「何でそんなこと言うの!?」




彼女のこの怒りと悲しみが混じったような悲痛な声は、外の心地好い風に流されていくかのように消えてゆく。 せっかく放った声が、全く届いていないとでも言うかのように、先程の台詞を鮮やかに流された。彼女はそれ を不満に感じたのか、逃さないとばかりに相手の腕を掴み、揺さぶる。しかし、その行為も大して意味を成し ていないようだ。




「別にー。何となくそう思っただけだし」
「ひどい!敦くんのバカ!」
「えー、思ってること言っただけなのにー?」
「うう・・・」




練習が始まる前、マネージャーであると紫原は体育館の周りで穏やかに会話をしていた。まだ練習が始ま る前のせいか、体育館へ集合している部員は少なく、時々体育館へ向かう部員を見かけるくらいだ。何人かは 自主練などをしているのだろう。
しかし、そんな穏やかな時間は過去形のことである。穏やかさの余韻などは微塵も残っておらず、そこにある のはの傷心の心臓ひとつだけだ。何故このようなことになっているのか、原因は今ひとつ分からない。た だ何気なく、悪気なく出た紫原の言葉ひとつがきっかけだったのだろう。は真実の可能性を秘めているそ の言葉に、自分自身でも疑問をほんの少し抱いていたからか、噛み付くように反応してしまった。




「室ちん、他に女いるんじゃない」
「だから何でそんなこと言うの!」
「だって超モテてんじゃーん。それに別にひとりに絞る必要もなくなーい?」




それは紫原の恋愛に対する価値観なのかは分からないが、は肯定の言葉も否定の言葉も出て来なかった。 氷室がモテるというのは周知されている事実に間違いないし、恋人という付き合いも落ち着いてきたせいか、 どんなに彼が告白されても、最早嫉妬などはしない。そんな感情は通り越して、醜い気持ちはそこまで抱かな くなったのだ。それでも、やはり気になるは気になる。そしてもう一点。氷室に限ってそんなことないと思っ ているだが、やはりあれだけ多くの女性を魅力する氷室である。自分以外に愛している人間がいたとして も不思議ではない、そう思っているのだ。それが切なくも悲しい感情であるということは分かっているが、魅 力がない自分がいけないと思ってしまうことも実は多々ある。




「も・・・もし、もしそうだったとしても良いもん!」
「あ」
「私は氷室先輩のこと大好きだから、私に振り向いてもらうように頑張る!」
「・・・うん、頑張ってー。あと後ろ」
「え?・・・えええええええ!?」




風を切るように後ろを振り向くと、そこには正に話題の人物である氷室が立っていた。の勢いに声をかけ 辛かったのであろう氷室は、珍しくも少し驚いた顔を見せているが、その顔はすぐに歓喜に満ちあふれたもの となる。相変わらずの穏やかな笑顔に戻った氷室は、の頭をそっと撫でた。ここは何の隔たりもない外で あり、おまけに他人である紫原という人間がすぐ近くにいるというのに、そのような甘い行為を簡単にされて しまうのは、にとって複雑でもあった。




「愛されてるって思って良いのかな?」
「ち、違います!いや!違わなくもないんですけど!」
ちんワケ分かんねー」
「う、うるさいよ」
「大丈夫。俺はのその愛を受け止めるだけでいっぱいいっぱいだからね」




そんなことをこんなところでサラっと言わないでほしい。そんな小さな不満はの喉でつっかえた。何故か 反抗出来ない意思に脆さを感じつつも、不思議と嫌ではなかった。そして頭を撫でられている感覚がやはり心 地良くて、無言で氷室を見つめる。氷室を見つめる自分の目に熱情が含んでいるであろうことを、は自分 でも感じた。そおっと氷室を見上げて見つめると、予想以上の熱っぽい視線を返されてしまい、慣れているは ずなのに魂ごとわしづかみにされたような衝撃が身体の全身に走る。すぐ近くに紫原がいるというのに、身体 が全く動かない。




「俺、先に行ってるねー」
「敦にしては気が利くじゃないか」
ちん、ちょっとイジメ過ぎたし。・・・ってもう全然平気そうだけど」




はまたしても恥ずかしさから火傷しそうなほど、顔が赤くなった。けれども氷室はそんなを愛おしそ うに見つめているだけ。紫原はそんな二人に興味がないのか、不愉快に思ったのか、すぐに背中を向け行きた くもない体育館へ向かってゆっくりと歩いて行った。にはそんな紫原の背中さえ見えず、最早目の前の氷室しか目に入らない。




「あ、ああ、私たちも部活へ行かなきゃですね」
「うん。でも、その前にキスさせて」




の却下の言葉は氷室のくちびるによって瞬間的に奪われる。時々強引なところもある彼なので、このよう に外でキスをされることは初めてではないが、それでもから恥じらいが消えることは永遠にない。まして や校内であり、体育館も近いのだから他の部員の視界に入る可能性だってある。それでも、そんな事はお構い なしとでも言うように、くちびるへの愛が止まらないのだ。




「ちょ、ストップ。ストップです!」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
「そもそもがあんなこと言うからだよ」
「私のせいですか!?」
「うん。いつものせいだけどね」




自分のせいにされているというのに、不思議とそこまで不快な気持ちを抱かないのは、彼の言葉だからだろう か。からしたら悔しさを交えつつ睨むように氷室を見ているつもりのその目も、氷室からしたらただの可 愛らしい目に過ぎない。どんなに睨んだって怒ったって逆効果なだけである。




「まぁ、でも俺には敵わないと思うよ」
「何がですか?」
「俺がを愛して止まない気持ちのほうが強いってこと」
「そっ・・・!そんなこと急に言わないで下さい」
「本当のことなのに」




最早全身が火傷するどころではない。溶けて消えてしまいそうなほどの、その直接な言葉と愛の数々に、は ついにこの場から逃げ出そうとした。もちろん言葉など発さず、息をするのさえ忘れるほど勢いよく踵を返し、 ダッシュしようとした。しかし、それは所詮試みだけで散ることとなる。氷室に掴まれた腕が、悲鳴を上げて いるのだ。それは痛いからというわけではなく、逃れられないという真実から。




「言葉で伝えても分かってもらえないなら仕方ないな」




いつの間にかの背中の後ろは体育館の壁だった。この壁一枚の向こう側には、おそらく練習の準備をして いるであろう部員がたくさんいるだろうに、一体こんなところで何をしているのだろうか。いや、しているの ではない。されているのだ。先程よりもぐっと縮まった距離に呼吸困難になりかける。そのままくちびるごと 息を奪われればもう酸欠だ。おまけに 氷室の片方の腕は壁をついて逃さないと言うような意志を秘めているというのに、もう片方の腕は自分の頬を 撫でているだけなんて。逃げたければ逃げれば良いとでも言うことだろうか。の頭にそんな浅はかな問いが浮かび上がったが、そんな事さえも考えられないほどの熱がすぐに襲ってくる。




「今から証明してあげる」




舌先から伝わるその温度に、彼女の膝と腰が悲鳴を上げる数秒後のその時まで、彼の証明は続くのだ。





潤いに波紋を生む
(あんまり可愛いこと言われると我慢出来ないんだよね)