「どうしたの、ボーっとして」
「べつにー」
「あれ、ご機嫌ななめ?」
片方が動くともう片方にまでその波が伝わるほどに狭いソファー。私の部屋のこのソファーでは、きっと体格の良い彼には窮屈なはず。そろそろ買い換えようかな、と伝えたら今度一緒にIKEAにでも行こうかと言ってくれた。そんなあともう少しでおさらばの狭いソファーの上で、お互いがそれぞれの時間を過ごすのはいつものこと。例えば今日、彼は難しそうな文庫小説を読んでいるし、私はレンタルショップで借りてきたラブロマンス映画を観ていた。それでも、認識出来る距離にお互いが存在しており、過ごす内容は異なっていても時間を共有するということに意味がある。付き合いが長い私たちにとって、最早こういう過ごし方は退屈などというものではなく、安堵する時間のひとつなのだ。
然し、矛盾するようではあるが予想外につまらない映画に今日の私は早くも退屈してしまった。故にふと、自分の毛先を見てしまったがために訪れた悪夢。後悔しても今更遅い。枝分かれした自分の毛先を今日初めて見て「これが枝毛か…!」と興奮したのも束の間。一本どころではないそれらに恐怖さえ覚えた。ご機嫌ななめなどというレベルではない。彼の問いかけは鮮やかにスルーし、私はネイルをする時よりも集中して自分の毛先を凝視する。
結果、予想していなかった真実を知ることになる。自分の後頭部を手のひらで撫でてみると何だかゴワゴワしているような気がする。おまけに毛先の枝分かれは2方向だけでは無い。3方向にも4方向にも5方向にも分岐している。どうなったらこんなことになるのか、観察記録をつけたかった程だ。そう思ったところでふと、あらゆる方向に枝分かれしている毛先が今の自分のようにも感じられた。やりたいこと、やってみたいことがいっぱいある。仕事や勉強、家族や友人、恋人と過ごす時間。趣味や美容や健康に費やす時間。世界中に生存しているヒトに問いたい。一体どのようにして複数の時間を進行させているのだろう。不器用な私はどれもきっと中途半端。真っ直ぐだったラインは分岐して、やがて脆くなる。もしかしたら、彼に費やす時間さえも中途半端になっているのかもしれない。そう思ったら無性に悲しくて、無性に寂しくなった。
「ねえ、くっついても良い?」
「もうくっついてるじゃないか」
間髪入れずに返ってきた答えは正論である。狭いソファーの小さな世界で、私たちの肩は意識せずとも寄り添うのだから。けれどそうじゃない。もっと腕にくっついたり、彼の肩にもたれかかったり、むしろ抱きつきたいくらい。頬に空気を含み、子供じみた不満の表情を彼に向けると、人差し指でつんと頬を突かれた。空気が抜けるとおかしそうに微笑む彼は、何だかとても楽しそうだ。
「意地悪!」
「さっきオレの言葉を無視したからお返し」
「む、無視したわけじゃないよ。答えなかっただけだよ」
「冗談だよ。ほら、おいで」
やわらかい柔軟剤の香りがする彼の胸元へ思いっきり抱きついてやった。柔軟剤のCMで服をこすると花がふわりと咲くような演出を見たことがあるけれど、成程。確かにイメージは間違っていない。広大で穏やかな花畑にダイブしたような感覚を覚える。鼻先を擽るとても落ち着く香りがした。そこでふと、彼の大きな手のひらが私の頭をゆっくりと撫でていることに気づいた。その行動に違和感は無く、彼が私に対してよくやる所作だ。然し、私の髪は最早キューティクルの欠片も存在しない。女性の髪は艶やかさが際立つべきであろうに、蓄積されたダメージが浮き出るこの悲しい髪は何も語ることが出来ない。彼は何を思ってこの行為をしてくれているのだろうと、そっと首だけ上に向けると、やさしい顔をした彼の表情と遭遇する。こんな人形の髪みたいな髪に触れて不快にならないものだろうか。
「の髪って、なんだか触れたくなる」
その言葉の意味が全く理解出来ず、自分でもう一度だけ髪を撫でてみた。その動作に、彼が「ね?」と同意を求める言葉を投げかけてくる。その穏やかで優しい笑みに誘導されたからか、自惚れだと思う余裕すらもなく思わず首を縦に振ってしまった。けれど、すぐに確かに彼が言った言葉が真実だということを知る。驚くことに先程までと全く触り心地が違うのだ。彼が触れた私の髪は、まるで花が咲く春の陽みたいにやわらかい。彼との距離をほんの少しだけ開き、今度は自分の毛先を見る。無い、いない、見つけられない。先ほど見つけた枝毛は何処かへ旅立つように消えてしまったのだ。それとも冬眠から目覚めた芽吹きのように新しい姿に生まれ変わったというのだろうか。
先日替えたネールピンクのカーテンが、あたたかさを孕んだ風でゆらりと揺れる。春の香りを存分に含んだ風は、私の髪をゆらゆらとなびかせる。
花畑でも青空の下でもない、彼とこの部屋で過ごす何の変哲も無い平凡な今日もまた、なんて穏やかでやさしい一日だろう。