雨のにおいが好きと言いながらオレの部屋の窓をすこし開けて外を眺めてる彼女は色々なことを知っている。天気のことだったり食べ物のことだったり物の名称のことだったり。もしかしたらオレが知らないだけで、それらは世間一般的には知られてることだったりするのかもしれないけど、雨のにおいがペトリコールって呼ばれてるなんてこと、知らない人の方が多いんじゃないかと思う。よくテレビを観てるから知ってるなんて言うけど、それを覚えて他の人に言えるまでの知識に出来るなんてすごいってちょっと思ってた。

「最近家デートばかり。たまにはぷらっと外歩きたいな〜」
「え、雨降ってるのに?」
「だからだよ」
「いや、ぜんぜん意味わかんないんスけど」

 外は鈍い銀色の曇り空で、おまけに雨まで降っているというのにの瞳はちいさな子どもみたいにきらきらしてる。オレはそんなに雨が好きってわけでもなくて、特別嫌いとまでは思ってないけど靴は汚れるし服だって濡れるし髪型だってイマイチになる。にそんなこと言ったらきっと「これだから涼太くんは…」と鼻で笑われそうだったので何も言わなかった。でも、実際たまに髪を巻いてるだって今日は雨のせいですっかり巻きが弱くなってる。玄関にキレイにそろえられた靴だってレインブーツじゃないけど今日はいつもとすこし違ってた。オシャレを制限される女の子の方がそういうの気にするんじゃないの?って思うけど、リズミカルな鼻唄がから聞こえるから彼女にとってはきっとそんなに大事なことじゃないのかもしれない。

「じゃあ、わたしひとりで行ってくるから待ってて良いよ」

 あまり乗り気じゃない態度を思いっきり出していたら、がすこしさみしそうな口調でそんなことを言い始めた。こういうとこ、本当にずるいと思う。雨の中にをひとり放り出すなんて、オレがそんなこと出来るオトコじゃないってこと、は知ってる。分かってるくせにそういうこと、そういう風に言うからタチが悪い。けど、そんなタチが悪いを好きになったのはオレだ。オレの方がきっとタチが悪い。

「…準備するっス」
「やったー!」

 まあ一緒に外を歩くだけでこんなにも喜んでくれるなら良いかな、とか考えてしまうオレはやっぱりに弱い。「傘一本しかないけど」と言うと「相合傘が出来るね」なんて無邪気に喜ぶは早くも短い廊下を小走りで通り抜け、靴を履き始めた。
 外はやっぱりそれなりに雨が降っていて、アスファルトの水たまりには雨が落ち続けている。今まで意識したことなんてなかったのに、水たまりに出来る波紋にふと視線を奪われた。共鳴するかのようにひろがるその模様はゆっくりとした時間を生んでくれてるようで、見ているとすこしたけ穏やかになれるような気がした。は傘を持ってるオレの腕にぴたりとくっつきながら、特徴のないどこにでもありふれてるビニ傘なのに「この傘おおきいね。もしかして70??」なんて、楽しそうに歩く。ただ道を歩いてるだけなのに、探検家みたいに不思議ともうすこし歩いてみたいと思わされる。

「あ、涼太くん。見て見て」
「ん?」

 そういえばどこに向かうつもりなんだろう?ぷらっと歩きたいって言ってたから必要最低限の物だけしか持って出てないけどコンビニ?スーパー?レンタルショップ?カフェ?雨のせいか周りに歩いている人はあまり見掛けない。ポツポツと雨が地面や水たまりに落ちる音は鮮明に聞こえるのに、すごくしずかに感じるのが不思議だ。そんなどうでも良いことを考えていると、とつぜんオレの肘をくいくいとが引っ張り、濡れるのを分かってるくせに傘からはみ出すように腕を伸ばし、ある方向へ指をさした。のピンクの爪に、雨のかけらが降り落ちる。

「ほら、あじさい」

 多分、とじゃなかったら「へ〜キレイっスね」って言って終わりだと思う。でも、なんでかわかんないけど、もうちょっとだけとこのあじさいを眺めていたいと思った。「あじさい」って言った時のの表情がかわいかったのもあるけどそういうんじゃなくて、なんて言うかうまく言えない。オレが何も言えないでいると「あじさいの色ってたくさんあるけど、土が関係するらしいよ」なんて楽しそうに教えてくれた。あじさいが咲いてる高さに合わせるよう、すこし腰をかがめたが濡れないように傘を持つ。でも、きっとはすこしくらい濡れたって何も気にしない。

「オレ、あじさいをちゃんと見たの初めてかも」

 普段、東京の喧騒の中で時間は当然あっという間に過ぎていく。ゆっくりとした時間がないわけじゃないけど、あまりに当たり前のように存在をしてるものに対して特に意識をしない限り、オレの脳だったり感情は何も動いてくれない。たとえば、今歩いてるこの道なんていつも通ってるのに何も考えずただ駅までの道としてしか歩いていないから、あじさいが咲いてるなんて初めて知った。ちょっと前まで空き地で草がボーボーに生えてた近くの場所がカフェになっていた。といっしょに腰を少しかがめてあじさいを見ると、は「そっか」とうれしそうに笑った。なんでがうれしそうなのか全然わかんないし腰だって痛いけど、今この瞬間がとても楽しい。腰を伸ばして視線をあじさいからに移すと、耳に髪をかけたの横顔が見える。前にプレゼントした華奢なピアスが、の動きに合わせてゆらゆらゆれてる。

「何?」
「ん?すきだなーって思って」
「あじさい?」
のことが」

 靴だって肩だってちょっと濡れ始めてるけど、それでもといっしょなら目的地なんて決まってなくてもなんだって良い。きっと、どこにだって行けるから。

「知ってるよ、そんなこと」

 知ってる、って思ったけどその顔が見たくなったから言いたくなっただけ。オレだって、知ってるよ。しずかな雨の中でやさしい時間がゆったりと流れる今日が、ふたり一緒だとしあわせだってことくらい。