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「それっての癖?」 ふたつ並んだグラスが部屋のインテリアを微かに映している。中には冷たいミネラルウォーター。テーブルの上に置かれたばかりの水はまだ揺れており、映し出している世界は輪郭がハッキリしていない。喉を潤してくれたグラスをテーブルの上に置き、ソファーの背もたれに自身を預けると隣に腰掛けている彼から質問を受けた。 「それって?」 「飲んだあとグラスについた口紅とかを指で拭うの」 視線をグラスに映すと、僅かに拭いきれなかった赤が掠れるように残っている。出掛ける時はグロスやルージュ、そして色がついたリップを普段から愛用しているせいか、割と頻繁に無意識に行っているこの行為。指摘されたからか、つい自分の指をくちびるの傍に持っていき思考を巡らせる。その間に彼に腰を引き寄せられていることにも気づかず、その質問に答えようと彼の方を向いた時、予想外の近さに若干驚いた。しかし、彼が私を引き寄せるのも日常みたいに当たり前なことなので、すぐ平静になる。 「癖っていうか、女の人は結構みんなやると思うよ」 女性の嗜み、と言える程まだまだ立派な女性ではないが、少しだけオトナの女になれたかのように思い込むことが出来るこの動作。いつからやり始めたのかなんて覚えていないけれど、今では当たり前になっている。白いカップで湯気が出るような温かい飲み物に映えてしまう赤に比べたら、グラスに残ってしまった赤は然程気にならない。「マナーみたいなものかな」と零しながらもう一回グラスを手に取り彼にもたれかかる。一口、喉を潤すとグラスにハッキリついた赤。それを指で拭いながら、グラスに映し出された彼のぼやけた輪郭が目に入る。 「でも、今はオレと2人なんだから気にしなくても良いんじゃない?」 「…そっか、そう考えると癖なのかも」 グラスを再びテーブルの上に置き、今度は彼をソファーにするかのように私からくっつく。彼は私が身体を密着させると必ず何かしらの反応を返してくれる。より強くぎゅっとしてくれたり、頭を撫でてくれたり。彼に「急にどうしたの?」なんてくっついたことに疑問を投げかけられる前に、自分の中に答えを用意しておく。でも「身体が少し冷えてしまったから」きっとそんな言い訳を用意する必要はない。だって彼は私がくっついたら、いつだって何も言わずに受け入れてくれるんだから。それでも言い訳を用意したのは自分を誤魔化すためだろう。素直になれない自分を偽るため。だって「ただくっつきたかったから」なんて今の私には恥ずかしくてまだ言えない。そういえば、これも彼の癖のひとつなのかもしれない。私がくっついたら、反応を返す癖。もちろん、彼も気づいていない、きっと私しか知らない、彼の癖。 「でも、どうして今更?」 「ん?色っぽいなぁと思って」 確かに大人っぽい女性がさり気なくグラスやカップについたルージュを拭っている姿は、女の私からしても色香を纏っているように思える。けれど、普段から色気なんて微塵もないような私が同じような動作や振る舞いをしたところで魅力を醸し出せるなんて思ってもいなかった。それでも、そんな私でさえも彼は色っぽいと言ってくれる。私からしたら、私を褒めてくれた今の彼のほうがよっぽど艶やかで惹かれる。恥ずかしくなって彼に抱きつくとまたあの癖。頭上には彼の微笑が降ってくる。早くこの心臓の高鳴りを誤魔化さなければ。話題を変えなければ。 「飲んだり食べたりするとさ、すぐリップとか口紅とかグロスとかそういうの落ちちゃうんだよね」 「部屋の中でくらいはつけなくても良いんじゃないか?つけなくても可愛いし」 「そういう問題じゃないの。乾燥を予防とか色々意味があるの」 半分は保温、もう半分は少しでもナチュラルに、少しでも可愛くありたいため。だって、本当に保温のためだけなら色がついてないリップは山ほどある。彼がそこに疑問を持たなかったのは…いや。あえて言わないでいてくれたのかもしれない。当たり前のように「可愛い」と言ってくれた言葉に対して、当たり前のように毎回照れてしまう自分を隠すためにスルーした私のように。 くちびるを何となく指で触れていたら、その指を彼の指に奪われた。ついでにくちびるも彼のくちびるに奪われる。そして一瞬だけ離れてもう一度。彼のくちびるが優しく押し当てられると自然に瞼が閉じてしまう。くちびるが離れたことを温度で感じ取ると、艶美に微笑む彼の顔と出逢った。 「でも、キスしたら落ちちゃうだろ?」 おかげで私のくちびるは裸状態だ。守ってくれる膜を失ったくちびるは外気に晒されてその温度差を実感している。けれど、変わらず保温されているように思えてしまうほど、むしろ温かい、熱い。原因と言ってしまうと聞こえが悪いだろうか、理由はもちろん分かっている。"彼の所為 or 彼のお陰" どちらを言えば良いのか分からないけれど、なかなか素直になれない私はそれをきっと「彼の所為」だと言う。 「…分かっててやってるでしょ?」 「バレた?」 先程の艶めいた雰囲気を崩して悪戯っ子のような楽しそうな笑顔を向けてくるものだから狡い。そんアシンメトリーさに私が惹かれないわけがないということも分かっているのだろうか。「でも、がリップとかグロスとかそういうの塗ってるところ見るも好きだよ。ほら、人前ではなかなか出来ないこともオレの前とか二人きりなら自然にやってくれる事とか無防備でいてくれてるって感じがするし。だからかな…それに余計、」彼がひとりで話している声も内容も、もちろん頭の中には入っている。けれど心臓に追いつかない。鼓動に追いつけないのだ。 「キスしたくなる」 ゼロの距離に引き寄せられ、全身の神経に直接響かせるような耳元で囁くその声音が私の心臓を鷲掴みした。胸から激しいノック音が奏でられる。まるで、もうこのときめきにたえられないと訴えかけるかのように。 そんな台詞を吐いた彼のくちびるは私の耳にキスをして、おまけに這うような生温かい感触と温度が私の耳を伝ってすべてを蝕もうとする。予想していたといえばしていたけれど、それでも防げなかった不意な声が小さな音となってくちびるから漏れた。 「のくちびるから漏れるその声も色っぽくて好きだよ」 そんなことを言うくせに、私の息ごと誘拐してしまうようなくちづけをする彼に抗う術なんて持っていない。彼に抱きついていた身体はいつの間にかソファーに沈んでいた。グラスがソファーの上で重なる私たちをぼやかしながら映し出している。そんな光景、眩しくて見れない。でも彼に視線を移すことは心臓が荒ぶって許してくれない。目的地が見つからず視線を彷徨わせていると、彼の大きな手が私の頬を撫でた。 「ねぇ、もっと色っぽくしても良い?」 貴方によって、私は艶を生むことが出来るのです。 |

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ーそんなに色っぽい表情をされたら、我慢なんて出来ないよ |