お気に入りのインディーズバンドの歌をイヤホンで聞きながら、海によく似合う淡緑の電車で通学をしていた。朝と夕方の時間は同じ制服に身を包んだ学生たちを多く見掛ける。平日に限って言えば都心のようなラッシュではないと思うけど、わたしはひとりで帰るとき必ずある駅で途中下車をして少し時間を潰してから帰っていた。この駅のホームから見る景色が不思議と落ち着く気がして好きだったからだ。特に夕陽と、うすい橙に染まる海と、右の方に見える江の島が感動的だと思っていて、でもそんなことを友人に言うのはすこし恥ずかしい気がして、わたしだけの秘密だった。

 わたしの居場所とも言えるこの駅で仲良くなった人間がひとりいる。同じクラスの仁王くんだった。仁王くんとは同じクラスだけどあまり喋ったことがなく、接点という接点はそれまで無いに等しいと言っても過言ではない。たまに挨拶をしたり、用件があれば会話をするというところだろうか。仁王くんとこの駅で初めて会ったのは、中間考査期間の時だ。いつものようにひとりで音楽を聴きながら、色褪せた木のベンチに座り海を朧げに眺め、頭に入れるつもりのない単語帳を膝の上に置く。この駅で降りる人はそんなに多くはないため、止まってはまた動き出す電車に対してあまり意識していなかった。けど、いつも教室で見る銀髪が視界に突如割り込んできた。

「こんなとこで何しとんの」
「別に…仁王くんこそ、珍しいね」
「電車から見る眺めがあまりにも良かったんで途中下車したくなったんじゃ」

 不思議な羞恥に阻まれて、わたしが誰にも言えなかった感情をサラッと言える仁王くんに惹かれた瞬間だった。何より初めて、誰かとこの感動を共有できたような気がして秘かに嬉しも感じていた。「わたしも」とちいさく答えると「さよか」と控えめだけどやさしい笑みが返ってきて、仁王くんってこういう表情もするんだということを知った。仁王くんはそのままわたしのベンチの隣に腰掛け、お互い会話をすることもなく暫く静かな時を過ごす。会話のない沈黙が漂っているのに、まったくと言っていいほど不快感はなく、むしろこの日の海の波みたいに心は穏やかだった。夕陽が沈み、空も海も濃紺のように暗くなると仁王くんが静かに腰を上げる。

「暗くなってきたの、送るぜよ」
「あ、わたしの家ここからすごく近いから大丈夫。駅近だし」
「それならええんじゃけど」
「それに、もう少しいたいから」
「分かったぜよ。俺はそろそろ帰るからの、気つけて帰りんしゃい」
「うん、ありがとう」

 電車に乗る仁王くんに手を振る自分の存在がよく分からなかった。でも、今までひとりでこの景色を眺めているのが好きだったのにふたりでも楽しいんだと思うと、なんだかこれからの毎日がより彩りを持つような気がした。

 仁王くんとここで出会うのは、テスト期間で彼の部活動が無い時のみだった。それでも、数か月前までとは違い用件がなくても「今日は晴れてるね」だとかそういう他愛のない会話も交わすようになっていた。教室でも時々喋ったりしていると、同じクラスの丸井くんに「お前らそんな仲良かったっけ?」なんて聞かれたりもした。

 そして、仁王くんと駅で初めて会った日から半年以上が経った頃だった。いつも仁王くんはわたしより先に帰るけど、この日は珍しく遅い。わたしはそろそろ帰ろうとベンチから立ち上がると、木がギシリと軋む音を立てた。「そろそろ帰るね」と声を掛けると、すぐに近くの踏切がカンカンと鳴く音が聞こえ始める。その音の隙間を縫うように、仁王くんが低い声で「」とわたしを呼んだ。

好きじゃ

 仁王くんが言葉を発すると同時に電車が駅にやってきた。電車からは別の学校に通う学生や仕事帰りのサラリーマンなど数人の地元人が降りてくる。どうやらわたしの家の方面とは逆方向の電車だったため、この電車には乗らなかった。乗らなかった理由はそれだけじゃないけど。

「え、なんか言った?」
「…なんでもなか」

 反対方面からやってくる電車が見えてきた。わたしが乗る電車だ。この日、初めて仁王くんより先に帰った。帰りに乗った電車はよく雑誌やテレビで特集される古いタイプ車両で、車体の色と木目調の床が特徴的だ。どうしてよりによってこの電車に乗ってしまったのだろう。足元の床の木の色を、すこしだけ濃くしてしまった気がする。
 本当はぜんぶ聞こえていた。聞こえなくてもくちびるの動きくらいでそんな短い単語分かる。けど、聞こえないフリをした。だってわたしには精市という幼馴染でもある恋人がいるのだから。



