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生きていれば誰だって落ち込むことや嫌なことに遭遇してしまうだろう。もちろん私だって例外ではない。どんなに 前向きにいようと決心していても、稀に気分が落ちることもある。それでも昔からため息は吐かないようにしてい た。幸せが逃げるからとか、そんな夢のような理由ではない。周りに心配を掛けてしまうのが、周りに心配される のが嫌だったからだ。それは単純に、周囲に心配をさせてしまうことに対して申し訳ないという罪悪感と、周囲に弱いと思 われたくないという見栄から成り立っていた。それでも、やはり気落ちはしてしまう。そんな時は「はぁ」という ため息ではなくせめて「ふぅ」と言うように心掛けていた。どちらもため息であり、自分自身の勝手なルールと思い込みだが、 前者のため息よりは周囲に落ち込んでいるだとか疲れているだとかいうことを知られることは少ないように感じた。 「ただいま」 「お帰りなさい、辰也くん」 必ずと言って良いほど、私より遅く帰ってくる彼のために部屋の片付けをして、食事の準備を済ませて、いつでも ゆっくり出来る状態にしておいてあげることが、私にとっては幸せのひとつだ。既に日常的なことになっているが、それでも 彼は毎日のように私に感謝のキスをしてくれる。私は今でも十分幸せ者だ。だから余計に彼に落ち込んでいたり元気のない 姿を見せるようなことは絶対にしない、したくない。 「別に毎日キスしてくれなくても良いのに・・・」 「俺がにしたいだけだから」 「そっか」 「それにの顔を見ると安心するし疲れも吹き飛ぶしね」 甘い言葉をくれるのは付き合い始めた当初から何も変わっていない。慈しむように頭を撫でてくれるその優しさも 何も変わってない。その甘さに抱き着きたくなってしまう衝動を必死におさえ、食事の準備の続きをする。けれど も毎回のように赤くなってしまうこの顔と耳はなかなか上手く隠せないので、いつも彼の楽しそうな笑い声がクス クスと聞こえてくる。こうやって幸せを実感している時は、落ち込んでいた事なんてすっかり忘れてしまうのに、 彼が「着替えてくるよ」と視界から消えた瞬間、また暗い気持ちがやってくる。 彼はどんな料理でも残さずに食べてくれる。例えば、初めて挑戦しようとして失敗してしまった料理なんかもキレ イに全て平らげてくれる。無理しなくて良いよ、と言っても彼は笑いながら食べてくれる。そんな優しい完璧のよ うに見える彼。そんな彼にも何か嫌なことがあったり、落ち込んだりすることがあるのだろうか。答えは「ある」 。あまり表情に出すことはないが、たまにある甘えが、彼の気落ちしているというサインなのだろう。でも、そん なところを私に見せてくれるのは何よりも嬉しかった。私には他の人には見せない部分をさらけ出してくれている ようで、自分は彼にとって特別だと実感出来る瞬間でもあった。 今日もいつものように全て食べ終えてくれたキレイなお皿を片付ける。洗い物をする時にその日、嫌なことが あったりすると無意識のうちによく 「ふう」と息を吐いてしまうのはもう癖のようなものなのかもしれない。嫌なことがあったり疲れていると出てしまう SOSのサイン。でも誰かにSOSを求めているわけではなく、心の中に溜まってしまった澱んだ気持ちを外に吐き出し たいだけなのだ。 洗い物を終えて、あとはゆっくりするだけと思い、束ねていた髪の毛を下ろす。下ろしたと同時 にテレビを見ていてくつろいでいたであろう彼から「」と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。 「こっちおいで、慰めてあげるから」 言葉の意味が分からなかった。目を丸くしている私を手招きしている彼の顔は今日見た中でも一番穏やかだ。その 慈愛に満ちたような表情に、ワケが分からないまま誘われるように彼の元へ足が進んでしまう。