どれだけ月日を重ねても、未だに夢の世界にいるかのような浮遊感がぬぐえない。良い意味でも、悪い意味でも、だ。憧れの存在でもある人との距離が縮まった瞬間、嬉しさを通り越して驚きしか表現出来なかったことを今でも覚えている。けれど、距離がぐっと縮まったのはその一瞬だけ。今の距離以上にはなかなか縮まらないし、縮められない。その方法さえも分からないのだ。


「お待たせ」
「涼太先輩、お疲れ様です」


 そもそも、この会話で誰もが分かるであろう距離感。この会話を聞いて、誰も私と彼が恋人同士だなんて思わないだろう。ただの先輩と後輩。せいぜい部員とマネージャーというところだろうか。
 それでも、彼は必ず部活終わりに私を家の傍まで送ってくれる。至って普通。きっと普通の恋人同士。今日は何があっただとか、今度はどこへ遊びに行こうかなどの話を淡々として帰路を共にする。どこにでもいる恋人同士。―そう、健全過ぎるのだ。変な意味ではなく、私たちは付き合いの長さの割に手を繋いだこともない。もちろん、抱きしめ合ったこともなければ、キスなんてしたことがない。急いでいるわけではないし、焦っているつもりもない。けれど、逆に彼のような華やかでたくさんの女の人に囲まれているような人が何もしてこないなんて、と不安に襲われることはある。私に魅力が足りないのだろうか、とか自分を卑下するような下らない悩み。それだったらとっくに別れを告げられているような気もするので、出来るだけ考えないようにはしているけれど、やはり胸に引っかかることはある。


「今日は少し公園にでも寄って行きませんか?」
「もちろん良いけど…がそういうこと言うの珍しいっスね」


 家からほど近い公園のベンチに座ると、彼はジュースを買って来てくれた。気が利くというか、女が喜ぶようなことを当然のようにやってのけるその振る舞いを一番近い距離で見る度にやってくる不安と疑問。けれど、私は彼に何を聞けば良い?彼に何を伝えれば良い?本音を言えば、もしかしてら鬱陶しい面倒くさい彼女になってしまうかもしれない。


「そういえば先輩、さっき珍しいって…」
「ああ、がそういうこと言うの珍しいって言ったのっスか?」
「はい。珍しいのかなぁと思って」
「だって、自分の要望っていうか願望とかそういうことあんま言わないっスよね?」


 風が私の髪をなびかせ、一瞬視界を覆った。一瞬だったのは、彼の長い指が私のなびいた髪を戻してくれたからだ。その時、微かに頬や耳に触れられただけでこんなにも体の内側から熱くなるのだから、手なんて繋いだら、キスなんてしたら私は溶けて消えてしまうかもしれない。視界が鮮やかになったあとすぐに見えたのは、困ったように笑っている彼の優しい顔。同級生や先輩と一緒にいる姿を見掛けるからか、彼のこんな憂いを含んだ色っぽく大人っぽい表情は見た覚えがないような気がした。そこで初めて彼はこんな表情もするのか、と知ったのだ。


「そ、そうですか?」
「うん。どっか遊びに行くとか何か食べに行くって時とかもオレに合わせてくれるし」
「でも、それは涼太先輩の行きたいとこに行きたいなって思って」
「まぁーそれも分かるんスけど」


 紛れもない本音だったと思う。彼と一緒にいられるのなら。彼の行きたいところなら。純粋な気持ちだったと思う。でも、もしかしたら自分でも気づかないところで彼に合わせるという選択肢以外持とうという気がなかったのかもしれない。多分、嫌われるのがこわくてとかそういうつまらない理由。「はい」と「いいえ」、私は「いいえ」を持っていなかった。


「オレだってが行きたいとこ連れてってあげたいんスよ」
「え?」
「それにもっとが思ってることとか、ワガママだって聞きたい」


 せっかく少しでも縮まったこの距離を広げてしまうことがこわかった。だったらせめて現状維持のまま。それでも充分だから。けど、もしワガママを言っても良いというのなら―。


「い、言って良いんですか?」
「いーっスよ。例えば?」
「…も、もっと会いたいとか、本当は手繋ぎたいとか、もっと…」
「え、そんなこと?」
「そ、そんなことって!」


 彼と恋人同士になってからずっと秘めていた思い。もし自分の願望を伝えてしまったら、今のこの関係が崩れてしまうかもしれないと危惧していたというのに、彼は目を丸くして「そんなこと」と言う。
 彼の腕がすっと伸びて来た。先程は髪がなびいて視界を覆っていたから分からなかったけれど、今までに経験がないその行為に直面し、体が硬直した。何をされるのだろうというドキドキ。それが楽しみを孕んだ緊張なのか恐怖を抱いた緊張なのか。彼が私に触れるまでのコンマ数秒は両方抱いていた。彼の手が私の頭にふわりと乗せられると、小さい子をあやすかのように頭を撫でられる。


「オレのこと、もっと困らせてくれてもいーのに」


 出来るだけ彼の負担にならないように、という私の気遣いは彼にとっては不要だったらしい。頭から伝わる温度が温かくて、足元までの全身が幸せを感じている。少しでも気が緩んだら顔がだらしないくらい笑顔になってしまいそう。


にはもっと甘えてほしいんスよ」


 私は彼のビジュアルに惹かれたわけではない。もちろん、見た目や雰囲気というのも惹かれる重要な要素ではあるけれど、彼の人間的な部分に惹かれたのだ。けど、まさか私が抱えていた悩みをすべてすっぽりと包み込むほどの器量を持っているなんて気づかなかなった、知らなかった、気づけなかった。


「それにがワガママ言ってくれないとオレだって言えないし」


 少し拗ねたような彼の表情がなんだか少し可愛く感じてしまって、年上の人だというのに、逆に頭を撫でてあげたくなる。でも、ひらりと風が舞うように重ねられたくちびるに阻まれてそれは敵わなかった。あっという間過ぎて、胸をときめかせる時間もなかった。彼と私の初めてのくちづけ、一瞬過ぎて分からなかったからもう一度して下さい、なんてすぐに言える程の勇気は持っていないけれど、またその時が来るという予感が今ならある。


「だ、誰に見られてるか分かりませんよ…!」
「好きな子にキスして困ることなんてないっスよ」


 好き、という恋人同士では当たり前かもしれないその感情が言葉になって彼から紡がれるだけで胸がドキドキと荒ぶる。こんなにも幸せなのに、これ以上ワガママを言ったら罰が当たる気さえしてしまう。


「これからはがもっと何でも言いやすいようにするから」


 きっと、私しか見ることが出来ないその色気を孕んだ目も声音も存在も、もっと感じさせて下さいと言ったら彼はどういう反応をするのだろう。そんなことを考えていたらまた、彼の眩しい黄色をした髪が頬に触れ、くちびるが熱を持った。











「 オレのワガママも聞いてくれる? 」