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 もう10年以上前のことだ。久々にあの日の夢を見た。なんだか懐かしくなって、ふとあの駅に行ってみた。東京の都心と比べたら短いホーム。今日は海と空のグラデーションが美しい。視界に入る景色は何ひとつ変わっていないのに、右の方に見える江の島がむかしに比べて少し小さくなった気がしたのは、きっとわたしが大人になった証のひとつだ。
 
「こんなとこで何しとんの」

 それはこっちのセリフだった。色褪せたあの木のベンチに座っていたのは、大人になった仁王くんであの時と同じセリフを吐く。
 仁王くんとはあれ以来、ちゃんと会話をしていなかった気がする。わたしは立海大付属ではない他の高校に進学することを決めたため、勉強をする時間がすこしでも必要になってしまい、あの日以降この駅で降りることはなかった。もちろん、仁王くんにも勉強があるからもうあの駅には行かなくなるということは伝えていた。彼があれからもこの駅で途中下車をしていたのかどうかは知らないけど、それ以来は教室でも自然と会話がなくなり、お互いのその後はよく知らない。精市とはすこし前まで恋人同士という関係だったけど、わたしは昔から精市の部活動に対してあまり詳しくはなく、仁王くんと丸井くんが精市と同じテニス部だったということもかなり後で知った。

「写真、撮りに来たの」
「なら、俺が撮ってやるぜよ」

 この風景を撮りに来たのだけど、せっかくだからといつかのボーナスで買ったミラーレス一眼を仁王くんに渡して撮ってもらう。シャッターを切る音が聞こえるくらい、今日は風も波も穏やかだ。


「…え?」
「今度はちゃんと言うぜよ」
「何?」
 
 写真を撮るのをやめた仁王くんが顔を上げ、わたしの名前を呼んだ。今まで名前で呼ばれたことなんて一度もなかったから仁王くんのわたしの名前を呼ぶ声に驚きを隠せなかった。思わず仁王くんを見つめると、昔と変わらない銀髪が太陽の光に当たってキラキラ輝いてる。海の反射とはまた違うまぶしさに、すこしだけ瞼を閉じたくなった。
 
「結婚、おめでとう」

 こんなに静かじゃ、もう誤魔化せないよね。耳殻に通った仁王くんの言葉は、わたしの胸を確かに熱くさせた。

「ありがとう」
「式もうすぐじゃろ?」
「うん、来週。精市も仁王くんが来れないの残念がってたよ」
「すまんの」
「仕事でアメリカに行っちゃうんだっけ?いつから?」
「明日からじゃ」

 別に仁王くんと付き合ったことがあるワケじゃないし、ましてや浮気をしたわけでもない。でも、なんだかずっとあの日のことが頭から離れなくて、結婚が決まってからもずっと心の中に何かが 引っかかってるようで苦しかった。ただのマリッジブルーだと思って誰にも何も言わないまま今日まで生きてきたけど、きっとそんなんじゃない。
 祝いの言葉をくれた仁王くんが旅立つというのに「気を付けてね」なんてありふれたことしか言えなくて、それから先は言葉が何も出てこなかった。「幸せにの」と言って仁王くんは電車に乗って去っていく。わたしたちが 一緒に帰ることは、過去も現在も未来も、永遠に無いのだ。



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「よく撮れてるじゃないか」
「でしょ?…と言っても半分以上は仁王くんが撮ってくれたんだけど」
「ああ、そういえば偶然会ったって言ってたね」
「うん、ビックリした」

 後日、撮ってもらった写真をパソコンの中に入れて見てみる。結婚式の披露宴で流すDVDにちょうどあと一枚写真が欲しかったので、わたしたちの地元に関係のある海の写真でも入れようかと思っていた。景色があまり変わっていないからか、カメラにおさめた写真を見ているだけで中学のあの頃に戻れたようなノスタルジーを感じてしまう。胸の内側から形容し難い何かが込み上げてくるようで、すこし苦しい。

「あれ、なんで泣きそうな顔してるの?」
「わかんない」

 たぶん、しあわせだからかな―。そう言うと精市はやさしくわたしを抱きしめてくれた。事実、写真にはしあわせそうなわたししか映っていない。彼が選んだライトグリーンのカーペットにわたしが選んだ白のローテーブルが置かれたこの部屋には、わたしたちの写真がたくさん飾ってある。仁王くんが撮った写真を見て「このの表情良いね、飾っちゃおうかな」なんて冗談を言うもんだから、笑いながら「それはイヤ」なんて馬鹿みたいに甘ったるい会話を繰り広げた。
 きっとこういう時間が何よりもしあわせなんだと思う。だから、中学3年のあの日あの駅に残してしまったわたしの青春とさよならをするため、その日の写真をすべて消去した。