紙で指を切ると、大した傷にはならないのに瞬間的におそろしい程の衝撃が身体に走る。資料という名の紙を大量に扱う生徒会室で、わたしは自分の指を何回かわいそうな目に合わしてしまっただろうか。

 気づいた時には既にオレンジ色の夕焼けは去っていて、いつもの生徒会室がやたらと広く感じた。周りの役員たちはいつの間にか部活動へ向かったり下校をしていて、気づいたらひとりで机に向かって資料とにらめっこ。何かの絵でも浮かび上がってくるんじゃないかと思うくらい字が細かく書かれた資料と必死で格闘する。カチカチと鳴っていた時計の音も、ノートや紙にボールペンを走らせる音も、まるでどこかへ消えてしまったと思うくらい夢中だった。そんな中、リズムの良いノック音がやたらとクリアに響いた気がした。

先輩」
「あれ、氷室くん?」
「何回呼んでも気づいてもらえなかったんで、ノックしました」
「あ、ごめんね。でもどうしたの?」
「部活終わって帰ろうと校舎の外を歩いてたんですけど、生徒会室の電気ついてるのが見えたんで」

 深い夜の色に、生徒会室の電気が鮮明に映えていたらしい。生徒会室の扉は開いてると言うのに、わざわざノックをしてくれた氷室くんは部活の練習着らしいラフな格好で現れた。普段は制服姿ばかり見ているせいか、いつもと違う姿は些か新鮮だった。そういえば氷室くんってバスケ部だったっけ。それでも、やさしそうな笑みとスタイルの良さは安定して際立っている。窓ガラスに反射して映っている姿でさえ、わたしには眩しい。転入して来てから生徒会に入った彼との関係はまだ長いとは言えないけど、庶務でもあるわたしは生徒会のほぼ全員と関わる機会が多いため、彼とも自然と会話をするようになった。たまに校舎ですれ違えば挨拶くらいはする。

「部活終わって…え!もうそんな時間?」
「もう遅いんで送ります」

 時計の針は、いつの間にか自分が想定していたよりも遥かに遅い時間を指していた。あわてて鞄の中に物を詰め込んで帰り支度をする。幸いにも自宅は学校から徒歩圏内。練習で疲れているであろう氷室くんに余計な負担を掛けたくはなかったから、送るという申し出は丁重にお断りをした。けど、氷室くんは変なところで頑固な一面があるような気もする。良く言えば芯があると言えるけど、今回もはわたしの断りを笑顔でやさしく拒否してきた。年上のくせに逆らう事も出来ず「じゃあ、お言葉に甘えてお願いシマス」と言うと、先程とは違う笑顔で「喜んで」と言った。なるほど、この笑顔か。

「氷室くんって寮だっけ?門限とか大丈夫?」
先輩こそ、こんなに遅くなってご家族の方が心配するんじゃないですか?」
「さっき連絡しておいたから大丈夫」

 毎日のように歩いているこの道が普段と過し違う気がするのは、いつもより時間が遅いせいだろうか。それとも、隣に氷室くんがいるからだろうか。いつもはそんなに注目しない月が今日は満月でやたらと眩しいなんてどうでも良いことを思ったり、氷室くん足長いからわたしの歩幅と合わなくて疲れるんじゃないかな、とか思ったりした。
 先程の生徒会の資料を持ち帰るために、以前友人への誕生日プレゼントを買った時についてきたバスグッズのお店の予備の紙袋を持ってきて、その袋に入れていた。とても可愛らしいオシャレなデザインでいかにも「女子!」という紙袋。それを隣の氷室くんが持ってるんだから不思議で仕方ない。「荷物持ちますよ」と言ってくれた氷室くんに、これ以上気を遣わせたくないと今度こそ「これくらい大丈夫だから」という先輩の逞しさを見せようと意気込んでいたけど、「手持ち無沙汰なんで、むしろ持たせて貰えると助かります」と言われてしまえば、その紙袋を渡す以外の選択肢はわたしには存在しなかった。けど、今では可愛い紙袋と氷室くんに違和感という壁は存在してないようにさえ感じる。

「それにしてもこんな時間になってるなんてなぁ」
先輩は、集中すると他のことに目が入らなくなっちゃいますからね」
「うっ…そんなこと」
「あと、すぐ顔に出ますよね?」
「単純って言いたいんでしょ!」
「純粋ってことですよ」
「っていうか氷室くん、わたしのこと先輩って思ってないでしょ?」

 無意識のうちに先輩後輩の上下が逆だと感じてじうのは身長のせいだと思いたいけど、多分違う。氷室くんにはわたしとは比べ物にならないくらい洗練された落ち着きがある。そういうタイプほど脆い部分を持っているとも聞くけど、実際の氷室くんはどうなんだろう。でも、"どうせ単純で猪突猛進タイプの猪女ですよ!"という皮肉をたっぷり込めた問いかけだったのに、彼はやっぱり楽しそうで余裕がある。

「そんなことないですよ」

 基本的にやさしくて気が利く氷室くんは、わたしを傷つけるようなことは絶対に言わない。イマドキのティーン向け漫画だったらここで「そうですね」とか言っちゃうツンデレ男子が出てくるのかもしれない。氷室くんがあの問い掛けを否定してくれることを予想して聞くわたしはズルいのかもしれないけど、先輩なんだからこれくらいは許して欲しい。

「でも、その前にひとりの女の人だって思ってますけど」

 月が眩しい。ちょうど月をバックにしている氷室くんを見ることが出来ない言い訳にしよう。予期もしていなかった言葉と言うのは、時にとてつもない衝撃を生むと約18年生きてきて初めて知った。そもそも、この年代の女の子のことを「女子」ではなく「女の人」と、さらりと風がなびくくらい当たり前に言ってしまうところがまたすごい。そして違和感がまるでない。ティーン向け漫画を飛び越して、オフィスを舞台にした女性向けの漫画に出てきそうな台詞だ。

「き、きみは本当に高校生ですか?!」
「勿論、先輩よりひとつ年下の高校生ですよ」
「嘘だ!高校生の化けの皮をかぶっているハズ!」
先輩って不思議なこと言いますね」
「それは氷室くんの方です」
「じゃあ、高校生の化けの皮をかぶった狼ってことにでもしておいて下さい」

 穏やかな笑みで物騒なことを言う氷室くんは狼にはとても見えないけど、きっとそういう事じゃないんだろうなということは、単純なわたしでも理解出来た。けれど、理解出来たからこそ理解出来ないことがあるのも思考の奥が深いところ。答えにたどり着きそうだけど、その答えに自信がない場合はどうすれば良いんだろう。答えを明確にさせたいような、不明確なままでも良いような、曖昧なふたつの感情に挟まれる。

「なんて、今日は送り狼にはなりませんから」

 然し、どうやら答えは明確にしなければならないらしい。いつ、どこでそんな言葉を覚えたのだろう。氷室くんの楽しそうで嬉しそうな声音は、わたしを戸惑わせる以外のなにものでもない。
 月と星と外灯しかない夜が、まるで朝みたいに鮮明な気がする。けど、今はやっぱり夜で、氷室くんの顔を見るのはまだ躊躇ってしまうから、きっと月がまだ眩しいのだと思う。

「じゃあ、おやすみなさい」

 いつの間にか家の近くまでたどり着いて、持ってもらっていた紙袋を渡してもらうと、氷室くんが持っていた取っ手のところだけ少しあたたかい。指先からじんわりと、身体を貫いた先程の衝撃に少し染みる。
 今宵、やさしい爪あとが心臓に残されたようだ。