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依存症という言葉があるが、これは何も特別なことではなく、常に誰の傍にでも存在しているものではないだろ うかと思う。現代で言えば携帯・スマホがないと不安で仕方ないと言う人は多いだろう。物でなくたって、常に買 い物をしていたい人間もいれば、常に恋愛していないと落ち着かない人間もいる。軽い程度の場合も存在すれば、一 種の「病気」という括りにされる場合も多く存在するだろう。どちらにしろ、なかなか手放せない、解放されないという のが現実である。 「大変だ!」 まるでドラマやアニメの台詞を棒読みしたかのような言葉だが、私の心情はこの言葉通りである。今日は数少な い彼の休みに合わせて、彼の家でゆっくりと過ごしている。二人でソファーに並んでレンタルしてきたDVDを観る という、普通でありながらも最高に幸せな休日だ。彼の肩に凭れ掛かるように頭を乗せれば、彼の手が私の頭をと っても優しく撫でてくれるので、その雰囲気に酔いしれそうになっていた。けれど、タイミング悪くもふと現実的 なことを思い出してしまった。せっかくの甘い雰囲気を、自分の声で壊してしまったことに今更後悔しても遅い。 おまけに彼は優しいので、私が発した独り言としては大きい程の言葉にわざわざ心配までしてくれるのだ。 「どうかした?」 「えっと、あの・・・」 私を見る目が本当に優しくて、おまけに私が慌てていると思っているのか、頭を撫で撫でしながらというおまけ つきで落ち着かせようとしてくれている。大変だ、という言葉の割には落ち着いているつもりだが、彼のその優し さで心臓がドクドクと加速してしまう。観ていたロマンティックなラブロマンス映画よりも、今この瞬間の方が遥 かに甘い雰囲気を纏っているのに、私の口は固まったように動かない。不意に胸をときめかされたから、というよ りは先程私が述べた言葉の中身は彼からしたら他愛もない、影響のない、下らないことだろうから何も言えないの だ。いや、もしかしたら影響は彼にも若干あるかもしれないが、あまりの下らなさに罪悪感が募る。 「ん?」 お願いだからそんな心配そうな顔をしてこちらを見ないで下さい。心の中でそう叫ぶのが精一杯である。微笑み ながらも心配してくれていることが分かるその眼差しは、何もかも忘れさせてくれそうでもある。欲を言えば、私 が言った先程の不格好な言葉も忘れさせて欲しい。しかし、彼はその柔らかい物腰に反して意外に頑固なところが ある。意志が固いとも言えるが、とにかく目的や目標を果たそうとする性格なため、私が何故あんな言葉を発した のか、理由と答えを聞くまで解放してくれないだろう。 「・・・ちゃった」 「え、何て?」 「忘れ物、しちゃった」 まさか、まさかリップを忘れてしまいましたなんて、とてもじゃないけど言えない。リップを忘れたきた「だけ 」だなんてとてもじゃないけれど情けなさすぎて言えない。正直言って、それの何が大変なんだと言われればそれ までである。しかし、私にとってはたかがリップではなく、されどリップなのである。小学生くらいの頃からだろ うか、ずっと昔からリップを塗り続けてきた習慣はなかなか変わらないし変えられない。家にいる時はもちろん、 外出する時だって気づいたら常に一緒。ストックだって常に2〜3本用意している程だ。一体いつ頃からだろうか 、近くにリップが存在しないと不安を覚えるようになったのは。まさしくリップ依存症である。 「何を?」 「えっと・・・」 「大事なもの?」 「う、ん」 ただし「私にとっては」がつく。最近は男性もリップを愛用していると聞くが、まさか傍にないと落ち着かない なんてことはないだろう。だからきっと理解されないだろうが、今の私はとにかく不安で仕方ないのである。つい 先程、思い出すまでは何とも思っていなかったのに、手元にないことを自覚した途端、不安でたまらなくなる。今 日はこれからリップを塗ろうと思う度に、不安とショックと焦りに襲われると思うと憂鬱になりそうだ。せっかく 彼と一緒に過ごしているというのに、こんな憂鬱に襲われるくらいなら、一度自分の家に取りに帰ってしまおうか 。だが、そんなことをすれば彼と一緒に過ごす時間が減ってしまう。ならば、飲み物でも買いに行くと言って、近 くのコンビニにでも行ってきてしまおうか。でも、優しい彼はそんなの自分が買ってくると言い出しかねない。 