アスファルトに穴があくんじゃないかと思うくらい強く打ちつける雨粒。駅から彼のマンションまでは徒歩5分。たかが5分、されど5分。宵闇の中、駅についた途端に遭遇した雨たちは、その5分の間に勢いを加速させた。小雨程度だから走れば大丈夫、なんて考えは乙女心より不安定な雨によって掻き消されてしまったのだ。私にとって彼のマンションに行くことは、コンビニやスーパーに行くのとあまり変わらない。今となってはマスカラを何重にも重ねたり睫毛の隙間を埋めるアイラインを引いたりするようなオシャレなんか、彼の部屋に行くくらいの用事ではしなくなってしまった。それでも、雨たちによって流されてしまったファンデーションの下の顔はきっとひどいことになっているだろう。おまけに服も水を吸って重量を増している上に肌に張りついて気持ち悪い。


「連絡くれたら迎えに行ったのに」
「ごめんごめん、まさかこんなに降ると思わなくて」


 オートロックのカメラで私のみっともない姿を見て驚いたような声音を出した彼は、私がエレベーターで彼の部屋に繋がる扉へと向かっている間にタオルを用意してくれていたらしい。インターホンを鳴らす前にガチャリと鉄の重厚な扉を開けて出迎えてくれた彼の顔は少し憂いを含んでいた。
 彼から真っ白いタオルを借りて身体を拭いていると、頭にもう一枚タオルをかけられる。柔軟剤のやさしい香りに浸りながら、彼によって生み出されるタオルと私の濡れた髪が摩擦する音に耳を澄ませた。


「風邪引くから早くシャワー浴びておいで」
「はーい」
「一緒に入ってあげようか?」
「入んないよ、バカ」


 彼の心地良い笑声を置き去りにしてバスルームへ向かう。清潔感が漂うバスルームの中には、私が以前置いたノンシリコンのオーガニックシャンプーとコンディショナー。それから泡立ちの良い石鹸の香りのボディーソープ。冷たくなった身体をシャワーで温めると安堵するように身体の内側が落ち着く。お湯を止めると擦りガラスの扉の向こうから火をかける音が微かに聞こえた。きっと温かい飲み物を準備してくれているのだろう、なんて自惚れみたいなことを頭に浮かべながらあることに気づく。バスルームの扉を顔が出るだけ開け、少しだけ大きな声で彼を呼んだ。


「ねー何か服借りて良い?」
「ああ、そういえばそうだね」


 バスルームに私愛用のバスグッズを置いているように、彼のこの部屋には今まで何度も泊まってきた。そのため、普段は部屋着も彼の部屋に置くようにしているのだが、ちょうど前回来た時に持って帰って次泊まる時に持ってこようとしたのを今更思い出した。今日は彼から借りていたDVDを返すついでに遊びに来たという気軽な用だった為、小さなハンドバッグには財布とICカードとスマホ。それからハンカチ、ティッシュ。あとはリップと借りていたDVDぐらいしか入っていない。どっちみち今日はこのまま彼の部屋に泊まり、その間に濡れてしまった服を乾かすしかないだろう。
 「じゃあ、これ」と彼が渡してくれたのは、シンプルなネイビーのVネック。薄手のニットだった。ここでベタに「白い彼シャツ」なんて渡されなくて良かったとひっそり胸を撫でおろす。お世辞にも大きいとは言えない私の胸を守ってくれているブラジャーも現在洗濯中。ノーブラで白いシャツなんて着て、しかも彼が作り上げたこの部屋で寛げる程、自分のボディに自信は無い。彼から借りたVネックを頭からかぶると、予想していた通りワンピース丈。髪をタオルドライした後、ドライヤーをターボにして洗面所で髪を靡かせる。髪がサラリと自分で起こした風にゆるやかに乗れば、乾いたサイン。リビングに行くと、湯気が出ているカップが目に入った。


「辰也くんの服やっぱり大きい」
「そりゃあそうだよ」
「これ可愛いー、ミニワンピみたくなった。ちょうだい」
「その前に、下どうしてるの?」
「パンツも濡れちゃったもん。なんも履いてない」
「やっぱり」
「だからパンツ貸して。トランクスとかあったよね?」


 彼はボクサータイプも持っていればトランクスも持っていたはず。息を吐き「仕方ないな」と零しながらも差し出してくれたトランクスは以前見たことがあるものだった。
 これでミニワンピースとショートパンツの出来上がり。なんて悠長に彼が用意してくれた温かいコーヒーカップを両手に持ち、口をつける。シャワーを浴びた時よりもあたたかい気がするのは気のせいだろうか。湯気の向こうで見る窓の先の濃紺、ガラスについていた雨雫も既に落ち切っており土砂降りだった雨はすっかり止んでいたようだ。


「お詫びに今日は私がなにかご飯作るね。何食べたい?」
「あ、が泊まると思ってなかったから多分何も無いな」


 キッチンにある冷蔵庫を覗かせてもらうと、彼の言う通り隙間だらけの空間。これでは食材を冷やすことに心血を注いでいる冷蔵庫が可哀相。きっと私と外に食べに行こうとでも思っていたのだろう。キッチンの中の戸棚を覗かせてもらっても、やはりインスタントのものさえほとんど無い。これでも迷惑を掛けてしまっているという自覚はあるので、せめて彼に美味しいものを食べさせてあげたいのだ。


「じゃあ、何か買ってくるね」
「え?」
「え、どうしたの。珍しくそんなに驚いて」
「驚くよ。、自分が今何言ってるか分かってる?」
「買い物行くって言った」


 今日で一体何回目だろう、彼の呆れ顔。けれど彼のこの表情、嫌いじゃない。私のことを考えて、私のせいで困ってるんだなと思うと少しだけ優越感を感じてしまうなんて調子に乗り過ぎているだろうか。そんな彼を見つめていると、腰を引き寄せられ胸を掴まれた。触れられたというには強過ぎる、わしづかみにされたというよりは優しい。上手い表現が見つからないけど、彼にしては珍しい行動だ。


「ちょ、ちょっと!」
「こんな格好で外出る気?」


 怒気を孕んでいるとまでは言わないけれど、少しだけ叱責が混じっている。もう月が顔を出している時刻。このミッドナイトブルーの空がきっと私の格好なんて隠してくれる。この辺のスーパーの店内レイアウトだって把握済み。だから最短の時間で済むはず。それにノーブラなんて服の中を覗かなければ分からなそうだから良いじゃない、と反論をする隙さえも与えられず、私の胸に置かれていた彼の手は私の頭に移動して、コンディショナーのおかげでサラサラになった私の髪をふわりと撫でた。


「ダメ。はお留守番してて」
「えー、じゃあ一緒に行こうよ」
「良い子だから、ね」


 不満を訴える言葉が塞がれるように、彼のくちびるがこの会話の終焉を呼ぶ。その動作に負けた私が仕方なくこくりとうなずくと、安心したような彼の顔と出会った。いつまで経っても男心というのはよく分からない。つられて私も口元に緩やかなカーブを描いてみせるけど、これでは更に迷惑を掛けている気がする。落ち込む程ではないものの、少し俯いていると再び舞い降りてきた彼のくちびる。私の心にパラパラと少しだけ降っていた雨も、すでに何処か遠くへ行ってしまったようだ。


のその姿はひとり占めしたいんだ」


 それでも、男心はやっぱりよく分からない。



< ドレスが心酔に染まる >