忘れるのと忘れられるの、どっちがつらいかな?って聞いたら「はそういう答えが出ないこと考えるの好きだよね」と穏やかな微笑みを浮かべながら言われた。




 東京では滅多に雪は降らないけれど、都心と山奥では少し違う。新宿と高専があるこの場所だったら、こちらの方が平均1度〜2度は寒いに違いない。そんな山奥みたいなここもそろそろ次の季節を迎える。吐く息が白くなる季節の終わりを告げるかのように陽は長くなり、風はあたたかくなって花の香りを運び始めた。
 この季節に眠くなる理由は様々らしいけど、気温の寒暖差による自律神経の乱れが原因と言われることもあるとか何とか。前に傑がそう教えてくれたけど、何だか難しそうな話だなと思ってあまり聞いていなかった。今だって、夕焼けに眩しさを感じながらも教室の机に突っ伏して微睡みの中を彷徨っている。ふと、頭を撫でられている感覚がして、あれ?悟帰ってきたのかな?地方に長期任務で数週間から下手したら数ヶ月くらい帰って来れないかもって言ってたけど、と思いながらゆっくり頭を上げると、そこにはやわらかく微笑んでいる傑がいた。

「ん…傑?」
「花びら、髪についていたよ」

 窓から見える大きな木の枝から、風に乗って教室まで運ばれたらしい淡いピンクの花びらはとても繊細で薄くて、少し力を入れたら簡単に破けてしまいそうだった。多くは無いけど、気づいたら教室の床にも数枚落ちている。

「また寝ていたのかい?」
「傑に言われて授業中は頑張って起きてるんだから、任務も何も無い放課後くらい良いでしょ?」
「そうだね」

 呆れながら笑われたけど、不思議と嫌な感じは一切しない。手の甲をおでこにつけて寝ていたからか、前髪が乱れておでこが少し赤くなっていることを何となく自覚した。慌てて指で前髪を直していると、傑のクスっとしたやさしい笑い声が耳に落ちてくる。鏡なんて持ってないから手探りで適当に直していたわたしの指の代わりに、傑の骨ばった指がわたしの前髪にふわりと触れる。悟と違ってやさしく触れてきた指は長くてきれいで、おまけに「はい、かわいく戻ったよ」なんて平気で言うから、わたしの心臓はすこしだけうるさくなってしまった。ほんのりと色づいてしまったであろう頬は、夕焼けのせいにしよう。そのまま傑の指はわたしの耳に髪をかけると、露わになった耳の輪郭を確かめるようにゆっくりとなぞった。その行為も、近づく距離もあまりに自然過ぎて、ギリギリまで気づかなった。くちびるが触れる直前に、ようやく言葉を音にして出せた気がする。

「ダメ、だよ」
「どうして?」
「どうしてって、知ってるでしょ?」
「何を?」
「だって、わたしは悟の」

 せっかく生まれかけた言葉は、重なったふたつのくちびるに飲み込まれるように消えてしまった。いつの間にか掴まれていた手首はとても力強くて、痛くはないけどそれ以上強く掴まれたら折れてしまうんじゃないかと思わされるくらい。悟と違ってわたしや硝子のことも丁重に扱ってくれる傑にしては珍しく感じて、でもだからこそ傑の意志の強さを感じた。一切動けなくて、瞬きすることも躊躇ってしまうような不思議な感覚。頭はすっかり覚醒している筈なのに、まだ夢の中を彷徨っているような、そんな感じ。「もちろん知っているよ。でも、聞こえなかったな」なんて、薄い笑みを浮かべた傑に、わたしはどうしてか胸がきゅっと締めつけられた。

▽▽▽


 それから数日は特にいつもと変わりない日々を過ごした。不思議と核心を問いたいとは思わなかったし、傑も何も伝えては来なかった。
 教室の窓から見えるあの大きい木の下で日向ぼっこをしていると「やぁ」と声を掛けられた。見上げた先には傑の顔とふんわりとした満開のピンクと澄んだ水色。すべてが息をのむほどうつくしく重なっている。「地面に座っているとスカートが汚れてしまうよ」と相変わらず保護者みたいな事を言うので「制服だし洗えばへーき」と答えれば、またちいさく笑って「それもそうだね」と傑も隣に腰をおろした。薄くやわらかいピンクの花びらが敷きつめられた絨毯の上で、こっそりと小指が繋がれる。受け入れているわけでもないけど、拒否しているわけでもない自分がよく分からない。どうしてこんな事するのと言う意味を込めて傑の目を見たら、繋がれていないもう片方の腕がスッと伸びてきて、頭を撫でられたかと思えばぐっと後頭部を引き寄せられた。もしかして、またキスをされるのかと身体に力が入ってしまった自分が少し恥ずかしい。傑のくちびるはわたしの耳に触れるか触れないかの距離で動いた。

