・大学設定
・ネームレス

 たった5分の無音が、まるで空白の世界のように感じられて、ひどく居心地が悪い。静寂の5分というのは、このまま永遠にこうでありたいと恍惚に溶け込むような時もあれば、呼吸を躊躇いたくなるほど苦しくてこの場から逃げたくなるような時もあるに違いない。今は間違いなく後者だ。少し前まで繰り広げられていた口論に懐かしささえ感じる。いつもみたいに口悪く喧しく言われる方がまだマシだ。急に声のトーンを低くされると、連鎖するかのように空気の質量まで重くなったみたいに感じる。
 言い合いになる事は、そんなに珍しい事じゃない。お互いが思っていることを言うのも悪いことじゃないと思ってる。そして今回はわたしが100%悪いということも分かっている。だって、この人が怒るときは大抵わたしの事を心配している時だから。なのになかなか謝るための3文字の言葉が出てきてくれない。多分、もう少ししたら頭が冷えて、絞り出すようにその言葉が生まれてきてくれるはず。けど、その時間を迎える前に、この空気の重さで窒息死してしまいそうになる。ひとり暮らしのわたしの部屋の小さなテレビから、金ローのオープニングが遠慮がちに流れ始めた。時計のないこの部屋に21時を告げる合図だ。

「オイ、どこ行くんだヨ」
「…ちょっとひとりになって頭冷やしくるね」

 臆病者のわたしは、この空気から逃げる事を選択した。何も言わないまま立ち上がり、適当な靴を履いてドアに手をかけた瞬間、後ろから声を掛けられる。たった5分程度、声を聞いていなかっただけなのに、ひさびさに向けられた声音に安堵してしまう。お日様に照らされているふかふかの白いふとんみたいな安らぎ。そこに飛び込めないのがもどかしい。逃げるというと聞こえは悪いかもしれないけど、反省するためには一度ひとりにならないと、わたしの頑固な頭と心はきっと言うことを聞いてくれない。面倒な性格だな、とつくづく自分でも思う。

「じゃあオレが出てく。つか、こんな時間にひとりで外に出ようとすんな」
「え……ヤダ」
「あ?!ンでだヨ!外暗ェし危ねーだろうが」
「だって、靖友が出て行ったら今日もう戻ってこないでしょ?帰っちゃうでしょ?それは…ヤダ」
「…ちゃんと戻ってくっから待ってろ」
「ほんと?絶対そのまま帰らない?」
「しつけェな!ちょっとコンビニ行ったら帰ってくっから、おまえは大人しく家にいろ」
「コンビニ?じゃあ、わたしもコンビニ行く!」
「ハァ?!ひとりになりたいんじゃねーのかヨ」
「そうだけど…でもやっぱり、いっしょにいたいし」
「ったくよォ…じゃあなんか上着羽織ってこい、風邪引くからァ」

 仲直りしていないのに、頭の上に少し雑に乗っけられた手のひらが、漂っていた重い空気を少しだけやわらかくしてくれたような気がした。急いでクローゼットの中にある適当な上着を羽織る。いつもは時間を掛けて選ぶアウターも、今は何も意識せずにいちばん手に取りやすかったものを選んだ。置いていかれることは絶対に無いと分かっているから、多分少しでも早くいっしょに外を歩きたかったんだと思う。ドアを開けると、冬の夜の冷たい空気が肌を刺す。吐く息は、夜の濃い青に映えるように白く淡く浮かぶ。暖かかった室内から、冷たい外の世界に触れた瞬間の温度差が、頭をより冷静にさせてくれた。
 冬の夜が纏っている独特の冷たい空気は嫌いじゃない。ただし、この人と歩くとき限定で。わたしより半歩先を歩いてこちらを見ていなくても、手を重ねられるのを待つように後ろに差し出された手が愛おしい。喧嘩をしていても当たり前に差し出されたその手に、自分の手を重ねる。冬はいつもわたしの手を冷たいと文句を言う癖に、絶対に離さないでいてくれる事を、わたしは知っている。この人がわたしといる時だけ手袋をしないのは、わたしが手を繋ぐ事が好きだからだというのも知っている。冷たい空気に触れている肌はなかなか温かくはならないけれど、こころはホットココアみたいにあたたかくて甘いので、寒くはない。

「っくしゅ!あー…鼻水出そう」
「つか前ちゃんと閉めてこいヨ!マフラーも持って来てねェし」
「だって急いでたから」

 コンビニまでの通り道の公園で一時停止して、ぶつぶつ言いながらもわたしの上着のファスナーを上まで上げてくれる。おまけにわたしの首元に、自分がつけていたマフラーをぐるぐると何重にも巻いてくれた。おかげで首だけじゃなくて口元まで半分覆われる。でもきっと、このにやけが溢れてしまっている口元は隠しきれていない。

「あ?なに笑ってんだよ」
「んーん、あったかいなって思って。ありがと」

 てっきり「っせ!」とか「調子いーんだヨ」とか言われるかと思っていたのに、訪れたのは予想していなかった静寂だった。けど、先程部屋で感じていたような澱んだ空気は一切ない。冬の澄んだ空気に消されているとかではなく、ただ静かな時間がゆっくりと流れている。なんとなく見られているような気がして、何故か恥ずかしくなってきてしまったので視線を交えることも躊躇ってしまい、目線は彷徨うように足元へ向けてしまう。瞬きさえも出来ずにいると、マフラーの口元部分が彼の人差し指で一気に下げられた。ひさびさにくちびるのすべてが外気にさらされて一瞬の冷たさを感じる。「わ」とちいさな驚きの声が出そうになったけど、それは鮮やかに塞がれるようにかき消された。重ねられたくちびるは一瞬で離れたのに、全身を巡っている血液が一気に熱を持つ。いくら夜で暗くて人がいないからと言って、外でこういう事をする人ではないから、思考回路が一時停止してしまった。ふと前を見た時には、もう後ろ姿で、わたしの身長に合わせて首が疲れたのか、後ろの首を片手で抑えている。しばらくするとその手はまた、後ろに差し出されたので、小走りで追いかけてまた手を重ねれば、呼応するかのように握り返された。

「…なんで喧嘩してたんだっけ?」
「…忘れたァ」
「忘れたけど、ごめんね。ほんとは分かってるから。靖友が怒ってるとき、いつもわたしのこと思ってくれてるからだって」
「あー…オレも悪かったな、怒鳴って」
「いつも割と怒鳴ってるけど」
「アァ?!」

 結局コンビニでは自販機でも買えるホットの飲み物と適当に選んだお菓子を買った。あたたかい飲み物を持ったおかげで、指は冷たくなくなったけど、帰り道も当たり前のように手を繋ぐ。
 見えたことがないペテルギウス、シリウス、プロキオンで結ばれる冬の大三角形よりも、今結ばれているこのふたつのなんでもない手の方が、わたしには眩しく輝いて映った。