23時、繁華街のバーのカウンター席でふたつ、グラスと氷がぶつかる音色。そんな音色をBGMにしながらアルコールを身体の奥底にまで浸透させる。グラスの中の丸い球体の氷は、その時の雰囲気によってイメージを180度変える、などと下らないことを思いながら酒を喉に流し込んだ。そんな中、隣で何回目か分からない注文を繰り返す彼はいつもと違うように見える。


「飲み過ぎじゃない?」
「そうかな?」


 学生時代からの友人である彼とは卒業してからも時々こうして飲むことがある。面倒見の良い彼は飲みの席では介抱の役割を自然と担ってしまうことが多いらしく、普段はなかなか自由に飲めないそうだ。不満に思っているわけではなさそうだけれど、やっぱりたまにはハメを外して飲みたくなる時もあるのだろう。顔色が変わらないから酔っているのかイマイチ分からないが、相変わらず女の私でもうっとりしてしまうほどの美しい顔立ちである。彼に見つめられているグラスの中の氷に妬いてしまいそうになるほど、彼の視線は一点に集中している。飲む手が止まったところを見計らって声を掛けてみた。


「私、そろそろ終電…」
、」


 腕時計の中で動く針を気にしながら遠まわしに意志を告げようとすると、言葉の途中で遮られた。彼が人の言葉を最後まで聞かないなんて、珍しい。いつも私の下らない話にだって、最後まで耳を傾けて聞いてくれるというのに。おまけにいつもより熱っぽい瞳が私の唇の動きを静止させた。相変わらず片目しか見えていないのに、その目は私を黙らせるのに充分だった。


「今日は帰らないで欲しい」
「ど、どういうこと?、」
「帰したくないんだ。そばにいてほしい」


 彼の手が重なられたせいで、腕時計が見えなくなってしまった。時間を止めたいという意志表示だろうか。そんな映画やドラマみたいなクサイ言葉で甘えられたって、何も響かない。そう思うことが出来たらどれだけ楽だっただろう。愚かなことに、ひっそりと彼に抱いていた恋心が覚醒してしまいそうになる。叶う日は来ないだろうと私の胸にだけ鍵をかけて閉まっていたひとつの恋。


「…でも、」
「今夜はオレの願いを聞いてくれないか」


 どうして?だとか何で?だとかそういう疑問は聞かない方が自分のためだと思った。その回答に必ずしも動揺しないでいられる自信がなかったからだ。例えば「何となく」だとか「酒を飲むと人肌が恋しくなる」だとか、別に私じゃなくても良いような答えを聞くのが少しこわかった。恋をしてしまうと臆病になってしまうのが厄介である。だったら、身体だけでも彼と繋がれるのなら、と少し冷めたことを思ったのだ。もうイイ大人だし、一回きりの関係なんてよくあること。幸いなことに今はお互い相手もいない、はず。

 流れるようにやってきたホテルはただセックスをするだけには豪華過ぎるようにも感じた。その辺のラブホテルにでも入るのかと思いきや、むしろ普段あまり泊まらないようなホテル。部屋の中に入り扉が閉められる音がすると、ようやく実感するこれからの展開。らしくもなく、ドキドキしているのが自分でも分かる。今からでも遅くはない。やっぱり止めた方が良いのではないか。そんな私の迷いが見透かされたのだろう。いきなり後ろから抱き締められた瞬間、思考がすべて停止する。耳元にくる彼のくちびるに心臓が飛び跳ねると、そのまま生温かい感触が耳を伝って心まで抉ってきた。


「ちょ、ちょっと、シャワーっ…」
「良いよ、別に」
「私が良くっ…ないっ」
「もう、止められるわけないだろ?」


 その言葉通り、彼には止める気配が一切ない。それを悪しきと思っているのか良しと思っているのか。困っているのか、いないのか。


「よ、酔ってるでしょ!?」
「いつでも酔ってるよ」


 彼の声音はこんなにも私の鼓動を早くさせ、私の腰を砕けさせるものだったのだろうか。耳元で囁くように語りかけてくるからなのか、アルコールのせいで色気まで増大させられているからなのか、そんなことは最早どうでも良かった。


に、ね」


 またもや紡がれるつまらない言葉なのに、こんなにも心臓がうるさい。ただでさえ何も言えないくちびるに、彼のくちびるが重なってしまえば、もう言葉を発する意志さえもかき消され、ただ吐息しか漏らすことが出来ない。
 ベッドが軋むスプリング音に耳を済ませ、彼の酔った顔と天井のコントラスト。きっと私の双眸も、彼からしたら酔っているように見えているかもしれない。


「言っておくけど、我慢なんて出来ないよ」
「え?」
「こんなに可愛いを前にして、理性なんて保てるわけないだろ?」


 そんな台詞にスマートに返せる女性がいたら、何と答えれば良いのか教えて欲しい。


「優しくしてあげたいけど、ごめん」


 そういえば、彼とは数年の付き合いがあるけれど、何かに焦ったり余裕を無くしたりする姿はあまり見たことがなかったかもしれない。いつもスマートで、紳士的で、オトナで。きっと誰もがそう思っている。


「そんな余裕はないかもしれない」


 そんな貴方の本当の姿も、お酒のせいなのでしょうか?












 夢から醒める瞬間が絶対にやってくる。この一瞬、この一瞬がこわい。どんな顔をして、どんな表情をして、どんなトーンで、どんなテンションで一言目を吐けば良いのか分からない。目を閉じながら考えていると、頬にやわらかい感触がした。つい、何かと思って目を開けてしまったが、そこには優しい顔の彼が在る。


「おはよ。やっぱり起きてた」
「…おはよ」
「あとで朝食でも食べに行かないか?ここのフレンチトーストは最高だから、にも食べさせたくて」


 変わらない。いや、変わった。確実に変わっている。気のせいじゃなければ、先程感じたのは彼のくちびるだ。キスで恋人を起こすなんて、そんなこと…あ、そもそも恋人でも何でもないのに。
 既にきちんと着替えている彼を見て、いまだに裸をシーツで隠している自分がやたらと恥ずかしくなった。昨日の余韻をひとり、引きずっているみたいで。


「…酔ってたからじゃないの?」
「あれ、昨日オレが言ったこと聞いてなかった?」
「え、何て言ったの?」
「まぁ…も夢中だったみたいだから仕方ないかな」
「な…!そんなこと、」
「じゃあ、改めて言うよ」


 またもやベッドが軋む音。彼がベッドに上がってくるだけで少し身構えてしまうなんて、私も図々しい女になったものだ。おまけに彼の指がすっと滑らかに伸びてきて、耳に髪をかけられると、風も吹いていないのに露になった耳が震えているような気がした。でも、火傷しそうなほどの熱を持っているなんて全く矛盾している。


「今までもこれからも、オレはが好きで仕方がないんだ」


 酔いは覚めても、昨夜の宵は終わらない。











「言っただろ?オレを酔わせることが出来るのはだけだって」