失恋をした。
些細なことで喜んだり、落ち込んだり、ソワソワしたり、ドキドキしたり。今まで存在していた微かな明るい希望は、 ナイフで切り裂かれたかのようにズタボロになってしまった。泣きすぎて頭が悲鳴を上げる。悲鳴を上げたいのはこ の心だと言うのに、それを邪魔するかのように喉がから出る涙声が止まらない。もう、どれぐらいこうしているだろ うか。
今までいないと信じていた「恋人」の存在。それを今日の放課後、望まない偶然で見てしまった。皮膚は呼吸するこ とを忘れ、私の機能全てが停止したかのように感じた。何度も我が目を疑い、その事実を信じられなくて。でも友人 たちには迷惑や心配をかけたくなくて。トイレに篭り、教室から誰もいなくなるのをひとりで虚しく待った。しばら くして教室へ戻ると、そこは無人の箱となっており、下校する人間や部活へ行く人間たちは全て去っていた。私は自 分の席ではなく、先ほどまで恋をしていた人の席へ静かに座った。私の斜め前の席。いつもこの席の斜め後ろからあ なたを見ていたと言うのに、今後はそれすらも許されなくなってしまうだろう。
最初はただ見ているだけでドキドキ出来た。優しさに始めて触れた時、胸がきゅんとした。ただそれだけだったのに 、欲深い私は彼と近い存在になりたいなんて、浅はかな欲望を心に秘めてしまったがために、鉄槌が下されたのだろ う。机の上に堕ちた涙は後でちゃんと拭うから。涙を浸透させる前に拭き取るから。だからあと少しだけ。そう思い 、誰もいない教室にも関わらず声を潜めて静かに泣く。




「こんな時間までなーに一人で泣いてんスか?」
「・・・!黄、瀬くん?」




空は既に月がハッキリと色づいているのが分かる程の暗さだった。おそらく21時程だろうか。強豪と言われている 我が校のバスケ部の練習が終わる時間までになっていたらしい。忘れ物を取りに来た、と言った黄瀬くんは練習後で も、崩れない爽やかさを保っている。しかし、泣いているところを完全に見られてしまい、彼の顔を一瞬見たあとは 、自分の顔を隠すように下へ向けた。黄瀬くんの登場のおかげか涙はびっくりして止まったというのに、たまってい た涙は流れるのを待っていたかのように、再び下へ堕ちた。
黄瀬くんは私が今座っている席の2つ後ろ、つまり私の本当の席の斜め後ろの机の中を探っている。そう、彼の席は 私と意外にも近いのだ。それでも特別深く話したことがないのは、彼は所詮自分にとっては遠い存在なのだと理解し ていたからだろうか。机の中からノートらしきものを発見した彼は、それを無造作に鞄の中へ放り込むように入れた。




「こんな時間までどうしたんスか?」
「・・・失恋した」
「そっか」




どうしたのか、と言うのはどうして泣いているのかということだろう。いくら黄瀬くんでも、こんな時間まで、こん な場所で、ひとりで女が泣いていたら気になるのだろうか。それでも、特に慌てないで落ち着いているということは 、それだけ女の子の涙にも出会ってきているのだろう。そう思えて、彼に特に隠す必要性も感じず素直に述べた。彼 はそれ以上は何も聞かず、しばらくすると彼の足音が近づいてきたのが分かる。彼は私の前まで来ると、膝を曲げて しゃがみ込んだ。大きい彼の目線を下から感じるという、不思議な体験をする。どうして目の前に、そう思い顔を上 げると、困ったように笑う黄瀬くんと目が合った。それはそうだろう。いきなり失恋したと言われたら誰だって困る 。おまけに関係の浅い人間に。別に慰めて欲しいわけではないので、再び彼の目から視線を外した。




「ごめん、こんなこと言われたって困るよね」
「んー・・・じゃあ、」




こんな、おそらく名前も知らないであろうクラスメイトの失恋話なんて彼にとってはどうでも良いだろう。だったら 一人にして欲しい。私は大丈夫だから。・・・そう思うのに、誰でも良いから。それが碌に話をしたことがないクラスメイト でも良いから傍にいてほしいだなんて。自分以外の人間が同じ空間で同じように呼吸をしてくれることに、安堵感を 感じてしまうなんて。自分でも情けなるくらい欲深い女だ。傷だらけの心臓に自分で塩を塗るような感覚に陥るほど 痛い、心が。




