ゴンドリエーレが陽気に歌いながらゆるやかに舟を漕いでいるかのように心地が好い。でも、規則的に聞こえる機械音は思考を一気に現実に引き戻す。重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界の輪郭が曖昧だ。何度か瞬きを繰り返し、だんだんと目に映るちいさな世界が鮮明になってきたところで、ようやく自分が電車の中でウトウトしていたことに気づく。同時に、右隣りの白いシャツを着た男性にもたれかかっていた事にも気づいた。

「あ、起きました?」

 今日は大学のゼミ飲み会だった。普段はそんなに飲まないくせに、今日は研究内容の議論でやたらとヒートアップしてしまい、みんなで熱い意見を交わすというある意味真面目なお酒の場となった。やたらと盛り上がり楽しくなってしまったわたしは、喉を潤すかのようにお酒を勢い良く浴びるように飲んでいた気がする。案の定ふわふわとした気分になり、そこから先の事はあまり覚えていない。確か、ひとつ下の後輩である赤葦くんが同じ方面だから、誰かにわたしを送るように言われていたような。こうして意識が少しずつ鮮明になってくると申し訳なくて仕方がない思いに駆られる。

「ごめん、わたし完全に赤葦くんに寄り掛かってたよね」

 赤葦くんはゼミの中でも数少ない帰る方面が同じ人なので、今までも何度か一緒に帰ったことがある。ゼミの話や大学生活、バイト、高校時代の話や他愛もない話なんかをよくしていた。流れるように過ぎ去っていく車窓からの景色。電車の発車メロディー。毎日何も変わらない光景な筈なのに、赤葦くんと一緒に帰っている時だけやさしくて楽しい世界だと思っていることに、普段のわたしは気づいていない。

「気にしないで下さい」

 本を読んでいたらしい彼はそのうつくしい手で静かに本を閉じた。バレーをやっているとは思えないほどキレイな手をしている。爪はキレイに整えられているし、指は長くて、血管がうっすらと浮き出ている骨ばった手は、思わず見惚れてしまいそうになる。きっと酔っているからこんな馬鹿みたいな事を考えてしまうのだろう。
 車内アナウンスがまだ覚醒していない耳殻を通り、次の駅を知らせる。そこでようやく15分くらい寝ていた事に気づく。思っていたより時間が経っていたような経っていないような。けれど、自宅の駅まではまだあと少しある。終電では無いものの、飲みやご飯の帰りであろう時間帯のため、それなりに多くの人が電車に乗っているようだ。

「なんか…ひさびさに酔ったかも」
さんにしては珍しく結構飲んでたみたいですけど大丈夫ですか?」
「…気持ち悪い気がしないでもない」
「次の駅で1回降りましょう」

 酔っているためか身体の自由が効かず、電車がスピードを緩めるためにかけたブレーキのタイミングで、わたしの身体は流れるように左側、つまり彼がいる方とは反対側の方へ勢い良くぶつかりそうになった。それを予想してくれたのか、彼はわたしの左肩を些かぎこちなくも力強く支えてくれて、左隣の人にぶつかるのを防いでくれた。小さな声で「すみません」と言われ「立てますか?」と聞かれたのでコクリと首を振ることで答えた。

 初めて降りたこの駅は、主に住宅街が広がる駅だったようで少しばかりの静寂を感じる。電車を降りた人たちはみんな真っ直ぐに改札を抜けていき、時間も時間なのでホームで電車を待っている人はほとんどいない。夜の静かで凛とした空気は嫌いじゃない。ベンチに座るように言われていたわたしは、そんなことをぼんやりと思いながら自販機で水を買って来てくれている赤葦くんの背中を見ていた。

