの」
パーティードレスは主役である新郎新婦を引き立てることが出来れば良いと思っているのと同時に、庶民的な一般人である自分が普段あまり着ることが出来ない特別なもの、というイメージがある。そのためか、新しいものを選ぶときにはやはり胸が弾んでしまう。きっと新しいパーティードレスを買ったら、それに似合うバッグが欲しくなって、それに似合うハイヒールが履きたくなって、ますますスマホから目が離せなくなる自分を容易に想像出来た。
「…」
「ん?」
「出掛けんぞ、準備しろ」
「え、今から?!どこに?」
「いーから」
半ば強引に連れ出されて、車の中で何度も「どこ行くの?」と聞いても「ひみつ」と得意の返答しか返ってこなかったので、考えることは諦めて都会を走る短いドライブを楽しむことにした。連れて来られたのは表参道にある外国風の建物。ショーウィンドウには誰もが一瞬は目を奪われるようなウェディングドレスが飾られていて、そこが何のショップなのかはすぐに分かったけど、なぜここに来たのかは理解が出来なかった。戸惑いを頭に巡らせながら、同時に教会並に神聖な場所に感じて、つい足が躊躇うように止まってしまう。そんなわたしを察したのか蘭ちゃんが手を差し出してくれたので、何も意識せずいつも通り自分の手を重ねると彼のリードで扉の向こう側に行くことが出来た。365度どこを見渡してもオシャレで品の良い調度品に溢れた室内で「灰谷様、お待ちしておりました」という丁寧な挨拶をされたあと、ソファーに座ってしばらく待つことになった。わたしの部屋のソファーとは比べものにならないほど快適な座り心地で、むしろ蘭ちゃんの家のソファーに近い。
「何コレどこ?何しに来たの?」
「ウェディングドレスの試着」
「えっ?…いや、わたしが買おうと思ってたのはパーティードレスなんだけど」
「知ってる」
ちいさい脳みそにクエスチョンマークが溢れてしまう。こういう場所の常識は持ち得ていないが、そもそもこんな突然来れる場所なのだろうか。室内も音が存在してないみたいに静かだ。「なんか…静かだね」と言えば「貸切にしたからな」という問いに「貸切!?」と思わず驚いた声がやたらと大きく感じたのはこの静けさのせいだ。迎え入れてくれた人がやたらと丁重だったのも、きっとそういうことなのだろう。まさかこういう業界にまで繋がりがあるとは思っていなかったけど、きっと繋がりの繋がりの繋がりとかで、スタッフの人たちは蘭ちゃんのことをただのVIPとしか認識していないのだろう。しばらく待っていると女性スタッフの方がやってきて、別の場所へ案内される。
「好きなの選んで着ろ」
「そんな急に言われても…しかも種類すごいある」
たくさんのウェディングドレスが飾られている空間は圧巻で特別な場所のように感じた。
漠然と、自分がウェディングドレスを着ることはこの人生では生涯無いだろうと思っていた。結婚をすることは無いと、蘭ちゃんと恋人同士になって暫くした頃から何となくそう思っていたからだ。好きな人といっしょに人生を歩んでいく中で「結婚」という誓約が途中に存在していて、ただそれを通らなくてもいっしょに生きていくことは出来る。お互いの社会的位置で諦めたとかではなく、ただ純粋にしあわせな時間もつらい時間も色々な時間を共有できればそれで良いと、そう思えたことがいつからか自分にとっての宝物になっていた。
「お、これとか良いんじゃね?」
「わ…キレイ」
「着てこいよ」
今までは友人のウェディングドレスをただ「キレイだな」くらいにしか思っていなかったけど、マーメイドやらプリンセスやら、デザインの種類が山のようにある。正直未だに何故突然ここに連れて来られたのかも、何故着るのかも分からず戸惑いだらけ。きっと誰かと将来の約束を交わした人しか着ることが許されていない、穢れの無い純白のドレスというものを、果たして自分が着て良いのかどうかも疑問だけど、このやわらかな純白に包まれるのはやはり自然と胸が高鳴ってしまった。
「どう、かな?」
これほど緊張する瞬間もなかなか無いだろう。カーテンを開く音が、心臓を加速させる。この音は自信がある場合や似合っている場合に効果音として活きるけど、似合っていなかった場合や相手の期待を下回っていた場合はただの虚しい音になってしまう。自分でも似合っているのか、むしろドレスに負けてるのか、よく分からない。スタッフの人が気を遣ってすばやくヘアセットまでしてくれたので、鏡の向こう側にいる自分が余計自分じゃないように感じて何だか気恥ずかしい。
「蘭ちゃん?」
「………」
「蘭ちゃん?おーい?」
「…ウン」
一瞬だけ瞳孔が開いたような気がするけど、そのあとは固まったように何も言葉を発してくれない。似合っていない時は似合ってないと、似合ってるときは似合っていると、躊躇いなく明確に言ってくれる人なので何も言ってもらえないと少し不安になる。数十秒ほど経ってようやく動いたかと思えば、スマホを取り出し急にこちら側にカメラを向けてきた。あ、撮るんだと思ったのも束の間。シャッター音が異常に短く細かいので連写していることが分かった。動いてないのに意味あるのかな、と思っていると「後ろ」とか「そのまま首だけこっち向け」とかカメラマンみたいに要求してくる。しばらくして満足したのか、スマホをしまうと今度はまた何も言わず口元に手を当てながら無表情で視線を投げかけてくる。ドレスが溶けてしまうようなほどの視線が注がれて、こころがじれったい。様子を窺っていると「ん、オッケー」と言われ、着ていた服に着替えてショップを後にした。
