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少年Aの苛立ちは頂点を迎えそうである。日頃から気に食わないことがあると人や物へ当たり散らす傾向があるため、特に変わった日常ではないのだが、彼に慣れていない人間はひどく気を遣わなければならない。体育館にはバッシュの音やボールをつくドリブルの音、たくさんの青春が浮遊しているようにも見えるが、少年Aが纏う雰囲気のせいで淀んだ空気が宙を彷徨っていた。 「で、どうしんだ一体?今日の練習、いつも以上に散々だったね」 「…別にー」 「まぁどうせちゃん絡みだろうけど」 「どうせって何だし」 「アツシがいつもと違うなんて、ちゃん絡みかお菓子絡みぐらいだろ?」 茜色からすっかり濃紺となった空には星が輝いている。部活が終了し、部室から出ると少年Aはいつも通りお菓子を頬張った。その隣には少年Aのひとつ先輩である氷室辰也。面倒見の良い彼は少年Aの文句や愚痴を聞いてあげることも多いようだ。今日もいつも以上に動きが散漫していた少年Aを心配し、お菓子を差し入れしてあげながら話を聞いてあげるという、少年Aにとっては良い先輩と言っても過言ではないだろう。それでも相変わらず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる少年A。お菓子を与えても機嫌が一向に良くなる気配が無い、というのは氷室にとっても滅多にない体験であった。 「…とケンカした」 「へぇ」 「超イライラする」 「今日の練習中、二人の様子を見て何となくそんな感じだとは思っていたけど」 「全然オレと話そうとしねーし」 「でも彼女はいつも通りだったしあの笑顔からは全然分からなかったな…」 少年Aには恋人がいた。同学年であり、彼らが所属しているバスケ部のマネージャーでもある。彼女は実に聡明で何事にも一生懸命な人間である。まだ一年ながらも先輩たちからの信頼も既に厚い。少年Aの、良く言えば素直な性格により二人の関係は周囲にも認識されている。他の部員からは「何であのマネージャーとアツシが?」と言われるほど、彼女は多くの人間を魅了していた。 「だから余計ムカつくんじゃん」 「…アツシはまだまだ子供だな」 「はぁ?意味分かんねーし」 「それで喧嘩の原因は?どっちが悪いんだ?」 お菓子を食べ終わったあとの寂しい口から、少年Aは言葉をポツリポツリと落とし始めた。すぐに「が悪い」と恋人に責任を押し付けるような言葉を言わなかったあたり、きっも自分自身にも非があることを認めようとはしないけれど頭のどこかで理解している、と氷室は感じた。喧嘩の発端は何とも言えない些細なこと。何でも面倒くさがる少年Aと面倒みの良い。ふたつ合わさればちょうど良いと思われていたその組み合わせも、面倒くさがりの方がエスカレートしてしまったそうだ。気を許している証でもあるかもしれないが、少年Aのワガママはついに恋人であるを、あの穏やかなの怒りを爆発させた。「私は敦くんのお母さんじゃないんだから!」と滅多に荒らげない声色と涙目に、少年Aは珍しく動揺したらしい。 「別にお母さんなんて思ってないのにさー」 「まぁちゃんの気持ちも分からないでもないけど…」 「え?」 「あ、いや。それで?」 「それでって?」 「アツシはちゃんのこと、甘やかしてあげたの?」 少年Aは星空を見上げながら考えた。手を伸ばせば届きそうな星は、無数の数ほど広がっているというのに届きそうにない。けれど、自分の手は彼女には届くはず。今までとは違う手の伸ばし方、差し出し方があるはず。氷室の真意は少年Aに伝わったのだろうか。苛立ちを募らせているのは彼女に対してではなく自分に。彼女の涙を浮かべた表情を見ながらも、手を伸ばすことも出来ず自分の拳を握りしめることしか出来なかった無駄に大きい手。きっとその掌で彼女の小さい頭を撫でてあげれば、何かが違ったはず。そんなことをぼんやりと考えていた少年Aの頭上に流れ星がひとつ、降り注いだ。 ![]()
「」 夜は明け、再び茜色の空が青春を見守る時刻になってきた。いつも通りの練習の最中、少年Aはひとりで洗濯の準備をしていた恋人に声を掛ける。彼女の瞳は動揺や戸惑い、不安や緊張が現れるかのように揺れた。彼女が少年Aに怒鳴るように不満を告げてから、まともに会話を交わすのはどうやら初めてらしい。本音であるとは言え、怒鳴ってしまったという罪悪感が彼女の中にも存在しているようだ。気不味いながらも、ゆらゆら揺れた瞳は少年Aを真っ直ぐに見据えている。 「ごめん」 「…え?」 頭を勢いよく下げた少年Aに彼女は困惑した。何故なら少年Aがこんなに真剣に、しかも頭を下げて謝罪をしてきた事など今まで一度もなかった上に、見た事もなかったからだ。頭を下げても尚も高い位置にある少年Aの紫色の髪がパラリと揺れる。彼女から少年Aの表情は全く見えない。少年Aがどんな表情をしているのか想像するのも極めて困難だった。今まで全く経験の無い、こんな一面が少年Aにあるとは思っていなかったからだ。 「オレ、のことちゃんと好きだから」 「え、う、うん」 「別に面倒見てほしーとか思ってるわけじゃないし」 「…うん」 「ただ…」 言葉が止まったのは少年Aの頭に居心地の良い感覚が生まれたからのようだ。彼女が精一杯伸ばした手が、少年Aに届いたのだ。ふわふわとリズムが存在しているかのように撫でる彼女の掌は、小さいのにやたらと大きく感じる程、少年Aはその感覚に恍惚しそうになった。けれど、このままでは今までとあまり変わらない。自分も手を伸ばさなければ何も変わらないのだ。彼女は届かないと思われる距離にでも躊躇なく手を伸ばし、見事に掴むことが出来たのだから自分もー。少年Aが頭をゆっくりと上げると彼女の手は自然と離れた。今度は少年Aの大きい掌が彼女の小さい頭に乗せられる。 「私も大きな声出して怒鳴ったりしてゴメンね」 「んーん」 「敦くんが頭下げるからビックリしちゃった」 いつもの朗らかな、顔をくしゃくしゃさせて笑う彼女の顔が何より好きだと少年Aは改めて自覚した。彼女の涙を溜めた表情も魅力的だと思ってしまった少年Aではあるが、やはり笑顔に勝るものは無い。彼女の頭を撫でていた手を静止させ、固定させると少年Aは屈みながら彼女のくちびるに自分のくちびるをゆっくりと重ねた。まるで初めてのキスかのように彼女の頬が徐々に紅く色づいていく。そんな彼女の表情を見て、少年Aもまた満たされた気分になる。見栄を張って顔の筋肉が緩まないように精一杯誤魔化すのに必死だ。彼女の小さい手にきゅっと握られた少年Aのシャツの裾のくしゃくしゃに、双方の想いが詰まっているかのよう。 「今日は部活中にちゅーしても怒んないね」 「誰も見てないし…今日だけは、ね」 でも秘密だよ、と人差し指をくちびるに当てるその動作が、少女のような煌めきと女性のようなオトナっぽい艶感を醸し出す。そのコントラストが少年Aの心を掴んで離さない。彼女と会話を交わさなかったのは僅か数日。けれどもその数日が惜しいとさえ思ってしまう程の衝動。 「…やっぱごめーん」 「え、何が?」 「のこと好き過ぎて」 今宵ふたりで見上げた夜空より、手のひら同士で繋がったふたつの星の方が余程輝いている。 |