「大丈夫ですか?」
「おかげさまで何とか…赤葦くんって面倒見良いよね」
「高校の時からこういう役回りが多かったので」

 ペットボトルの水を口につけようとした時、顔にかかる髪を耳にかけようとした瞬間、視界の端っこに彼の長い指が映った。緩慢としたような動きで耳に髪をかけてくれたその所作にどう反応すべきか分からず、世界の時間がすべて止まったみたいに動けなる。瞬きをすることも出来ず、くちびるも動かせず、感謝の言葉を紡ぐことさえ出来ない。呼吸さえも止まってしまってるんじゃないかと錯覚してしまうくらいだ。ようやくホームのアスファルトに向かって絞り出せた小さな「ありがとう」が隣にいる彼に届いたのかは分からない。ミネラルウォーターのペットボトルがわたしの微睡んでいた頭を醒ましてくれる前に酔いがどこかへ飛んでいった。ゆっくりと、彼の方へ身体を向けたは良いけど、何となく顔が見れず、そこでようやくわたしは彼の白いシャツの肩部分がうっすらとピンク色に染まってることに気づいた。

「わ…!ごめん、わたしのチークがシャツに着いちゃってる」

 電車の中でワイシャツに女性のくちべにがついてしまうサラリーマンがいるという話は聞いたことがあるけど、チークがついてしまうなんて相当寄り掛かっていたのだろう。無駄なことは分かっていてもハンカチで拭わずにはいられない。いきなり距離を勢い良く詰めてきたわたしに赤葦くんは若干驚いた顔を見せたけど、その後すぐに緩やかな微笑みを見せたような気がした。

「んー…やっぱり取れない」
「気にしなくて良いですよ」
「洗って…いやクリーニングしてお返しします」

 むしろチークのピンクは桜が咲くみたいに白いシャツにうっすら広がってしまったように感じる。彼の腕を掴みながら項垂れているわたしの頭上にくすりとした笑い声が降ったような気がした。実際に音は出てないのに、何だか不思議とそんな気がして顔を上げると、やっぱり笑ってる彼の顔と出会った。あまりの近さに吃驚したけど、そもそも近づいたのはわたしだ。今度は心臓が止まったみたいに動けなくなってしまって、結局ふたりの距離は変わらないまま。

「どうして笑ってるの?」
「すみません、一生懸命な姿がかわいくて」

 言われた言葉をすぐには理解出来なくて、夢の中を彷徨うみたいに自分を逃避行させてしまった気がする。けど、引力が働いたみたいに、すぐに何かの力で現実に引き戻らされて、気づいたときには胸の内側から身体が熱くなってることに気づいた。顔がカッとなったように火照っている気がする。

「頬、赤いですよ?」

 意地悪な表情と「まるでチークはもう落ちているのに」とでも言いたげな台詞に、勢い良く後ろに下がり両手で頬を隠すという少女漫画みたいな事をしてしまった。せめて「酔っているから」とでも言っておいた方が良かっただろうか。いや、きっとそんなつまらない嘘は通用しない。何を言おうか視線を彷徨わせていると、彼の双眸とぶつかってしまった。どうしてよりによってわたしは彼の顔を見てしまったのか。重なるように合ってしまった目を逸らすことが出来ないことなど、わかっていた筈なのに。

「こ、これは」

 よく考えたらわたしは今、チークも取れて、おそらくファンデーションもよれて、目はパンダで、くちびるについていたリップなんてどこかへ行ってしまったんじゃないだろうか。そう考えたら余計に恥ずかしくなってしまい、なのに彼の真っ直ぐな目から視線を離せないという、どうしようもない事態に心がひとり嘆いている。先ほどまで静かに感じていた夜の世界は、一瞬で騒がしくなった。心臓がやたらとうるさい。

「隠さないで下さい」

 距離を埋めるように彼の腕がすっと伸びてくる。彼の大きい手と長い指はわたしの腕をやさしく掴んだ。顔を隠すものがなくなってしまったわたしは、もう一度顔を覆い隠そうとするけど彼の手がそれを許してくれず、やさしいのに不思議と強い意志を感じる。掴まれている部分からまたじわじわと身体が火照っていくのは、彼の手から伝わる体温が熱いからか、それともわたしの胸が熱いからなのか。きっとその両方なのかもしれない。

さんのそういう顔、もっと見たいから」

 耳元で囁かれるように伝えられた言葉に、心臓が眩暈を起こす。この夜に隠れることも出来ないくらい溢れ出たふたつの想いが、ゆっくりと静かに重なっていくような気がした。