真っ黒なのに、夜の海は思っていたよりずっと穏やかで優しい。宝石みたいに眩しく燦々と輝く星々が、この世界を静かに、けれど明るく照らしているからだろうか。それとも、わたしの右手に宿るあたたかさのおかげだろうか。さらさらとした砂の上に、ふたり分の足跡をつける。ふかふかの絨毯みたいに靴が沈んでしまうから、時折握る手に力を込めてしまう。それなのに、彼は全くフラつくことなく灯台みたいにわたしを前へと導いてくれる。やたらと響くように聞こえる波の音は、何もかもを包み込んでしまうように澄んでいて、オルゴールにして持ち帰りたいくらい美しい。


「ふう」
「どうしたの?」
「いや、緊張したなって思って」
「辰也くんでも緊張することってあるんだ」


 ようやく取れた彼の休暇に合わせて、海がある街へ旅行にやってきた。まさに非日常とはこの事。都心に揺らぐことなく堂々と立ち並ぶグレーの高層ビル群に、多くの人で埋まる交差点。数えきれない程の車が走り、時折甲高く聞こえるクラクション音やバイクのエンジン音。ハイヒールの早歩きで響くアスファルトや友人同士で楽しそうに会話をする笑い声。多くの、様々な人々が生み出す日常と景色。そんな光景を微塵も感じさせないこの街は、きっとどこよりも純粋で穏やかだ。空は青く澄みきっていて高く、どこまでも続く海と空との境界線が美しい。視界に入る広い風景が解放感を生んでくれる。時間はいつだって変わらず平等に流れているはずなのに、秒針の進み方が違うと錯覚してしまうくらい、この非日常の空間に酔いしれている。けれど、それも明日で終わり。旅行は楽しいけれど、帰ってきた瞬間が少し寂しくもある。そんな風に思っていた。


「オレだって緊張することくらいあるよ」


 それはほんの10分前の出来事だった。
 今日が旅行最後の夜になるからと、ホテルからすぐ近くにある海を少し散歩することにした。夜の海は少し肌寒く感じたけど、彼が貸してくれたカーディガンと、彼に繋がれた右手のおかげでちっとも寒くない。今までのわたしだったら、夜の海なんてきっとこわくて行けなかった。けど、彼とふたりで歩く海岸はむしろあたたかく感じて、どこまでも一緒に歩いていきたいと思った程だ。そんなことをひとりで考えながら3分ほど。会話もなく散歩したところで彼は急に止まった。そして、本当に突然。なんの兆候も感じさせず一言。「結婚して下さい」と言った。波の音に一切掻き消されることなく澄んで聞こえた彼の言葉は、わたしの心にやさしい白波を生んだ。


「そっか」
「でも、今日が今まで生きてきて一番緊張したかな」


 彼とは長く付き合っているけど、今まで「結婚」に関する話題が出ることは殆どと言って良い程なかった。本当に、一切、ひとつも。こんな事を言うのは可笑しいかもしれないけど、彼がそういう話をしないことが意外で仕方なかった。家族を持ちたそうなのに、わたしにはそういう話をしない。彼を知る人に相談した事もあるが、やはり皆して意外だと言っていた。でもわたしから「結婚」に関する話題を出してしまったら、今までのしあわせな時間をすべて壊してしまうんじゃないかという不安に襲われて何も言えなかった。周りの友人がだんだんと結婚していく中、自分には勿体無さ過ぎるほどの彼氏がいるというしあわせの中にいながらも、ほんの少しだけ彼女たちに憧憬の念を抱いた。こんな事を言ったら、彼は「不安にさせてゴメン」と言うだろうから言わないけど。


「でも、すごく嬉しかった」
「…本当は、がずっと不安に思ってるのも気づいてたんだ」
「え?」
「待たせてしまって申し訳なかったと思ってる」
「き、気づいてたの?それはそれで恥ずかしい」
「だから、その分プロポーズはちゃんとした場所でちゃんとしようと思ってたんだけど…」
「けど?」
「どうしても今回の旅行中に言いたくなって」


 困ったように笑うその顔がすごく好きで、その表情を見るとわたしの心臓がきゅうっと締めつけられることをきっと彼は知らない。言葉を上手く生み出すことが出来なくて、手を繋ぎながら半歩前を歩く彼の腕に抱きつくことで、この想いを伝えたかった。「なんだか情けなくてゴメン」と言う彼に全力で首を横に振った。わたしのために緊張してくれる彼も、我慢出来ずに今日プロポーズをしてくれた彼も、彼が情けないという彼も、わたしにとっては愛しくてたまらない。


「でもさ、わたしがもし断ったら帰り気まずくなるとか考えなかったの?」
「こわいこと言うね」
「良いじゃん、断ってないんだから」
「まあを悩ませたらどうしよう、とか断られたらどうしようとかは考えたけどね」
「うん」
「それでもに伝えたいっていう想いが止まらなかったんだ」


 歩いていた足を止めると、彼は手を繋いだままわたしを抱きしめた。もうこのまま永遠に時が止まってしまえば良いのに、とも一瞬思ったけど、わたしはきっと今以上にしあわせになるだろうと思ったから、その考えはすぐにどこかへと飛んでいった。彼の心臓の音と、子守唄みたいなやさしい波の音が重なって、キレイなメロディに聴こえる。


「本当に緊張してたんだね…」
「人生で1回しかしないプロポーズだからね」


 わたしにしかしないプロポーズ。当たり前のことなのに、今更胸の奥に熱い実感がこみ上げて来る。彼の目があまりに輝くから、わたしは眩しくてその双眸をゆっくりと閉じた。海の傍で交わしたくちづけは少し塩っぱい。海のせいだろうか。それとも、頬を流れ星みたいに伝った涙のせいだろうか。繋いでいなかった左手にも彼の温度を感じると、付き合いたてなわけでもないのに、やたらと胸の鼓動が速くなって、なんだかひとり恥ずかしい。

 星が降るように砂を濡らしたわたしの涙がまるで宝石のように輝いて見えたのは、左手の薬指にいつの間にか宿っていた、世界にひとつしかないこの輝きのせいだということにしておこう。