
<※大人設定>
やわらかいクレヨンで描いたみたいな水色に、白をベースとした飛行機が映える空が美しい。東京国際空港の展望デッキからは旅のスタートとゴールがよく見え、瞬きをしてしまったら見逃してしまいそうなほどのその一瞬を、切り取るように心の中へしまっては綴じていく。
「まさかシュウが見送りに来てくれるなんてね」
「長くなりそうって聞いたからな。何年ぐらい行くんだ?」
「どうかな、3年はいることになると思うけど」
「…あいつは?」
「来ないよ、フラれちゃったからね」
3Fの出発ロビーの椅子には、ニューヨークへ転勤をするため今日の午前にUA便で日本を発つ氷室と、見送りに来た虹村が座っていた。何枚もある大きいガラスの窓と高い天井は、これから旅立つ者たちへ少しだけ解放感を抱かせてくれる。
周囲の友人や知人に自分がNYへ転勤するということを伝えていなかった氷室だが、虹村ともう一人にだけは伝えていた。まさか虹村が見送りに来るとは思わず些か驚いた氷室ではあるが、義理堅い虹村の性格を考えると納得がいく。それに、その行動には隠された真意があることを二人とも言葉にはせずともどこかで理解していた。
搭乗手続きのアナウンスが流れると、ノートパソコンと最低限の手荷物を持った氷室は出国手続きへと向かう。「ここで良いよ」という氷室ではあったが「最後まで見送らせろよ」と言う虹村に静かな笑みを返し二人で短い距離を歩く。そして別れの手前、保安検査に入る直前に氷室は足を止め、虹村の方へ振り返った。
「のこと、よろしく頼むよ」
「…」
「ああ見えてはなんでも我慢してしまうところがあるから」
「…言われなくても分かってるよ」
「シュウならそう言うと思った」
「何だよ、それ」
「…本当はずっと分かってた。オレじゃダメだったってこと。正直悔しいし情けないけど…」
は氷室の恋人「だった」女性であり、虹村の友人でもある。社会人になって落ち着いた頃、虹村が大学の友人だったを氷室に紹介したのが二人の始まりだった。たまに三人で飲みに行ったり食事へ行くことも多く、氷室とのふたりから話を聞かされ続けてきた虹村は、誰よりもこの二人のことを知っていると言っても過言ではない。
氷室とが恋人になってから約一年半が過ぎた頃だろうか、彼女との将来を考えていた氷室はNYへの転勤が決まった時「オレについて来て欲しい」と伝えた。しかしからの返事はNOひとつ。遠距離恋愛に自信を持てなかったは氷室へ別れを切り出し、二人の関係はそこで終止符を迎えた。
搭乗手続きを催促するアナウンスが再び流れる。氷室が言いかけた言葉は彼の中に飲み込まれ、言葉として生まれることはなかった。ひとりのという女性に対して抱いていた想いは最後まで形にならず伝えられることはなかったが、氷室とという二人を傍で見てきた虹村には、氷室の言いたいことは分かっていた。
すこしの寂寞を背負いながらも前を向いて旅立った友人を見送り、虹村は展望デッキへと足を運ばせる。ウッドデッキの地面を彷徨うように歩き、時折まぶしい空と滑走路をフェンス越しに見る。そして、一番奥まで行くと見知った人影を見つけた。
「」
「…」
「やっぱり来てたな」
「見つかっちゃったか」
「こんなとこで何してんだよ」
「…飛行機、見てた」
「何だそれ」
すこし肌寒い風が、の髪をやわらかく靡かせる。髪を耳にかけ、露わになったの横顔はいつもと同じようにも見えたが、先ほどの氷室と同じ哀愁に似た何かを浮かべているようにも見える。虹村が隣に立つと、の髪を揺らしていた髪は静かに落ち着く。「わたし羽田の国際線って初めて来た」だとか「あの江戸っぽいとこ…何て言うんだっけ?食べるとこいっぱいあってビックリしちゃった。あ、あとで何か食べてかない?」なんて一人で他愛もないことを喋るの話を、虹村はただ黙って聞いていた。しかし、そんな誤魔化すような会話は無意味だとは気づいたのか、声はだんだんと消えていき、やがて数秒の静けさが訪れる。しばらくの静寂がふたりを見守ったあと、はようやく絞るような声で自分の言葉を吐露するかのようにポツリポツリと感情を紡ぎ出した。
「わたし、ダメだなぁ。辰也くんに着いて来てほしいって言われたけど、うんって言えなかった」
自らを嘲笑するような笑みをくちもとに浮かべ、おそらく誰かに言いたけど誰にも言えなかったであろう感情を空に泳がせるように放っていく。自分たちを、そして昔から自分を知っているからこそ言える本音。今まで自分の感情をあまり出さず、平和主義で生きてきた彼女にとって、自分の意志や感情を言葉にして誰かに伝えるということは何よりも勇気がいることであり、虹村はそれを理解しているからこそから出る言葉ひとつひとつを聞き逃さないよう静かに耳を傾けていた。
「わたしには仕事を辞める勇気も、向こうで暮らす度胸も、辰也くんを支える自信も持てなかった」
最初は氷室の一途な想いから始まった二人ではあったが、その想いにもいつしか応えるようになり順風満帆に見えていた。しかし、日が経つに連れ二人の感情の差に罅が入り始め、やがて歪を生み、すれ違うことも多くなっていた。そして、誰よりも二人に近い虹村も、そのことは薄々感じ取っていた。が氷室と付き合い、初めて自分が秘めていた感情を自覚した虹村は何も言うことが出来ず、何もしてやることが出来なかった。そして、彼女がしあわせならば、氷室ならば彼女をしあわせに出来るだろうと思っていたが、それが儚くも壊れてしまった今、話を聞くことしか出来ない己の無力感を痛いくらい感じている。自分の感情を潰すように拳を握りしめることしか出来ないのだ。
「でも…でも、ちゃんと好きだったんだよ」
氷室に直接言えなかった想いを初めて言葉にしたの睫毛は、少し濡れていた。反射して光って見えたそれは、瞬きをもう一度したら頬にゆっくりと流れるだろう。
そして氷室が乗ってるであろう飛行機が離陸する。大きなエンジン音が空を駆け巡るように鳴り、機体は前へ進むように昇っていく。
「…っ、なん、でっ…何も言ってくれないのっ…。いつも、みたいに…っ、バカだなって…言って、よ」
木目調の床にひとつの大きな染みを作り、旅立つ飛行機を見送ったあとの視界はぼやけたみたいに歪んだ。けれど、歪んだあとに見える世界の鮮明さと言ったら、きっと眩しい以外の何物でもない。どんなに悲しくてもどんなに辛くても空は青いし、周囲の人々はしあわせそうに歩いてる。
「やさしくなんてっ…しない、でよ…」
振り絞るように出された言葉は、虹村の握りしめた拳をやわらかく解いていく。行き場のない感情を握り潰すことしか出来なかった虹村の手が、の頭をやさしく包んだ。虹村の大きな手が頭に乗せられると、堰を切ったかのようにの双眸から涙がポロポロと落ちていく。傍に虹村が立っているおかげで誰からも気づかれてはいないが、は人目も憚らずに泣き続けた。
静かに生まれた終わりの始まりを胸中に抱き、青空の下にいる二人の世界がゆっくりと廻り始める。