「痛いの痛いの飛んでけー」




そんな小さい子に言うような台詞と共に、彼の手が私の頭へ降ってきた。現時点では私より下にある黄瀬くんの顔だ が、その長い手を伸ばして私の頭を撫でている彼は私より大人に思えた。何より単純に驚いた。そんな言葉とそんな 動作をまさか降らしてくるなんて思っていなかったからだ。驚いて再び顔を上げると再び彼と目が合う。彼の目に映 る私の顔は驚いた間抜け面をしていて若干醜い。




「・・・子供じゃないんだから」
「でも、痛かったんでしょ?」




心が、と続けられた言葉に時が止まる。撫でられている頭がひどく安堵する。そうなの、そうなの。と女友達に話す ような感覚で、今溜まった悲鳴を彼に伝えてしまいそうになった。どうして大して会話をしたこともない彼がこんな にも私に優しいのだろうか。所詮女の涙には弱いというやつなのだろうか?けれども彼の、全てを理解しているかの ような言い方に些か疑問を覚えた。




「失恋したことない黄瀬くんには分からないよ」




我ながらひどい言葉だと思う。せっかく私の話を聞いてくれていて、私のことを慰めてくれているというのに、何て 言い草だろうか。別に頼んではいないが、やはり落ち込んでいる時に誰かが傍にいるというのは、非常に安心してし まう。それなのに、彼を責めるような言葉を投げてしまうなんて。私はこんなんだから勝手に恋して勝手に失恋して しまったのだろう。




「え?俺も失恋くらいしたことあるっスよ」
「・・・え?」
「それも最近」




彼はゆっくり立ち上がり、私が今座っている前の椅子に座った。失恋したことがある、と笑いながら言う彼が、失恋 したばかりの私には信じられなかった。まず、黄瀬くんが失恋をするということ。そして失恋をしたのに、それも最 近だと言うのに笑っていること。どうやって乗り越えたというのだろうか。出口が見つからない、今の私に是非とも 教えて欲しい。




「黄瀬くんが声かけたらどんな女の子でも恋しちゃいそうなのに・・・」
「そうっスかぁ?」
「うん。すごい人気あるし・・・」
「でも、俺に恋しなかったでしょ」
「え?」
「・・・は」




名前・・・知ってたんだ。何て呑気なことが出てくるのは、逆に頭がパンクする寸前だからだろうか。いきなり名前 で呼ばれて胸が激しい音を立てている。瞬きするのを忘れてしまうほど、彼の顔をじっと見ているともう吸い込まれ そうになってしまう。しかも、何て言った?私が?黄瀬くんに恋をしなかった?だって、私には遠い存在でしかなか ったもの。だって、私には好きな人がいたもの。




「ど、どうし・・・」
「俺に惚れないなんて可笑しいっスよ」
「可笑しいって・・・」
が斜め前を見てた時、俺だって斜め前をずっと見てたのに」
「え?」
「夢中で気がつかなかった?」




口許に笑みを浮かべている彼がやたらと知らない人みたいだ。元々そんなに知らないが、彼の新しい一面を見てしま った気がする。斜め前、それは私の、自分の席を指している。そしてこの言葉の真相が分からないほど鈍感だとは思 いたくない。けれども、まさか自分がという気持ちも拭えず、自惚れたくないという気持ちもある。2つのアンバラ ンスな感情に振り回されている私を、彼は楽しんでいるようだ。




「そんなの・・・」
「でも、俺の失恋は今終わったみたいだから」
「・・・私は失恋したばかりだよ」
「終わりの次は始まりっスよ」




彼が立ち上がると同時に、動いた椅子の音がやたらと大きく響く。響いたその音に捕われながら必死で抗うが、結局 は彼の言うとおり。先ほどまで流れていた涙はもう止まっている。貯めていた涙もいつの間にか飲み込んでいる。肌 を滑っていた涙も渇いている。全てが最初の状態に戻っていた。




「帰ろ」




まるで引力に逆らえないかのように、身体が自然と動いてしまう。何も考えず、ハンカチで机の上の水分を拭うと、 最初と何も変わらない状態になった。拭われた机の上に自分の影が映る。その影には月明かりがひとつ、いやふたつ 。眩しいくらいの黄色が私の心を照らし、誘惑しては離さない。





招待状には
煌めく夜空

(そんな失恋紛いの傷なんて、唇と一緒に塞いであげるっスよ)