瞼を閉じたくなる程の眩い光を放つくせに、すぐに消えてしまう夕陽が鬱陶しくて仕方のない此頃。夜が訪れることを望んでいるのか拒んでいるのかも分からない、その曖昧な世界も感傷も何もかもが煩わしい。夕焼けのグラデーションは今日も小さく何かを訴えているようだと、花宮はひとり静かに感じていた。
期末考査の1週間前、勉学に専念すべくほとんどの学校の部活動は禁止される。優等生を演じる花宮にとって期末考査なんてものは、ペンを回すくらい造作も無いことであり、今更特に慌てる必要もない。授業が終わり、学校の門を出て用もなく適当に本屋に寄ってみてはつまらない本たちを眺める。下らないフィクションを繰り広げる本たちは整然と並べられており、まるで退屈そうだ。本とは、書く人間と読む人間が存在して初めて意味を持つというのに、誰にも触れられずただひっそりと佇むこの本たちに、憐憫のようなものを抱きながら帰路につく。ごく普通の帰り道。然し、自宅の近くで遭遇した人物に花宮の鼓動は浅瀬の波のようにざわりと揺れた。音は小さくても確かな輪郭を持つ懸念を孕んだゆるやかな波。心の中での舌打ちが本人の鼓膜にはやたらと響く。それが開演の鐘だったのか警鐘だったのかは、誰も知らない。
「久しぶりやなぁ、花宮」
「どうも」
「この時間に帰ってくるっちゅーことは、お前んとこも試験前みたいやな」
花宮が警戒する数少ない相手である今吉は、彼の中学時代の先輩であり、いつものように飄々とした笑顔を浮かべ花宮の前に立つ。今吉は花宮の家の隣に住むを家まで送り届けたあとのようだ。心を読み取られないよう、出来るだけ表情を固定し歪まないよう試みる花宮ではあるが、今吉相手だとどうも上手くいかないらしい。本人も気づいていないような僅かな歪みに、今吉は三日月のような口元で花宮の心臓を喰らうように言葉を紡ぐ。お互いが言葉のひとつひとつに神経を張り巡らせるその様子に、アスファルトが悲鳴を上げている気がしたのは花宮だけではない筈だ。
「ここ最近なぁ、の雰囲気が少し変わった気すんねん」
「なんですか、いきなり。つーか、そんなことオレが知るわけないじゃないですか」
「今更ワシの前でイイ子ぶらんでもええやろ」
「…で、結局何が言いたいんだよ?」
「んとこの学校も、もうすぐ試験らしいねん。せやからお前、に勉強教えたってや」
薄っぺらい理性は脆くも崩れ去り、花宮の表情は本人が分かるほど歪んだ。「はぁ?」花宮がそう思うのは至極当然である。脈絡の無いことをいきなり言われ、おまけにと呼ばれるその女は花宮の幼馴染であると同時に、今吉の恋人でもあるのだから。お前が教えろよ、花宮がそう思うのは人間ならば何の不思議も無い、当たり前のことだ。然し、今吉はそれ以上何も語ること無く「ほな」と後を去る。そんな男の後ろ姿を見ながら、花宮は空気を震えさせるほどの舌打ちをした。
玄関の扉を開け、花宮は躊躇なく自室に入る。思わず涙が出そうになるほどの赤や橙が繰り広げるグラデーション。見たいような見たくないような、そんな夕陽が窓を貫通し、ベッドの白いシーツに映し出される。まるで燃えそうだった。
花宮はカバンを置くと、学校の規則に基づいた個性の無い窮屈な制服を脱ぎ始める。一連の決められた動作のようにブレザーをハンガーに掛け、ネクタイを緩めているところで何やら地鳴りのような、勢いのある足音がだんだんと近づくように聞こえてきた。聞き覚えのあるその音は、耳障りでもあり心地好いという矛盾を併せ持つから不思議だ。花宮は息をひとつ吐き、扉が開かれるのを静かに待った。
「真くん、お帰り!」
「勝手に人ん家に入ってくんじゃねぇよ」
「おばさんが入れてくれたんだもん。あ、買い物行ってくるって言ってたよ」
まるで自分の部屋のように許可もなく勝手にベッドに腰掛けるに、花宮は何も言わなかった。これが二人の日常でもあるからだ。霧崎第一でもない、桐皇の制服でもない、他校の制服を身に纏い、足をブラブラとさせる女の動作には、まだ少女特有のあどけなさが残っている。
