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「はい、はーい!氷室先輩、はーい!」 「どうした、?」 練習中の合間に聞こえる彼女の声は、この男だらけの空間の中で少しばかり癒しを与える。そう思うのは彼女 の恋人である氷室だけではないが、彼には特に愛らしい声に聞こえて仕方がないらしい。今日はそんな彼女の 声が、いつもより意気揚々としているように誰もが感じた。休憩になるとすぐに氷室のところへやってきた彼 女の顔は輝きに満ちており、その目は氷室だけを真っすぐに捉えている。氷室はそんな彼女の頭を、練習中だ ろうが人前だろうが何だろうが、平気で撫でようとする。彼は他人の迷惑にならなければ、愛情表情にあまり 人目を気にしないようだ。氷室はいつものように彼女の柔らかい髪に触れて頭を撫でようとしたが、それは残 念ながら空を切る。が何事もないように避けたからだ。彼女の温もりを感じることに失敗した氷室の手は、 どこか寂しさを漂わせている。はそんなこと気にも留めず、相変わらず意気揚々とした顔で氷室に話しかける。 「私、氷室先輩は矛盾してると思います」 「え!?・・・どうしたの、急に」 「氷室先輩は以前、アレックスさんに言いましたよね?」 「・・・何を?」 「『日本じゃキスは目立つから』・・・と!」 「・・・ああ、WCの時か。言ったね」 「そしてアレックスさんにキスをさせませんでしたよね!?」 「うん。も嫌がると思ったし」 「う・・・ま、まぁそれは置いといて」 先程まで自分が主導権を握るかのようにベラベラと話をしていただが、たった少し。少しだけ心を揺るが されるようなことを言われれば、すぐに立場が入れ替わりそうになる。いつもはそのまま氷室に押し切られが ちなだが、今日は負けじ魂で踏ん張る。氷室からしたら、のそんな姿までも愛らしくて仕方がないのだが、ここは大人しく様子を見ることにした。 「だから矛盾してるんです!」 「うーん、話が見えないなぁ」 「つまり!私にその・・・キ、キ・・・」 「え、何?」 「だから、その、外とかで私にキ、キスするのおかしくないですか!?」 途中からではあるが、氷室にはの言いたいことが何となく分かっていた。それでも彼女に最後まで言わせ たのは、可愛らしい加虐心を煽られたからだろうか。たかだかそんな言葉を言うだけで頬を染めてしまうよう な彼女。だったら何もこの場で言わなくても良いだろうに、とも思うが、その無鉄砲なところもの魅力のひとつだと氷室は微笑ましく思っていた。 「ああ、そんなこと」 「そんなこと!?」 「別に人前ってわけじゃないし」 「そ、そうかもしれませんけど外ってことは誰かに見られるかもしれないじゃないですか!」 「別に良いじゃないか」 「良くないです!」 「それにキスしてる時のの顔は誰からも見えないようにしてるしね」 「!?(そ、そんな器用なことまで!?)でも、恥ずかしいんです!」 「うん。恥ずかしがってるも可愛いと思うよ」 だからそういうのも恥ずかしんです!というの言葉はもう声にはならなかった。思いがけない甘い言葉に 恥ずかしさが襲い、今すぐこの場から逃げ出したくなる衝動に駆られた。どんなに強く、どんなに言葉を重ね ても彼には吸収されてしまう。そしてその吸収が結局は甘い言葉となって自分に跳ね返ってくる。どういう技 を使っているのだろうか、とが疑問に思うほど、氷室は鮮やかにへ愛を囁く。けれども、ここまで恥ずかしい思いをしてしまったは、今更引き返すわけにはいかないという固い意志の元、ついに氷室に宣言をする。 「というわけで、私が良いっていうまでキスしちゃダメですからね!」 「え?」 「外だろうが内だろうがダメですから!」 「・・・はは、分かったよ」 は一瞬呆気にとられた。何故なら氷室がこんなにも簡単に自分の言うことを聞いてくれると思っていなか ったからだ。自惚れと言われればそれまでだが、彼は常に自分にキスをしたがるので、そのキスがおあずけだ と言われれば少しの躊躇いが生まれると思っていた。なのに、返ってきた反応は笑顔と余裕の言葉。には少しだけ寂しい感情が生まれたが、そんな感情は破滅させるように自分の意志を尊重させる。 「ちん、馬鹿だねー」 「え!?何で!?」 特に興味はなかったが、自分の視界に入ってしまったに嘆きの言葉をかけたのは紫原だった。が少し ムキになっていたこともあり、紫原以外の部員にも、二人の姿や会話は筒抜けだったに違いない。紫原の言葉 の真意が全く理解出来ないは、彼に対して疑問を投げかけるが、紫原は面倒くさいのか答えることはしなかった。 