小鳥が鳴く音で目覚めた、なんていい年をした女が言うには図々しいだろうか。まだ気怠い身体をゆっくりと起こし、ベッドを出来るだけ軋ませないようにフローリングの床に足をつける。洗面所に向かい、基本的な身だしなみを整えた後はドレッサーの前で変身体勢。キャミソールの上から上品を装うために細いストライプのシャツを羽織る。
 リビングにはお気に入りのテーブルとチェア。今もまだ静かな寝息を立てて眠る彼と一緒に選んだおかげで、とてもセンスの良い物を購入出来たように思う。その椅子に腰掛けながら片脚を伸ばしてストッキングを履く。あ、伸びてしまった爪のせいで伝線した。そういえば以前にもこうして腰掛けながらストッキングに足をねじ込んでいた時に伝線してしまったことがある。一直線、縦に線が入ったストッキングを見て彼が「何だか少し色っぽいね」などと言っていたのを思い出した。AVの見すぎじゃないかと言ったら「オレにはさんがいるんだから、そんなもの必要ないよ」とサラリと言われたこともついでに思い出した。今度は伝線させないようにゆっくり、慎重に履く。そして少しタイトめのスカートを履けば戦闘服の出来上がり。
 やかんに火をかけ、インスタントの苦すぎるコーヒーを淹れる準備に入る。ついでにトースターにパンを入れてる間に卵を茹でてあとは食すだけ。雑な朝ごはんでもとにかく体の中に入れば良い。それにこの空間に本当にひとりきりの孤独でブレックファーストを済ませるのと、この空間のどこかに愛しい人がいるのとでは過ごす時間の感じ方が全く違う。
 朝のニュースを一通り確認したあとは、鏡の前で自分自身を最終チェック。玄関横のシューズボックスからオフィスに合う7センチのピンヒールがついた漆黒の戦闘靴を出す。狭い履き口に足を入れ、ガラスの靴のように脆く安全靴のように重いヒールの靴を装着。顔を上げ、ドアノブに手をかけると後ろから上半身裸の彼が普段は滅多に見られないような隙だらけの姿でやって来た。

「あれ、さん今日仕事?」
「うん、昨日の夜に連絡来ちゃって」
「そうだったんだ。それなのにあまり寝かせてあげられなくてごめんね」
「い、良いよ別に」
「お詫びに行ってらっしゃいのキスしてあげる」

 お詫びになんてなってないよ、と思いながらも彼のキスを甘受する自分の甘さ。朝飲んだブラックコーヒーが今になってちょうどよく甘くなる。

「口紅、いつもより少し濃かったから調整してあげたよ」
「…ちょうど良くなった?」
「もう一回、くらいかな」

 急いでいるつもりはないけれど、そういえば靴を履く前に慌てて塗り直したことを思い出した。彼の気遣いは完璧である。メイクが崩れ過ぎない程度の軽めのキス。おかげでルージュを塗り直すどころか「ちょうど肌に馴染んだよ」と彼は言う。彼のくちびるに少しだけ移ったルージュは彼をより色っぽくさせた。

「ちょっと、お尻撫でないで!」
「物足りなかったらつい、ね」
「もう」

 仕事という戦場に行く準備がこれで完了したと言うべきか、このまま彼と再び甘い時間を過ごしたいと仕事に行くのが億劫になったと言うべきか。彼と離れた瞬間の空気がひどく冷たい。けれどぬくもりはまた帰って来ればやってくると分かっているから。

「早く帰っておいで、待ってるから」

 ヒールでこのときめきを奏でられそうなくらい、一歩踏み出す足が軽くなった気がした。