ちょっと前まで、木々がたくさんの宝石をつけながら澄んだ夜の空気の中で輝いていたというのに、いつの間にかイルミネーションの時期はほとんどの場所で終わりを見つけて、代わりに桜の蕾がふくらみ始めてきた。夜でもなまぬるい風は春のおとずれを感じさせるには充分なもので、夜に映える白い息が好きだったのにもうほとんど見ることが出来なくなってしまったのがすこしさみしい。
「気づいたらあっという間に3月になってましたね」
「うん、月日が経つの早すぎてびっくり」
日曜日の夜、桜の街路樹の傍を2人で歩きながら、他愛もない話をする。ただそれだけなのに相変わらず楽しい。テツヤくんとの付き合いはもう2年になるけど、なんでもない時間が今でも特別に思える。例えば、今日みたいな日曜日の夜。明日からまた一週間始まって仕事だと思ってもテツヤくんと会うとまた明日から頑張ろうって思える。でも、だからこそ今のこの穏やかでしあわせな時間がいつか壊れてしまったらと思うとすこしだけこわい。
「さん」
「何?」
首が痛くなるほど見上げてしまう高層ビルに囲まれたビジネス街でもあるこの道は、平日のにぎやかさが嘘みたいに人がほとんどいない。けど、通りにあるたくさんのブティックの明かりはあたたかいオレンジで寂寞というような雰囲気ではなく、まるでここだけが別の世界のように静かで穏やかだ。広い石畳のようなかわいい道を2人占めしているかのような気分になって、でも早く歩くと駅に着いてしまいテツヤくんと一緒にいる今日がもう終わってしまうような気がして複雑な気分になってるところで、テツヤくんが急に足を止めた。隣を歩いていたわたしも一緒に立ち止まり、どうしたのと尋ねると前を向いていた身体をこちらに向けてきたので、わたしも向き合うように身体を動かした。
「結婚してください」
周りに人がいないからか、それとも嘘偽りのないまっすぐな言葉だったからなのか、やたらと響いて聞こえた。多分、後者だと思う。遠くの方で微かに聞こえる車の音やその他の音も排除されて、テツヤくんの言葉だけが残ったみたいに鮮明にわたしの中だけで響く。
恋人になって2年、社会人になってもう数年経ったこの年齢で考えたことがないと言ったらもちろん嘘になる。いつの間に用意していたのか、どこかに隠していたのか差し出された一輪の花はうつくしく咲き誇っていて、わたしにとっては花束にも負けないくらい輝いている。
「…はい」
ありがとうだとかうれしいだとか、本当はそういう感謝の気持ちとか今の気持ちをもっと伝えたいのに胸がつまってたった2文字を言うのが精いっぱいだった。それなのにテツヤくんはいつもやさしいけどいつもよりやさしく笑ってくれたから、視界が涙でにじみそう。寒くもないのにうれしさで僅かに震える手で差し出されたお花を受け取ろうとする。けど、直前で伸ばしかけた指を止めてしまった。受け取ることも出来ず、かと言って引っ込めることも出来ない指が辿りつく先を失って困ってる。
「さん、どうかしました?」
「…受け取ったら今の、今日の夜のこのしあわせが終わってしまいそうでこわくなっちゃって」
もしかしたら夢なんじゃないかとか、もしかしたら騙されてるんじゃないかとかそんなことは一切思っていないけど、今宵だけのたった一夜だけのしあわせなんじゃなかとすこしこわくなってしまった。普通だったら、嬉々として喜びこれからの明るい未来に向けて考えていくのに、途端に不安になってしまうのは本当に自分で良いのかという不安を抱えているからかもしれない。
「終わらせません」
俯いていたわたしの耳に澄んだ声が響く。その声はまっすぐで、余計なものが何も入ってなくて、力強くて、真実の言葉と決意だということがよく分かる。顔を上げると、泣きそうな顔をしたわたしとは正反対で、やっぱりやさしく笑っているテツヤくんがいる。
「本当にわたしで良いの?」
「ボクはさんが良いんです」
「わたし、あまり家事とかそんなに得意な方じゃないよ?」
「知ってます」
「う…もしわたしが最悪最低な女だったらどうする?」
「全然問題ありません。少なくともボクが知ってる限りのさんは最高にすてきな女性なので」
何だか悩んでいた自分がバカバカしく思えてしまうくらい今しあわせだ。テツヤくんはわたしが自分自身のことをダメだと思ってる部分もきっと拒絶や否定をせず受け止めてくれる。躊躇っていた指を伸ばし、一輪の花をようやく受け取ることが出来た。お花のうつくしい見た目と良い香りに恍惚としていると、一歩近づいたテツヤくんがぎゅっとわたしを抱きしめてきた。いくら人が少ないとは言え、テツヤくんが外でこんなことをしてくるなんてとても珍しい。
「緊張しました…」
「そうだったんだ」
「さんへのご両親にご挨拶するときも緊張しそうです」
「うちの親、こわいよ?」
「殴られる覚悟は出来てます。それに緊張はすると思いますけどこわいとかはありません」」
「どうして?」
「さんが隣にいるから」
街の光のことなんて忘れて、夜にとけこむように静かにやさしく交わしたくちづけは、きっと一生忘れないしあわせのひとつ。