そうしているうちに休憩が終わり練習が再開される。たまにではあるが、今までは練習中にがひとりで洗濯やドリンクの補充をしていると、氷室がの元までやってきて、まるで唇を攫うようにキスをしていく ことは珍しくなかった。しかし、今日はそのような行為は一切なく、そのまま練習は幕を閉じた。 氷室とは練習のあと、必ずと言って良いほど帰り道を共にする。氷室がを家まで送り届け、たまに彼女の家に上がって少しゆっくりしていく、というのが日常的だった。 もちろん今日もそれは変わらない。学校から の帰り道、3つ目の信号。ここまで来ると他の陽泉生も少なくなるので、その信号が目印だというようにこの場 所からお互い手を繋ぐ。 「手を繋ぐ・・・のは良いんだよね?」 「・・・分かってて言ってるくせに」 微笑みを混ぜながらに問い掛けた氷室はやたらと楽しそうだった。指と指を絡ませれば今日初めて感じる お互いの温度。いつもは当たり前だと思っていたこの温度も、少しばかり距離があっただけで、やたらと温か く感じる。二人はそのまま手を離すことなく、の家に辿り着いた。 そして、今日も変わらず二人きりの短い時間をの部屋で過ごす。は前々からこの二人きりの時間が大 好きだった。外でもなければ人前でもない。自分の部屋という空間なので、誰かに見られているかもという心 配もない。安心して氷室に甘えられる、安心して氷室と甘い時間を過ごせる大切な時間だった。しかし、今日 は自身が発言してしまった愚かな台詞のせいで、いつもより甘さが足りない。 「・・・」 「どうかした?」 距離は近いのだ。二人隣に並んで座っている。そして氷室が雑誌を読んでいるのをも一緒になって読む。 氷室の片手は雑誌。もう片方の手はを自分の方へと引き寄せ、リズムよく彼女の頭を優しく撫でている。 他人からしてみれば既に甘い雰囲気なのかもしれないが、には少しばかり物足りないように感じた。その せいか、つい雑誌ではなく氷室の顔を見つめるが、氷室は「どうしたの?」と聞いてくるだけで、それ以上は 特に何も聞かないし何もしない。ただ笑っているだけだ。 「あの・・・氷室先輩」 「ん?」 どこからか生まれる恥ずかしさに、はついその顔を隠すように下へ向ける。けれども、氷室の手が頬へと 伸びてくれば、触れられてるだけなのに顔が自然と上がってしまう。そして、顔が上がれば待ってましたと言 わんばかりに氷室が目を細めて笑う。の頬にそえられていた氷室の男らしい手は彼女の耳に移動したり、 その長い指は時折彼女の唇を撫でる。「ああ、彼は確信犯なのだ」そう分かっていても、我が儘な欲望が溢れ 出す。 「あの、その・・・」 「うん」 「えっと・・・そ、の、」 「うん」 「あの・・・ちゅー・・・して欲しいです」 「・・・あれ?ダメなんじゃなかったっけ?」 「うう・・・」 今まで以上の恥辱さを感じたは、自身のその赤い顔を隠すように、そして自分の我が儘をどうにかしたい という思いから、氷室に思い切り抱き着いた。氷室の胸元へ顔を押し付け、両手は彼の背中へ回し、ありった けの力をこめてぎゅうううううと抱き着いた。氷室はただクスクス笑いながら、愛おしむような顔での頭を撫でている。 「ごめんごめん、からかいすぎたね」 「・・・さては最初から私がこう言うの狙ってましたね?」 「それはどうかな?」 「意地悪!」 「意地悪なのはじゃないか」 「うっ・・・」 またもやあっさりと返されてしまうの言葉。敵わないと分かっているからこそ、たまに反逆したくなるの だろうか。けれども敵わないと思っているのはだけではない。氷室自身も彼女には敵わないと感じている のだ。そしてそのことには全く気づいていない。 「じゃあ今まで我慢させられた分、お返しさせてもらおうかな」 「・・・!あの、ほどほどで」 「いくらのお願いでもそれは無理だよ」 あっという間に揺らぐ視界。いつもより色気を孕んでいる氷室のその目に、既に何もかもが奪われてしまって いるかのような感覚に陥る。まずは挨拶、とでも言うかのようにの頬や耳元、額に唇を落としていく氷室。 彼のその余裕ありげな表情に、は少しばかり悔しさを生んだ。嬉しいけど恥ずかしい、恥ずかしくて悔し い。とにかく胸が張り裂けそうなのだ。そしてそれは、これから生まれる甘い時間を物語るのに充分な始まりだった。 「俺に我慢させるってことがどういうことか教えてあげるから」 もう二度とあんなことが言えないようにと、唇を塞ぐのはまだ序章に過ぎないのだ。 |
無謀過ぎる心臓に
無数の愛の矢
(いつも以上に愛させてくれれば、それで良い)