|
角度や光の入り具合によって表情を変えるダイヤ。左手の薬指で優婉に輝くエンゲージリングではあるが、その煌きとは正反対に持ち主の浮かない表情をも映し出す。重いため息を浴びた指輪が悲鳴をあげて粉々に消えゆくその前に、この輝きに見合うだけの自分にならなければ。休日の昼下がり、目を伏せたくなるほど眩し過ぎるダイヤのエンゲージリングを眺めながら、はいつものように氷室のマンションへ訪れた。 「もうすぐもここに住むんだから、わざわざインターホン鳴らさなくても良いのに」 「合鍵で入るのまだ慣れなくて」 あと3ヶ月後にはもこの部屋に住むことになる。玄関を開けるとシンプルながらも明るいファブリックパネルがお出迎えしてくれるこの部屋には既に何度も訪れており、インテリアはお互い一緒に選んだものがほとんどだ。キッチンには専用のコップも既にいくつか置かれており、彼女が愛用しているお菓子作りのために使う星やハートの抜型まで置かれている。リビングには大きな観葉植物が光の射す窓際に置かれており、ふたりで座るには充分なほどの漆黒のソファーとおそろいのクッション。はこの部屋に訪れるといつもそのクッションを胸に抱えて寛ぐ。例えば抱きしめようとした時、例えばキスしようとした時、度々ふたりの間に在るそのクッションを、氷室が秘かに邪魔だと思っていることを、は今でも知らない。 ソファーに適度に沈む感覚を堪能しながらも、浮かない表情を浮かべるに言うまでもなく氷室は気づいていた。キッチンでコーヒーを淹れながら、がクッションに表情を埋める様子を静かに眺める。氷室が近づいてきた足音を察知したは、ガラスのテーブルの上にコーヒーカップが置かれた音と重なるタイミングでありがとうと一言礼を述べた。 「ねぇ辰也くん」 「何?」 「私、やっぱり結婚したく、ない」 今日はこれからのこと、これからの二人の未来についての打ち合わせの予定だった。結婚式、入籍、引越し…あらゆる多くのことを決める大事な時間。テーブルの上には真っ白な陶器のコーヒーカップに注がれたコーヒーがふたつ。ミルクと砂糖はひとり分だけ、の分だ。それから結婚式のカタログが数冊。ページの端が何箇所か折られており、既に氷室がある程度チェックしていたものと思われる。しかし、そのページを開く前に紡がれたの言葉。黒に近い、濃度の高い茶色のブラックコーヒーが、それぞれふたりの表情を映し出している。 「別に辰也くんのことが嫌いになったとかじゃなくて、なんていうか」 上手く言葉に出来ない感情が心の中で渦を巻く。の今の心境は一言でいうとしたら単純明快、マリッジブルー。愛しい恋人にプロポーズされ、いよいよ「結婚」という二人で迎えるゴールとスタートに期待を抱き、胸を高鳴らせる日々。しかし、その幸福に満ち溢れたひとときに、迫り来るように襲ってくるどうしようもない憂慮。日に日にその感情は増長していき、ついにの心を蝕み始めた。“本当に彼のお嫁さんになっても良いのだろうか?彼を支えていけるのだろうか?彼に満足してもらえるだろうか?彼にしあわせを、感じてもらうことが出来るのだろうか?彼から贈られたこのエンゲージリングに見合うだけの女性になれているのだろうか?”本当に不意にの中に生まれた負の感情は、残念なことに一度脳裏にこびりつくとなかなか剥がれないらしい。ついには結婚自体に怯えてしまったのだ。しかし、氷室の顔を見て言うことさえ敵わず、俯きながら自分の感情に近い言葉を紡ぎ出そうとしたの震える言葉は、頭上に降ったやさしい手によって止まった。氷室の大きな手がの頭を撫でると、も顔を上げてようやく今日初めて氷室の顔を見ることが出来た。 「…ありがとう、話してくれて」 「え?」 「大丈夫。の言いたいこと、なんとなく分かってるから」 「…」 「オレには、しか考えられないからいつまででも待つよ」 クッションを持つ手に自然と力が入る。けれどそのクッションを解放し、が掴んだのはもう片方の氷室の手。その体温はをひどく安心させた。大きくて温かいこの手は、どんなマイナスの感情も吸い取ってしあわせに変えてくれる。「大丈夫」そうよしよしと撫でられているもう片方の氷室の手から、まさに今しあわせが降り注いでいるようだった。 「気晴らしに散歩にでも行こうか?」 「散歩?」 「うん、せっかく晴れてるしのんびり歩こう」 鍵を開けて玄関の扉を開けると、肌を撫でるような心地好い風を感じた。近所の道をふたり手を繋いで歩けば、平穏な時間が緩やかに流れる。公園に入ると木々たちが風に揺られて会話をするかのようにざわめく。その音でさえ耳を澄ませたくなるほどのメロディーに聞こえて、解放感に溢れているこの世界は、の気持ちをより軽くした。今まで悩んでいたことが風に乗りどこか遠くへ飛んでいき始めたからだろうか。重いと思っていた蟠りは、勇気を出して吐き出したことで一気に風に乗るほど軽くなった。 「なんか、分かんないけどスッキリしたかも」 「そう?良かった」 「うん」 「…ねぇ、」 「何?」 氷室の足が唐突に止まり、合わせるようにも歩く足を止めた。珍しく間があるこの時間は決して無駄ではないふたりの時間の一部。は以前にもこの間を体験したことがある。それは、氷室にプロポーズされた時だ。 「氷室、になってくれる?」 はにかんで微笑みながら頷いたと、嬉しそうに微笑む氷室の表情が重なる。左手の薬指はもう、ダイヤより眩しい二人のしあわせしか映していない。
|