白い息が夜を彷徨う。反対に息を吸い込めば冷たい空気が胸を凍らせる。けれども、冬だと感じさせられるこの感覚は決して嫌いではない。おまけに今日は街がチョコレートの香りで溢れている。花が咲くみたいにほのかに香る甘い空気は、男女を明るい笑顔にさせるのだろう。街を歩く人々が持つ紙袋の中には、きっとたくさんの愛と恋が詰め込まれている。




 長い高速エレベーターを使ってたどり着いたのは、まさに天空と呼べるに相応しいほどの世界。地上から何階くらいの高さに相当するのだろうか。高層ビルの屋上にあるこのスカイデッキでは、東京の夜景を360度堪能出来るらしい。室内の展望台と違い、肌に触れる風が冷たくはあるものの、何にも制限されることの無い解放的なこの光景は外でないと味わえない。


「寒くないかい?」
「寒い」


 凍っていた胸の中が彼の笑みで一足早い春がやってきたかのようにあたたかくなる。楽しそうな笑みを口元に浮かべて「じゃあ手を貸してごらん」と差し出した手に生まれる温もりにはきっと幸せも混じっている。正直、例え手を重ねたとしても体感温度はそんなに変わらない。それでも温かいと錯覚出来るのは、きっと彼の手だからだろう。
 手を繋ぎながらゆっくりと、一歩ずつ夜景に近づく。視界に眩しい光の粒たちが数えきれないほど映った瞬間、呼吸を忘れたと思うくらいこの世界に吸い込まれた。地上で暮らしているだけでは決して気づかない美しい光彩。ひとつひとつの光がまるで様々な宝石のようにきらびやかに輝く。


「赤司くん!すごい、光がいっぱい!それにあんなに遠くまで見える!」
「そうだね」
「うち見えないかなぁ」
「どうかな、方角的にはの家はあの辺だと思うけど」
「赤司くんの家は?」
「こっちだよ」
「へえー、なんか不思議!」


 この夜景の静かな美しさに似合わない興奮を見せる私が可笑しいのか、彼は終始穏やかに笑っていた。その笑みを見て、大事なことをふたつ思い出す。ひとつは今、私が持っているこの赤い紙袋。この中には赤司くんに渡すためのチョコレートが入っている。感謝の気持ちを形にしたこのチョコを、彼に渡したい。そしてもうひとつ。彼の瞳を見て、彼に「好き」だと言葉で伝えたい。


「赤司くん」
「なんだい?」
「あのっ…!」


 それはある時、ふと気づいた事だった。そういえば私は今まで誰かに、男の人に恋愛感情を込めて「好き」という言葉を伝えた事があっただろうか。否、記憶に無い。男女関係なく、友人に対して軽いノリで「好き」と言葉にした事はあるかもしれない。けれど、今まで恋をした相手や付き合った相手、そして彼にさえも「好き」という言葉を伝えたことが無いのだ。きっと私は臆病者で羞恥心の塊。今までの恋は、この2つの壁を壊してでも相手に「好き」だと伝えたいとは思わなかったのだろう。でも、今私が恋をしている彼は違う。彼がたまに言ってくれる「好きだよ」の言葉をひとりで噛みしめて殻に閉じこもっているだけでは満足出来ない。
 2月14日、バレンタインデー。日本では女の人から男の人へ、愛の気持ちを伝える日。だから今日、私は生まれて初めて心の底から「好き」だと思った人に告白をする。何の変哲もない、世の中にはありふれている2文字の言葉。既に恋人同士であるにも関わらず、たった2文字を伝えるだけでこんなにも緊張するものなのだろうか。意を決して震える手で紙袋を彼に差し出すと、いつだって惹き込まれるその双眸に出会う。


「好き、です」


 彼の瞳を見たら、当たり前みたいに驚くほど簡単に言葉が出た。珍しく少しだけ瞳を見開いて吃驚とした様子を見せた彼だけど、すぐにいつものように穏やかに微笑んで私の手を包み込むように紙袋を受け取ってくれる。ああ、こんなに手があたたかくなってしまったら紙袋の中のチョコレートが溶けてしまうのではないかと馬鹿みたいな事を考えた。


「知ってるよ」


 言葉が耳殻だけでなく、ダイレクトに脳髄をくすぐる。この眩しいくらいの夜景に匹敵する程の美しい笑顔で「ありがとう」と紡がれたくちびるが、私のくちびるの上に重なった。触れ合ったくちびるは、今まで冷たい風にさらされて冷えていたはずなのに、不思議と熱いという矛盾が生まれる。ゆっくり離れると、熱を持ったくちびるを凍てついた風が再びやさしく撫でた。離れても鼻先が触れ合うほどの近い距離にある彼の顔を直視することが出来なくて、少しだけ視線を夜景の方へと移動させる。


「誰か見てるかも」
「みんなこの夜景と自分の相手に夢中だから、」


 もう一回、という言葉か形になることは無く、再び重ねられたくちびるがそれを意味した。またもやすぐに離れたくちびるの余韻に浸りながらも「好き」だと告げられた事に安堵して気が抜けたのか、つい小さなくしゃみをひとつ落としてしまう。すると、すぐに彼のやさしいニオイが首筋をふわふわと舞った。彼が巻いていたマフラーを私の首に巻いてくれているだけなのに、時折肌に触れる彼の指がくすぐったくて心地良い。


「…でも、は知らないだろう」
「何を?」
「秘密」
「え、教えてくれないの?」
「そうだな、じゃあ一ヶ月後に教えてあげるよ」


 屈託の無い、少年のような笑顔で楽しそうに微笑む彼に意味もなく胸がじんわりと熱くなる。そんな気持ちを隠すように彼に借りたマフラーに顔を埋めると、今度は彼に抱きしめられているように思えてしまって何とも形容し難い感情に襲われる。
 色彩鮮やかな宝石が散りばめられた夜の中で、あたたかさを孕んだルビーが私の頬にひっそりと宿った。



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