座している彼の横 まで来ると、手を取られ彼の足の間へ導かれた。そのまま座ると彼の男性らしい身体の大きさに包まれる。このま ま彼の胸に頭を寄せて甘えたいところだが、必死にその図々しい気持ちを抑えて我慢。 「・・・何で分かったの?」 「のことくらいお見通しだよ」 「ごめんね・・・」 「どうして謝るの?」 「・・・何となく」 「よしよし」 謝罪の言葉がつい出てしまったのは、彼に気を遣わせてしまったかもしれないという罪悪感が生み出てしまったか ら。彼にそういう思いをさせないために、必死で誤魔化していたというのに、どうやら私はまだまだらしい。 まるで小さい子をあやすように、彼の大きな手が私の頭をふわふわと撫でる。そのリズムが私の鼓動とよくマッチ していて、先程までは我慢していた甘えがつい爆発してしまった。彼にぴたりとくっついて、寄り添ってみる。そう すると、応えてくれるかのように私をぎゅ、と抱きしめてくれるから、もうこの人からは離れられないと、実感させ られてしまう。 「何も聞かないの?」 「言いたくないみたいだから聞かないよ」 「・・・愚痴みたくなっちゃうから言いたくない」 「別に良いのに」 他人の愚痴というものを聞くのは嫌いではないが、自分自身が愚痴を言うのは何となく嫌だった。他人が愚痴を言って いる時は何も感じないが、自分が愚痴を言うと弱い女と思われるんじゃないかという無駄な危惧が私にはあった。こ れもおそらくただの見栄だろう。別に損をすることなんて何もないのに、どこかで発散することをしない。だから、そ うして自分の中に溜め込んで、結局彼を心配させてしまうという最悪なループから逃げ出せないようだ。 「でも・・・」 「はさ、俺がたまに疲れてたり俺の話とかを聞いてくれてる時、どう思うの?」 「え・・・」 「疲れてるところなんか見せないで、愚痴なんて聞きたくない。とか思う?」 「ううん・・・思わないよ。むしろ不謹慎かもしれないけど嬉しいって思う」 「俺も同じだよ。はもっと甘えて良いと思う」 「そう・・・なのかな」 「うん。まぁ俺に限定だけどね、なんて」 そう言って与えてくれた優しいキスは、私の中に棲んでいた無駄な見栄や嫌なことを全て溶かしてくれるよ うなものだった。「でも、辰也くんだって愚痴とか言わないじゃない」と言うと「には小さい男と思われたく ないから」なんて言うから、私とちょっと同じだったんだなと思うと、密かに少しだけ嬉しくなった。私が嬉しそうに笑って いるのを見て、彼は少し不思議そうだったが、ようやく笑った私に安心してくれたのか、彼も微笑みながらずっと 頭を撫でてくれた。 「でも、俺が弱みを見せるのはにだけだよ」 「うん・・・」 「には俺の全てを見てもらいたいから」 「全て?」 「うん。だから、の弱いところも見せて欲しいな」 「そんなこと言ったら・・・私、弱いところだらけだよ?」 「良いよ。そしたら俺が受け止めてあげるから、ね?」 今まで何度も彼を好きになって良かったと思ったことがある。そして、それはもちろん今も。お互いが支え合って 愛し合いながら生きていくってこういうことなんだなぁ、と少し恥ずかしいけど、嬉しいほど実感が出来た。どう しようもない思いが込み上げて、彼に思いっきり抱き着きながら伝えてみた。 「・・・辰也くん、好き」 驚いたのか、しばらく黙っていたけど、すぐにいつもの穏やかな優しい笑みに戻って「不意打ちは狡いな」と耳元 で囁かれた。そのあとすぐに「俺もだよ」という言葉と一緒に口づけが流星群のように降って来る。私にとっては 輝き続ける星よりも、彼の口づけの方が遥かに魅力的なものである。 「落ち込んだ分、たくさん愛してあげるから」 その言葉の数々に今度からはもっと甘えようと思わされてしまうあたり、やっぱり私は弱い女なのかもしれない。 |
やさしさに
溺れても
誰も咎めない
(のことはいつもこれ以上ないってくらい愛してるけどね)