ちょうど夕方と夜の隙間のような空色だったので、少し早めのディナーに向かう。青山のレストランに行くのであればもう少しオシャレしてくれば良かったと、適当なファッションで出てきた自分を呪いたくなった。相変わらず今日の行動の意味が分からないままだけど、出てきた料理が美味しくてしあわせを感じているとスマホがバッグの中で振動しているようだった。着信ではなく竜胆くんからのメッセージのようだ。
「竜胆くんから連絡来た」
「竜胆?なんて?」
「兄貴に"写真送り過ぎだから止めるよう言って"だって」
「えー」
「写真って何の?仕事の?」
「さっきのの写真」
「…え?!わたし?なんで?!」
「自慢」
相変わらず意味が分からないけど、とりあえず竜胆くんに迷惑が掛かっている様子が窺えたので謝っておいた。竜胆くんから「似合ってた」とお褒めの言葉を予想外に頂けたけど、まさかさっきの写真が誰かに送られているなんて思ってなかったから顔が少し熱くなってしまう。その後に出てきたイカのフリットもサーロインのローストも赤ワインも、すべて美味しいとは思ったけど動揺していない時に食べたいと思った。
「帰る前にちょっと寄り道してくわ」
「え、どこ…って聞いてもまたひみつって言うんでしょ」
「当たりー」
車で行くほどでも無いくらいあっという間に着いたのは六本木の雑居ビルだった。ほとんどのテナントが潰れてしまっているようで、廃墟とまでは言わないけど人を寄せ付けない雰囲気が存在している。何の躊躇いもなく中に入っていくので「え、入るの?怒られない?」と聞けば「怒られねーよ」と声が返ってきたので、伸びてきた手にまた自分の手を重ねて着いていくことにした。ひとりでは絶対に来れない場所だけど、この右手と繋がっている温度があればどこへでも行けるのだと錯覚させてくれる。着いた先は屋上で、そんなに高くないけど夜の六本木のネオンが視界を占領する。
「わ、六本木がよく分かる。よくこんな場所知ってるね」
「昔よく来てたからな」
高層階から見える夜景とはまた別の眩しさが、ここには存在している。きっとここから六本木の街を見れるのは限られた人間だけ。そう思うとこの光景がより特別なもののような気がして、このまま朝日を迎えるまでずっと眺めていたいとさえ思った。
「…オマエも周りの友達みたいに普通に結婚して教会で式とか挙げたい?」
「え?」
目下に広がる夜景と同じくらい魅了されるバイオレットカラーのまなざしが、流星のように注がれる。少しだけさみしそうに見えるのは、この寂れたビルのせいだろうか。いつもの冗談ぽい感じは無く、言葉に重力のようなものを感じた。
「別にどっちでもいいけど?」
「なんで?」
「なんでって…」
母親がベールダウンを行い、父親とバージンロードを歩き、待っている新郎へ繋がれていく。誓いを交わして、たくさんの人の笑顔に祝福されながら、フラワーシャワーの下をふたりで歩く。最近はその光景に目頭が熱くなることも多くなった。友人が華々しくウエディングドレスを着てしあわせそうに歩いていると、こちらも胸があたたかくなって、しあわせをおすそ分けしてもらえるような気分になる。若い時はいつかわたしもそうなるのかな、なんて自分に置き換えて考えたりしたこともあるけど、特にその願望は抱いていなかった。
「だって、わたしが蘭ちゃんと一緒に歩きたいのは教会じゃないし」
何を考えているのか分からないときも多いけど、意外と分かりやすいときもある。年月を過ごしているからこそ知っている蘭ちゃんの事のひとつかもしれない。今は多分、すこし驚いてる。
「どうしたの蘭ちゃん?今日変だよ」
急にウェディングドレスを試着しに連れて行ったり、結婚したいのかと聞いてきたり、いつもと違う様子に違和感はずっとあった。不思議に思って聞いてみても、なかなか返答は無く時間だけが溶けるように過ぎていく。階数がそんなに高くないビルなので、六本木通りを走る車の音がふたりの間の沈黙の中で響く。この街は、夜も眠らないのだろう。
「オマエの一生、オレが貰うわ」
車のクラクションだとか騒音を無視して、音の隙間を縫うように凛とした声が耳に落とされた。こんなに音で溢れているのに、輪郭が鮮明になった迷いも何もない言葉が、先程までの沈黙を破くように真っ直ぐ贈られる。急にそんなことを真剣に言うから最初は揶揄っているのかと思ってしまったけど、そうではない。きっとこの言葉は、ふたりで過ごして来た年月の積み重ねで生まれて、わたしに届いてくれたのだろう。「もう、捧げてるつもりですけどね」と笑って返せば、くちづけが星の代わりに降ってくる。
「でも、なんで今日だったの?」
「別に意味なんかねーよ。思い立ったから」
ああ、そうだ。この人はそういう人だった。でも、そのおかげでなんでもない日が一生忘れられない日になる。
漆黒のような夜の中に散らばる人工の光より、愛しいと思えるこの人と生涯を共にしようと思う灯火のほうが、ずっとまぶしい。
