オフィスのラウンジにある自販機の前でお金を入れたあとにしばらく悩んでいたら、すっと伸びてきた細くて白い指がホットコーヒーのボタンを躊躇いなく押した。その左手の指には品の良いピンクベージュのネイルと薬指に銀色の光がひとつ。その指で髪を耳にかけると見えるピアスは控えめなダイヤがひと粒あしらわれていて、指輪と同じブランドの物のように見えた。
「氷室くん、いつもこれのアイスだよね?」
「そうですね」
「でも今日は寒いからホットにした方が良いよ」
「ありがとうございます。さんも休憩ですか?」
「ううん、氷室くんに今日の会議時間16時に変更になったの伝えに来ただけ」
ホットかアイスかで悩んでいたのを見透かされていたのだろうか。じゃあね、と踵を返して戻っていく彼女の後姿を眺めながらコーヒーに口をつけたら、熱すぎて危うく火傷しそうになった。
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会議が思っていたより早く終わったおかげで19時前には自宅のマンションに着いた。その30分後、インターホンの甲高い音が鳴る。モニターを確認するまでもなく、オートロックの施錠を解除してしばらくするとガチャリと玄関のドアが開く音がした。靴を脱いだあと、いつも彼女は自分のパンプスを揃え、ついでにオレの靴も揃え直してくれる。廊下まで迎えに行き、重そうな買い物袋を持っていたのでそれを持ってあげると、リングイネと生クリームが見えた。どうやら今日はクリーム系のパスタらしい。彼女が手を洗いに行ってる間にキッチンへ荷物を置いておいた。
「辰也くんは何時に帰ってきたの?」
「30分くらい前」
「そっか、あまり変わらなかったね」
邪魔にならないよう髪をアップした彼女の後ろからやわらかく抱きつき、ある程度予想はついているけど今日の晩御飯は何か聞いてみる。邪魔だからあっちに行っててと言われ、彼女の項にキスをひとつ落とし、しぶしぶソファーに座ることにした。大して興味の無いテレビ番組をBGM代わりにして、ご飯というよりは彼女がやってくるのを待つ。
「今日は泊まっていく?」
「うん、旦那は出張中で帰ってくるの明日だから」
世間からは蔑まれるであろう、決して許されない、誰にも言えない恋をしてからどれくらいになるだろうか。毎週金曜日、彼女をオレの部屋に呼んで一緒にご飯を食べたり本を読んだりテレビを観たりキスをしたりセックスをしたり。それは彼女の旦那が出張や飲み会で遅くなるこの金曜日に限られる。オレにとって僅かな、たいせつな時間だ。今日もただ、ひらすら飢えるような愛を求めて彼女の肌に縋りつく。すきまなく指と指を絡めて、呼吸もくるしいほどにキスをして、身体が熱くなるほど肌を重ねて、苦しいくらいの愛を伝える。品の無い話、こうしている時間はきっと彼女の旦那よりオレの方が多いじゃないかと思えることが唯一の優越感だった。
「ぁっ…氷室く…」
「ここでは辰也って呼んでくれるんじゃなかった?」」
「んっ…辰也っ…ぁ、ま、まって」
「待てないよ、と一緒にいられる時間は限られてるんだから」
「ぁっ…ゃ…っ!」
普段は仕事で先輩の彼女だけど、せめてベッドの上ではこっちの方が余裕でいたいと思ってる。けど、どうしようもないくらい愛しい相手を前にそんなことが出来るほど器用じゃない。どんなに甘くて濃い情事のあとにしあわせな時間を感じていても、彼女の火照った身体とは正反対なくらい冷たい指輪が現実を忘れさせてくれない。
「あ、やばい」
「どうしたの?」
「今、旦那から連絡あって終電で帰るって連絡来ちゃった」
「そう…」
「ちょっとメッセージ打って良い?」
「どうぞ」
他の男のベッドの上で裸になってうつぶせになりながらメッセージを打ってるなんて、彼女の旦那は全く思っていないだろう。何にも穢されていないと思えるほど白くて滑らかなうつくしい彼女の背中をそっと指で撫でると、くすぐったいのかすこしだけ身をよじらせる。けど、画面に夢中なのが気に食わない。キスをいくつも落として下から上にゆっくり舌をすべらせると、ちいさく「んっ…」と甘美な声が聞こえた。
「もうっ…!」
「終電までまだ時間あるじゃないか」
「そうだけど…んっ…」
ちいさな肩を掴んで仰向けにさせると、快感に我慢している彼女の表情と出会って貪るような口づけをした。握りしめていた携帯をシーツの上に落とし、必死にオレの肩を掴む彼女の手首をシーツに縫いつける。指を絡ませれば指輪の感触が当然あるわけで、だから本当は手なんて繋ぎたくないのに一度繋がってしまったら離したくなくなる。揺れる動きとシンクロするように小刻みに吐かれる彼女のあまったるい声と吐息が、オレの頭と心を麻痺させた。
今度は甘くてしあわせな時間の余韻に浸ることもなく、ひと呼吸置いたら彼女は先ほどまでの乱れひとつなかったかのように髪を梳かし、服を着て、メイクを直した。後ろから抱きしめて「もう帰るの?」と甘く囁いても、帰る場所がある彼女を引き止めることが出来ない。背伸びをしてオレに軽いキスをした彼女は「ごめんね」と笑って去っていく。ごめんね、なんて言葉が聞きたいわけじゃないのに。
「夜も遅いし危ないからこれ、タクシー使って」
「大丈夫だよ、近いから」
危ないから送っていくよ、とも言えずタクシー代を渡そうとすることしか出来ない恋愛に虚しさ以外の何があると言うのだろうか。
玄関で気をつけてね、と頭を撫でてもう一度キスをする。彼女の向かう先が旦那と住む家でなかったら、もっと早く出会っていたらなんてありもしないバカバカしいことを考えたこともあるけど、そうして逃げたって現実は何も変わらない。
次に彼女と会うのは月曜のオフィス。ただの先輩と後輩として。彼女はオレのことを「氷室くん」と呼び、オレは「さん」と呼び敬語で喋る。その繰り返しに終わりなんてない。
彼女が帰ったあとのベッドはいつもやたらと広くてさみしい。シーツをゆっくり撫でるとまだ彼女の肌のぬくもりがまだ微かに残っている。目を閉じれば、白いシーツの上でまばたく光る左手薬指の銀色が、いつだってこびりついて頭から離れない。けど、ベッドの上でのしあわせな時間が終わったあとのこの虚無感が何度訪れようとも、この関係をやめる気はない。たとえオレにしあわせが来る日がないとわかっていてもー