は花宮や今吉と同じ中学であり、花宮や今吉が所属するバスケ部の練習をよく見に行っていた。花宮は当初、幼馴染の腐れ縁の自分を見に来ているのだろうと思っていたのだが、それは間違いだったと後に知ることになる。今吉が卒業し、花宮たちが中学三年に進学した頃。幼馴染であると今吉が恋人になったという事実が花宮に伝わる。それから約一年が経ち、花宮は霧崎第一へ、は霧崎第一でもなく桐皇学園でもない、全く違う高校へと進学した。
花宮がいなければ、二人は決して出逢うこともなかっただろうし、結ばれることもなかっただろう。と今吉が恋人同士になったと知った時、花宮は何を思ったのか。本人も明確に分からないその答えを知っているのは、もしかしたら彼ら二人に一番近い距離にいた、当事者でもあり第三者でもある今吉だけかもしれない。
「ねー真くん、もうすぐ試験だから勉強教えて!」
「お前もかよ…」
「え?」
「あの人に教われば良いだろ」
「だって、最近なんか微妙だから」
「家まで送ってもらったくせに何言ってやがる」
「え、何で知ってるの?」
「さっきそこで会ったんだよ」
語尾がほとんど消えながら呟いたの「そっか」は、少女のあどけなさをも消していた。その雰囲気に些かの重さを感じた花宮の中には不思議な感覚が芽生える。煩わしいと思ってはいるが、やはり長年隣で育ってきた特別な存在でもある幼馴染。そんな幼馴染が悩んでいる姿を見て、言葉では形容出来ない感覚が心の中で渦を巻く。「最近、すれ違いが多くて…今日も久しぶりに一緒に帰ったけど帰り道でも会話ほとんどないし」とは花宮に話しているのか空気に話しているのか分からないくらいの小さな声でぽつぽつと語り始める。あの男はの雰囲気が変わったと確かに言った。然し、花宮には今のところそのように感じる要素は無い。学校が違うのにわざわざ待ち合わせをしてまで一緒に帰り、試験前だからとまだ明るさが残る時間に送り届けてくれるという要素の中に、懸念すべき点などあるようには思えなかった。それとも、恋人という特別な仲だから気づいたということだろうか。些かの苛立ちが芽生えながら、花宮は黙ってベッドに座るを静かに見下ろす。長い睫毛で隠れた、の双眸の奥を想像しながら。
「ねえ、もう別れた方が良いのかな?」
「知るかよ」
カーペットの上に落ちる無気力な言葉の真意は欠片も読み取れない。いつも元気で無邪気なのこんな姿を見るのは花宮でさえ殆どと言って良いほど経験が無く、些かの違和感を感じる。そもそも自分には関係がない筈なのだから。今まで散々聞いてもいない惚気話を朗読のように語ってきたこの女から、まさかこんな話を聞かされることになるとは。花宮は自分の部屋にも関わらず、自身の行き場を探し、とりあえず椅子に腰掛けようとした。然しその瞬間、俯いているから「ねぇ」と再び声を掛けられる。その声はやたらと低いのに甘ったるくて、女の声をしていた。自分の知らない、がいる。
「真くん、慰めてくれる?」
―こいつ、やっぱりバカなのか?いや、違う。
自然と上目遣いになったの双眸には、決して零れはしないであろう涙がうっすらと溜まっていた。思考回路が他人より早い花宮は一瞬にして、ある結論に至る。それが自分の書いたシナリオでは無い、誰かのシナリオだったとしても、結末が重なるなら良しとすべきか。
気づいたら、夕焼けの明るさは一瞬で消えてしまったと思えるほど呆気なく消え、夜が街も人をも飲み込み始める頃になっていた。この部屋に在るベッドも静かな黒に染まる。夕焼けのグラデーションは、やがて侵略されるかのように鮮明な夜にすべて上書きされた。
純粋の欠片も無い、花宮の幼馴染は彼も気づかないうちにいつの間にか美しい白を自分の色に染める「女」になっていたのだ。
ベットがぎしりと終焉と誕生への音を奏で、二人分の重みで沈む。
女ということを活かし、彼女が書いた一年以上に渡るひとつの長い物語。そんな愉快で滑稽な物語は、まるで夜がやってくるかのようにひとつの終止符をうち、新たな物語の開幕を迎える。ひとりの男は夜に浮かぶ三日月を見上げながら、すべてを見透かしているかのような不気味な笑みを夜に溶けこませた。そして、そんな物語の主人公でもあり読者でもあるもうひとりの男はー
さぁ、この窮屈な世界で一番バカなのは、どいつだ?

<企画サイト「HEPATICA」提出作品>