「それがないと大変?」 「うん。って言ってもたかが・・・だけど」 「え、何て?」 「リップ、だけど」 このまま黙っていると、結局彼に嘘をついているような罪悪感に押し潰されそうになる。リップがないことより も、こんな下らないことで彼を心配させてしまっていることのほうが嫌なので、ぽろりと白状してみた。彼が何を 想像していたのかは分からないが、私から出た「リップ」という言葉は意外だったらしく、珍しく目をぱちくりと させていた。私の中で今まで抱えていた下らない思いがついに沸騰したのか、申し訳なさと恥ずかしさに急速に襲 われてしまったので、彼に抱き着いて自分の顔を誤魔化すように隠した。呆れた、と言われても仕方がないと思っ ているので、その恐怖に耐えるために抱き着いたという卑怯な部分があるとも否めない。けど、頭上から降ってき たのはくすっという穏やかな笑い声と、先程と何ら変わらない私の頭を優しく撫でる手だった。 「それは大変だね」 「え、呆れないの?」 「どうして?にとっては大事なことなんだろう?」 「・・・うん。ないとすごく不安」 「そっか。でも、どうして不安になるの?」 ここでまさかの難しい質問が来た。どうして不安になるのか、なんてこと今まで特に意識したことは一度もない 。別に意地悪で聞いてるわけではなく、本当に純粋な質問なのだろう。ならばこちらも純粋に答えるのが筋ではあ るが、もっともらしい答えが出て来ない。唸りながら小さい脳をフル回転させても、出て来るのは結局同じ唸り声 だけ。そんな私の姿を見て「悩んでる姿も可愛い」と、またもや私のハートを軽々と射抜いて来る言葉をプレゼン トしてくれるので余計に答えがまとまらない。 「リップがないと唇が乾燥するっていうかガサガサするっていうか」 ようやく出たのは何ともまぁお粗末な答えである。しかし、これは事実なのだ。そう、唇が乾燥するから私には リップが必要不可欠。乾燥するとガサガサになるし、時には血だって出てしまうしで、悲惨なことになるので必要 なのだ。何も飾り付けない格好悪い言葉でしか表現出来ないが、それしか答えようがない。けど、本当の理由はも うひとつある。この理由を彼に言うか言うまいか。何だか自惚れているようで恥ずかしいし、私の口から言うのも 躊躇われる。でも、彼は私がまだ何か言いたそうなことくらいお見通しである。先程の答えに対して何も言ってこ ないのは、私がまだ何か続きを言うだろうと思って待ってくれているのだろう。 「そ、そうなったら・・・ち、ちゅーとかする時、嫌でしょ?」 言う前も相当恥ずかしいと思っていたが、実際に言葉に出すともっと恥ずかしくて仕方がない。おまけに、普段 の私の唇なら良いでしょ?と言ってるようにも聞こえてしまう言い方をしてしまったかもしれないと自分の発言を すごく後悔した。考えれば考えるほど、何てことを言ってしまったんだろうと、顔から火が出るくらい恥ずかしい 。おそるおそる彼の顔を見上げれば、リップを忘れたと告げた時と同じようにまたもや珍しく目をぱちくりとさせ ていた。ポーカーフェイスと言われている彼の驚く顔を2回も見れたことはラッキーかもしれないが、こんなこと で見たくはなかった。 「そんなことないよ」 「・・・今度こそ呆れたでしょ?」 「いや、ってどうしてそんなに可愛いのかなぁと思って」 ぎゅううと心臓を握り潰されるくらいの抱擁に、苦しさを感じながらも幸せまで感じてしまう単純な私の心臓。 おまけに何度言われても私の心をほてらせるその魔法の言葉は、私のちっぽけな悩み事を燃やして灰にしてくれる のだ。 しかし、もう一度彼の顔を見上げると私の想像とは違う顔をしていた。またもや自惚れているようではあ るが、彼はきっと優しい笑みを浮かべてくれているのだろうと思っていた。もちろん、確かに優しいは優しいので ある。しかし、どこか微かに漏れるその妖艶な意地悪さを見逃すほど、付き合いは短くない。その目に捕らえられ たと感じた瞬間、唇が潤ってしまったのだ。ただの口づけではないことは、反射的に閉じた目を開けなくても感覚 でよく分かる。 「唇くらい俺が潤してあげるよ」 唇どころか既に満たされていた心まで一気に潤ってしまった。潤えば潤うほど私の心は熱くなるという、何とも 言えない幸せに陶然してしまう単純な自分は、どうやらリップ依存症なんかではなかったようだ。 |
去りゆく紗幕に
おやすみ
「だから、俺が傍にいれば良いよね?」