「今日は帰りたくないの」


 例えばこれがデート終わりの甘い雰囲気の中で紡がれた言葉だったら、どんなに愛おしいひとときを過ごせただろうか。上目遣いで彼の袖を掴みながら告げることが出来たら、きっと同情してくれるのかもしれない。けれど、シチュエーションが違えば意味の性質は全く異なることにもなり得る。甘さを纏う言葉が、少しの苦さを抱くのだ。


「どうしたんですか、急に」
「まだ帰りたくない」


 彼の隣を並んで歩く帰り道はいつだって輝いている。それが晴れている日だろうと空が曇で覆われている日だろと、冷たい雨の日だろうと。朝日が眩しい道や夕陽に照らされた道はもちろん、彼となら真っ暗な闇に覆われた夜しか見えない道でも、心細くはない。何回も通っている同じ道でも、いつも違った景色が見える程に新鮮でもあるのだ。
 私の家の裏と言えるくらい近くの公園で、いつも少しのおしゃべりをして彼は家へと帰る。彼の家は逆方向にも関わらず、どんなに遅くなろうと、どんなに疲れていようと必ず私を送り届けてくれる。今日も同じ。けど、今日は帰りたくない。


「会話になってませんね」
「・・・」
「お家の人が心配しますよ」


 “もっと貴方と一緒にいたいの” もちろん、それも嘘ではない。でも、ただ家に帰りたくない。それが一番の理由。そんな自分勝手な本心を吐き出してしまったら、せっかくの純粋な感情も嘘に聞こえてしまうと思った。だから、何も言えないの。地面と目が合うと、言葉は余計行き場を見失ってしまったようで、紡がれることさえ躊躇われた。


「喧嘩でもしたんですか?」
「・・・うん」


 けど、彼の素晴らしい観察力のおかげで誘導されるかのようにするすると頷くことが出来る。喧嘩して家に帰りたくない、なんて駄々をこねる子供にも程がある。おまけに彼に頭を撫でられて喜んでいるなんて、もう誤魔化しようがないほど子供だ。彼は私にとって本当に欠かせない存在。私をいつだって元気にさせてくれたり笑顔にさせてくれる。でも、私にだって譲れない時はある。


「そんなに帰りたくないんですか?」
「帰りたくない」
さんにしては頑なですね・・・」
「それだけ本気なの!」


 だからお願い、どうか私をさらって下さい。そこまでロマンティックな物語みたいなことは言えないけれど、本音は間違ってないと胸を張って言える。離れたくなくて彼の腕を掴んで離そうとしないこの手はとっても我が儘。ほら、彼も困った笑顔を浮かべてる。けど私は彼のそんな顔だって好き。私のことで困ってる顔を見ることが出来るなんて何だか少し嬉しい。でも今はそんなことどうだって良いの。私が縋りつける場所は彼の心だけだから。私が帰りたいのは彼のところ。


「今日は私を帰さないで」


 彼が逃げられないように私の瞳は彼の瞳をつかまえて離さない。けれど、つかまえられたのはどうやら私の方みたい。彼の冷たい手が、そっと私の頬を包み込む。彼の手は意外にも大きいのだと、今改めて知っただけだというのに、どうしてこんなにも胸が高鳴るのだろうか。その大きな手に、安心感を抱いたのは言うまでもない。


「そんな可愛い顔したってダメです」


 けれどやってきたのは甘い言葉でも甘い振る舞いでもない。私の頬を包んでくれた彼の手は、あっという間に私の頬の形を変える。むにっとつままれた頬に痛さは感じないけれど、予想外の彼の行動に躊躇いが生まれる。きっと今の私の顔は間抜け面に違いない。


「いひゃい」
さんはいつからそんな聞き分けの悪い子になったんですか」
「ひょひょもあひゅかいひないで(子供扱いしないで)」
「子供です。逃げてたって解決にならない時もありますよ」


 彼の言う正論に、余計自分の幼さを実感させられた。けど、もしかしたら心のどこかで私のこんな情けないお願いを聞かないで欲しいと思っていたのかもしれない。だって、彼はいつだって私を正しい道へと誘導してくれるから。手を引いて、私に相応しい道はこっちだよって教えてくれる。間違った時は叱ってくれるし、道を直してくれる。彼の手に自分の手を重ねてこの道を歩けば、どんな道だって希望に満ち溢れているのだから。


「でーもー、帰り辛いんだもん・・・」
「全く仕方のない人ですね」


 ようやく解放された私の頬は元の形に戻った。そんなに強い力でつままれた記憶はないけれど、その場所を今度は手の平でさすってくれる彼はやっぱり優しいと思った。
 ちらりと目線を斜め上に移し、彼の顔を見上げてみる。私の胸を高鳴らせるようなその柔和な笑みは、撫でられている頬をよりさくらんぼ色に染めさせる。一気に狭まった距離に驚く暇もなく、彼は私の体ではなく私の心を鮮やかにさらうようなくちづけをした。


「帰る勇気出ましたか?」


 お互いのくちびるの間が数cmほどの距離で彼が喋るから、私は動くことが出来ない。そんな至近距離が今度は私をとらえて離さない。彼は私をどうしたいのだろう。家へ帰したいのか、それともこのまま彼の胸に身を預けて良いのか。そんなことするものだから、足がなかなか動いてくれない。


「・・・余計帰りたくなくなっちゃったじゃん」
「すみません。でもちゃんと家に帰って仲直り出来たら、明日ご褒美あげますから」


 さらわれた心と引き換えに、くちびるを通して貰ったひとつの勇気を抱えて、彼に見守られながら開けた玄関の扉は思っていたより重くなかった。





結んだ小指が
明日笑う


(その代わり、さんを帰したくないのを必死で我慢した僕のことも褒めて下さいね)