「君の意思を無視することで、この感情を正当化させてほしい」

 頭の奥に響くようなその言葉は、催眠術みたいにすべての思考を朦朧とさせた。ゆっくりと瞼を閉じて、再び重ねられたくちびるは繋がれた小指のせいにして、ただただピンクの花びらたちはぐしゃりと皺を寄せた。

▽▽▽


 花曇りが続いていたある日、ひさびさに雨が降った。地面を刺すような強い雨で、うつくしいこの季節が終わってしまうのでは無いかという寂寥感に似た何かを感じていた。そんなつまらない不安が足を引っ張ったのか、わたしは単独任務で少し失敗をしてしまい、怪我をしたことによって軽い熱を出してしまう。すぐに硝子に見てもらえたし大した事ないということだったけど、安静にしてろと言われたのでその日はすぐに部屋のベッドで眠ることにした。頬に切り傷を作ってしまって、この年で恥ずかしいななんて思いながらも、薬のおかげで不明瞭な世界を彷徨っているみたいにふわふわとした感覚に沈んでいる。

「何やってんの?」

 ぼんやりしている頭の中に、悟の声が聞こえてきた。ひさしぶりに声、聞いた気がする。でも少し遠くで聞こえる気がして、あれ?じゃあ今わたしの頬を傷口には触れないようにやさしく撫でているのは誰なんだろうと思いながらも、瞼を持ち上げる勇気は無かった。

「…やあ、お帰り悟。早かったね」

 ふたりの声がやたらと重低音で、決して混ざり合わないその声たちによって、不明瞭だった世界から明確な世界へと呼び戻されてしまった。息を、呼吸をするのも躊躇してしまうくらい空気が苦しい。少し前みたいに、早くふたりの馬鹿みたいだけど楽しい会話を聞かせてほしい。そしたら、それがきっと何よりの子守唄代わりになって、わたしはゆっくりと眠れることが出来るから。そこまで考えたところで、わたしはようやく自分のずるさを認識した。

がドジ踏んだって聞いたから」
「それで急いで任務を終わらせたのか、悟らしいね」
「そもそもこんなに長くなると思わなかったけどな」

 普通に話しているように見えるけど、ふたりともどこか普通じゃない。肌に刺さるような沈黙の間に、ふたりは水面下で会話をしているのだろうか。ベッドがギシリと軋む音がしたので、おそらく腰掛けていたであろう傑が立ち上がったのだと察した。きっとこのまま部屋を出て、扉の向こう側へ行くのだろう。

「傑、」
「何だい?」

 傑が最初からひとりで悪者になろうとしていたのをわたしは気づいていた。
 ふたりはすれ違いざまに何かをちいさな声で話していたようだけど、当然わたしには聞こえない。扉が閉まる音だけは鮮明に聞こえた。
 悟とふたりきりになった部屋の中で、ひさしぶりに悟にくちづけされて、童話の中のお姫様みたいに目を覚ますふりをした。悟にはお見通しかな、なんて思ったけど、存外心配そうにこちらを見ていた悟の表情に、わたしは泣きそうになってしまった。

 窓から入る風が傷ついた頬を扇動するかのように撫でる。少し冷たくて珍しく寒い日だった。
 そしてあれから数カ月後。蝉が死に、月が優艶と輝き始める季節がやってきた頃、傑が例の事件と共に姿を消した。


▽▽▽


 アルバムにも何にも残っていないそんな日々から10年は経った今、教室から見えていたあの木は今も形を変えることなく残っている。けど、雪が溶けた陽だまりの中を一瞬だけ重ねるようにして過ごした傑との時間は、まぼろしみたいに消えて無くなった。それなのに毎年この季節がやってくると思い出してしまう。今、わたしの隣で笑って手を繋いでいるのは愛しい筈の悟なのに。

 忘れられないのが一番つらいと知ったあの日の花冷えに、さよならを言える日は来るのだろうか。