「うーん」




紫原敦は悩んでいた。
思ったことは割と何でも口に出す紫原にしては珍しく、憂いを秘めたような表情で立っている。現在、体育館のコートの 外で休憩をしている彼は、いつもならお菓子を食べて監督である荒木雅子に怒られ、それを主将である岡村が必死で宥め ようとするのだが、今日は監督が不在なようだ。いや、それ以前に紫原がお菓子を食べていない。これは普通ではなく 異常なのだ。




「・・・敦、どうかしたのか?」
「あー・・・室ちんかー」
「(いつにも増してボーっとしてるな)」




見兼ねた氷室が紫原に声を掛けたが、大して意味のない行動になってしまったようだ。紫原がボーっとしているのは、 バスケをしている以外では普通のことだ。しかし、こうも感情なく返事をされてしまうと、些か心配になってしまう。 陽泉高校の最も大きな盾として、彼に崩れられてしまったらおしまいなのだ。だから紫原特有の我が儘は押し通される こともある。しかし、そんな彼の我が儘を押さえ込むことが出来る人物が、この陽泉高校にたったひとりだけ存在する。




「本当にどうかしたのか?」
「んー別にー・・・ただ、って相変わらず可愛いなーと思って」




紫原の口から出たと言う人物は、彼の最愛の女性だった。よく見れば紫原の目線の先には忙しくその華奢な足を止め ることなく動いている彼女の姿があった。心配して損をした、と思った氷室であるが、話し掛けてしまった以上、何も 言わずにここから離れるわけにもいかない。持っていたボールを回すことで、恐らくこれからされるであろう、甘く下 らない物語に耳を傾けることを決意した。




「・・・ああ、そうだね」
「え!?室ちんものこと可愛いとか思ってんの?」




しかし、初っ端から紫原の純粋な言葉の餌食にされる。ここで可愛いと言えば「何ソレ、ひねり潰すよ?」と刺すような 視線とこの世の全てを蔑むような声で威圧をされるし、可愛くないと言えば「は?何ソレ。頭おかしいんじゃない?ひねり 潰すよ?」とこの場がそれだけで凍ってしまうような視線と今にも怒りが噴火してしまうような声で責めてくるだろう。 どちらにしろひねり潰されるのは確実だ。今、話をしているのが自分で良かったと氷室は思った。あまり器用でない主将の岡村だったら間違いなく潰されかけていただろう。




「確かに可愛いとは思うけど、俺は違う感じの子がタイプだからな」
「ふーん、室ちんって変わってるね」




まるで綱渡りだが、どうやらこの場を切り抜けることが出来たことに、氷室は一安心出来た。この下らない会話をして いる間も、は忙しく走り回っている。そしてその動きに合わせるように紫原の首と目も、一瞬たりとも乱れることは ない。どうしたものだろうか。彼女はマネージャーで、このような事は日常的だ。なのに何故急にこれ程までにボーっと しているのか。




「どうした?今日はいつにも増して熱視線を送ってるみたいだけど」
「んー・・・がさ」
「うん」
「練習中リップをつけてるみたいなんだよね」
「・・・え?」




意外な答えに氷室が聞き返すと「あれ?唇につけるのってリップだっけ?」と呑気な言葉を返す。確かにそうではあるが 、それがどうしたと言うのか。大体、女の子の多くはリップをつけるだろう。グロスだって口紅だって、もちろんつける人も多くいる。 今更何を言うのだろうか。紫原は自身の唇に人差し指を当てながら、悩みなのか相談なのかひとりごとなのか分からない音で話続ける。




「どう思う?」
「どう思うって・・・別に良いじゃないか」
「えー、俺はの唇に直接触れるのが好きなのにー」
「感触は同じだろ?」
「でも、特にあのメンソレータムだっけ?あれは膜が張られて邪魔されてるみたいでヤダ」




なるほど、と氷室は少し納得してしまいそうになったが、そこまでそのものを愛したいのか、と思うと少しだけ微笑 ましくなった。しかし、今は貴重な練習時間だ。本人にとっては大きな問題なのかもしれないが、周囲の人間からした ら果てしなくどうでも良いことである。しかし、何とか早めに紫原の悩みを解決してやらないと、面倒見の良い氷室は思った。




「・・・そういうものかな」
「うん。おかげで練習中にちゅー出来ない」




他の人間だったら間違いなく「いや、するなよ!」というツッコミが入れるところだが、もちろん氷室はそんなこと言わ ない。自分も愛しい彼女が練習中、傍にいたら簡単に何回もキスをしてしまう部類だからだ。今はいじけて悶々として いるだけの紫原だが、このままでは逆ギレしてしまうかもしれない。もちろんにその思いをぶつけるわけでもなく、 バスケにぶつけるわけでもない。被害者は間違いなく氷室たち他の部員になる。そう思った氷室だが、ひとつだけ気に なることがあったので聞いてみた。




