コンクリートの地面が当たり前の世の中、子どもじゃなくなった今では砂を踏む機会なんて海に来た時くらいかもしれない。季節も時間も中途半端で曖昧な海は寂寞としていて、穏やかな波の音は子守唄のようにも聴こえた。海は偉大だ。けど、海に来るなんて予想していなかったわたしの足元は細い細いピンヒール。ザクザクと色気皆無な音を立ててヒールが埋まっていく。歩き辛くてもたついていると、少し前を歩いている修造が面倒くさそうに振り向いた。


「ねえー、何で海?」
「お前がどっか連れてけって言ったんだろーが」
「海なんてすごい久しぶり」
「つーか脱いだ方が良いんじゃね、ソレ。砂入るし」


 異論を唱える気はなく、大人しく靴を脱ぐと足がふわりと軽くなって、解放感に満ち溢れる。まるでスキップしたくなるくらい。それにここ最近はヒールの高い靴ばかり履いていたせいか、視界の高さが変わって目に映る世界が少しだけ違って見えるような気がした。修造の顔だって、少し遠くなった。それでも、いつも窮屈な世界に無理矢理閉じ込められて気取っている私の足は、大地を踏みしめる久々の感触に喜んでいるようだ。


「砂とか久しぶりに踏んだかも」
「お前、意外と小せーな」
「どうせヒールに頼って生きてる女ですよ」
「別に良いけどよ、たまにはそうやって地に足つけた方が良いんじゃね?」
「…鋭いね」
がオレに連絡してくんのって、大抵暇な時か男にフラれた時だろ」


 三日くらい前だっただろうか、携帯の画面に「別れよう」というラインのメッセージが無機質に表示された。もちろん、付き合っていた彼からである。あまりにも突然で、すぐに受け入れることが出来なかったわたしは、既読にしないという幼稚な抵抗を試みたものの、最早そんな行為さえも無駄なんだろうと暫くしてすぐに悟った。こんな温度も感情も無い機械越しの冷たい文字で終わる恋。直接言葉で伝えてもくれないのかと、この恋愛の薄っぺらさに自分の存在の薄さまで感じさせられたような気がして、少し虚しくなった。
 きっと修造はすべてを理解して、わたしを海に連れてきてくれたのだと思う。女がヒールを履いているのに海に連れて来るほど、気が利かない男じゃないから。


「そんなことないよ、ごはん行きたい時とかも連絡してるじゃん」
「同じようなもんだろーが。で、今度は?」
「商社マン」
「懲りねーな。その前は銀行員、その前が外資系サラリーマン、その前は…」
「よく覚えてるね」
「そりゃあアレだけ話聞かされたら誰だって覚えんだろ」


 いつも背伸びしなきゃいけないような恋ばかり選んで、そのまんまのわたしでは不釣合いだからと女性の脚に美しさを齎してくれるヒールに縋った。けど、いつだって浮ついた中途半端な気持ちしか持っていないわたしにはやっぱり不釣合いで、華奢なヒールはそんな恋愛たちを表すかのように、気づいたらいつもボロボロになっていた。これでは美しい靴たちが可哀想である。いつからか、シューズボックスの中にある靴を眺めて、ため息をつくようになった自分にも気づいていた。せっかく憧れて惹かれて買ったのに、履きたい靴が無い。そんな無意味なことばかり繰り返して、わたしのすべてを知っている友人に、嘘だらけのつまらない恋愛を吐き出す悪循環。


「そろそろやめようかな」
「そうしとけ」
「いま、適当に言ったでしょ?ひどい、こう見えて今回は傷ついてるのに」
「いつもみたいに早めに忘れろ」
「じゃあ、忘れさせてくれる?」
「断る」
「あっそ」


 冗談で呟いたつもりの言葉は、青い海に飲み込まれた。修造の後ろを歩いているわたしには、彼がどんな表情をしているのかは見えないけど、もしかしたら修造はわたしが無理をして強がっていると思っているのかもしれない。予想通りの答えはこの海よりも深い誠実さが存在していて、声は波の音よりも鮮明だった。けど、修造が急に立ち止まったのは予想外だ。その広い背中にぶつかりそうになった直前で、修造がゆっくりとこちらに振り返る。


「その代わり、忘れられないようにしてやるよ」


 何を、というわたしの言葉は紡がれなかった。修造の言葉に全身が貫かれたような感覚になって、瞬きをすることも忘れるくらい身体が動かせなくなる。ふと気づくと、修造の顔が近い。ヒールの靴はもう履いてない。背伸びなんて、してない。ああ、そうか。修造が近づいてくれたんだ。風が撫でるようにやさしく触れられたくちびるは本当に一瞬で、重ねられた感触はすぐに消えてしまったけど、わたしの記憶にはきっと残る。だって、海風にさらされているくちびるが、まだこんなにも熱い。しばらく動けないでいると、修造は何も言わずに先を歩いてしまうので、小走りで追いかけた。


「…わたし、分かったかも」
「何が?」
「いや、なんか悔しいから言いたくない」
「何だそれ。つーか、今更だろ」


 隣で見る修造の横顔はいつもより楽しそうで、この光景に溶け込むような優しい笑顔を纏っていた。都会の喧騒や派手さを感じさせない、写真や絵画なんかよりも眩しい水面は目を細めたくなるほど青く美しくて、波は相変わらず穏やかなメロディを奏でて鳴いている。海の香りはしょっぱいのに、くちびるはこんなにもあまい。そんな今日はわたしが本当の自分を知った日。わたしが、本当の恋を知った日。


「オレは最初から分かってたけどな」


 当たり前のように自然に繋がれた手に、鼓動が急速に跳ね上がる。波よ、もっと荒々しく鳴いてわたしの心臓の音を掻き消して!と叫びたくなるほど、自分の心臓じゃないみたいに五月蠅い。そして、そんなタイミングで出るわたしの色気のないくしゃみ。いや、ある意味良かったのかもしれないけど。おじさんとまでは言わなくても、きっと女の子特有の可愛らしさなんてものは今のくしゃみに存在していなかったのだろう。修造が「お前な…」と呆れながら憐みのような目を向けてきたのだから。おかげでようやくこの暴れん坊な心も落ち着いて来たと思ったのに、修造が着ていたカーディガンを肩にかけてくれると今度は頬に熱が集中するではないか。せっかく落ち着いたと思った鼓動がまたざわめき始めてしまった。さっきはキスまでされたと言うのに、こんな些細なことで胸を高鳴らせたり戸惑ったりしている自分が、純情を装っているようで愚かで恥ずかしい。でも、こういうことに一喜一憂するのが恋だというのなら仕方ないか。すっかり熱くなってしまったけど、今はまだこのカーディガンを脱ぎたくない。


「もう忘れたくなるような恋なんてさせねーよ」


 砂に残ったふたり分の足跡は、いつか波にのまれて消えてしまうかもしれない。けど、わたしの記憶の海には鮮明に残る。
 さあ、次はどこへ足跡をつけに行こうか。砂の上を歩くこの裸足はきっと知っているはず。ふたりでならどこへだって行けるということを。




<企画サイト「ふたりのロマンチック」様に提出させて頂きました。>