「彼女、普段はリップとかつけないの?」
「うん。つけてんのかもしんねーけど俺がちゅーする時にはいつも取れかかってんじゃない?」
「・・・ふーん」




氷室はすぐに全ての真意が理解出来、口元が自然と三日月の形になっていた。このまま彼女の懸命で単純で純粋で無駄 であろう努力を見守るか見守らないか。しかし、氷室にとってバスケはとても大切なものである。そして紫原はそんな バスケをする仲間である。何より人間は何事もつまらない物事より面白いほうに惹かれる。既に答えは出ていた。




「敦、リップには色々あるんだよ」
「色々ってー?」
「敦は彼女のリップがメンソレータムのだから嫌なんだろう?」
「うん、あれ何か嫌」
「他のリップだったら良いんじゃないか?」
「んー・・・それは分かんないけどー」
「最近はイチゴとか桃とか色々なリップがあるんだよ」
「え!イチゴ!?桃!?」




甘そうな単語には面白いくらい単純に反応する。さっきまであんなに静かな苛立ちを見せていた目がすっかりギラギラと 輝いている。そう、キラキラではなくあくまでギラギラなのだが。氷室はその合図を見逃すことなく、彼を彼女の元へ 向かせようと試みる。




「うん。それで俺さっきたまたま彼女のポケットから落ちた物を拾ったんだけど・・・」




イチゴのリップだったよ、というと紫原の目は生気を取り戻し、先程まで怠く重そうにしていた体をの元へと走らせ た。走る、ほどではなく紫原ほどの足の長さなら数歩で、一瞬で届いてしまう距離にいるのだが。急に自分の元へ来た 紫原には驚きを隠せないでいるようだ。




!」
「は、はい!敦くん・・・どうしたの?」
「いただきまーす」
「え・・・ちょ」




紫原は片手での腕を掴み、顎を捕らえて上へ向かせると、小さな唇ごと飲み込むように熱い口づけをする。その後、 離れたかと思うと今度は上唇、そして下唇を同じく呼吸ごと逃がさない。涙目の彼女に気付きながらもその行為をやめ ない紫原はようやく光を取り戻したようだ。何度も角度を変えて唇ごと、時には舌ごと捕らえられる。ちゅう、と唇も 舌も吸われてしまうその行為に解放された時、は驚きと共に疑問が浮かんだのだ。




「んっ・・・は、あ」
「あまーい」
「な、何で・・・!?」
「んー?」
「何で・・・キスしてきたの!?」




唇は解放されても腰は解放されていないは、その至近距離に恥じらいを感じながらも疑問を紫原へとぶつける。そう、彼女が部活中メンソレータムの リップクリームを塗るようにしていたのはワザとなのだ。以前、2人きりでまったり過ごしている 時に、たまたまリップをつけてすぐに紫原がキスをしてきたことがあった。その時、彼が少し顔を歪ませていたのを琉 菜は見逃さなかった。その時は宇宙の果てまで吸い込まれそうな深く熱いキスをされ、リップが落ちてしまうくらいの 愛を受けたのだが、にとってこの出来事は大きな発見だった。




「だって味見したかったから」
「味見!?」




以前から練習中でもところ構わず甘いスキンシップをしてくる彼に困っていた。もちろん2人きりなら嬉しいのだが、 場はわきまえてほしいという思いもある。そこでは最近練習の直前にメンソレータムのリップをつけるようにしていた。思惑通り、紫原の熱い 口づけはセーブすることが出来た。しかし、本日たまたまメンソレータムのリップが底をついてしまったのだ。なので 偶然鞄の中に入っていたイチゴ味のリップをつけて今日をやり過ごそうと思った。おそらく以前、友人とコンビニに 行った時にノリで買ったものだろう。練習が始まる直前にリップをつけているから、練習中はキスをされないここ最近。 つまり、今日もいつも通りキスなんてしてこないだろうと思っていた考えは愚かで浅はかだった。




「さっき室ちんが教えてくれた」
「え・・・あ、そういえばさっきリップ拾ってもらった・・・」
「うん、これならいーや。にもちゅー出来るし甘いし」
「いや、良くない良くない!」




氷室の想像は見事に的中した。そして紫原もすっかり普段通りに戻った。最近はご無沙汰だっただけで、それまではむ しろ日常的だった紫原からへの愛の行動も、今となっては他の部員にとっても当たり前である。もちろん誰も何も 言わないし、何か言えば紫原に制裁を与えられるだけだ。




「あ、またつけてもいーよ?」
「え」
「そしたらまた落ちるくらいちゅーするから。リップもも」
「(ぞっ・・・!)」
「あー楽しみだなぁ」




ようやく陽泉高校バスケ部の日常的な練習光景に戻ったのだ。





脆弱な騎士は
儚く散る

(あー、もういっそのことごと食べちゃいたい)