銀世界のようなシルクのシーツに指先を滑らせ、まだ微かに残る熱の上を慈しむようにゆっくりと彷徨う。この世界に存在する物質の中で人間の肌に一番近いと言われるシルクはどことなく滑らかな女の肌を想像させた。重たい瞼を、スローモーションのようにゆっくりと上げたり下げたり何度か繰り返した仁王の視界には、惜しみもなく曝け出された雪よりも白く美しい背中と、腰骨付近の滑らかな曲線美が映し出される。何度見ても飽きることのない美しさに心地良さを虚ろながらも堪能し、再びゆっくりと瞼を閉じた。
◎◎◎
仁王が目を覚ましたのはそれから約30分後。先程まで隣で眠っていたの声を目覚ましに起きた。一緒に住むようになって1年経った程だろうか。住み始めた頃のような甘美に満ち溢れた音色の目覚まし時計なんかではなく、むしろなかなか体を起こさない仁王を咎めるような声音だ。それでも不思議と不快ではない。怠い体を起こし、ゆっくりながらも軽い身支度を済ませ、が用意した朝食にありつく。リネンで作られたランチョンマットの上には、偏食がちな仁王が食べたくなるような朝食が。バター色に染まった表面と周囲を覆うほんのりついたこげ目のコントラストが美しいトーストと、それらを引き立てるようにそっと添えられているレタスやプチトマト。それからタマゴとチーズのココットにもさり気なく野菜を忍ばせてある。トマトやバジル、彩り鮮やか且つ中身も充実させてあげることだって忘れない。湯気が立ち上るコーンスープをつければ、休みの日はゆっくりとした朝食のひとときを過ごせることが出来るのだ。
「今日オフだよね?買い物行きたいんだけど付き合ってくれる?」
「構わんけど何買いに行くんじゃ?」
「トイレットペーパーとか荷物かさ張るもの」
◎◎◎
木々がまるで愉快な花道を作るかのように左右に並んでいる並木道をふたりで並んで歩きながら、最近出来たばかりの近くのショッピングセンターを目指す。以前仁王がプレゼントした小さいバッグを肩からかけ、アスファルトの上をどこか軽い足取りで歩くの歩幅が、この天気の良さを物語っているようだった。清々しく澄み切った青空はそれだけでただの買い物を近場へのデートに格上げしてくれるようだ。
ちょうどお昼時でもあったため、レストランフロアのマップを見ながら食べたいものを決める。久々にふたりで過ごす外でのランチは、例え店が混雑していても、ふたりの空間だけ穏やかな時が流れているようにさえ感じる。テーブルから見える外の景色には、多くの人の日常が繰り広げられており、まるでパリかどこかの映画の中のワンシーンに参加しているような気にさえなる。しばらくして、席に通されて出されたミネラルウオーターの冷たさが、をリアルヘと引き戻してくれた。しかしリアルの世界も頭の中のスクリーンと変わらず、穏やかで平穏だ。湯気を引き連れてようやくやってきたパスタは、鼻腔と空腹をくすぐる香りを纏っている。
「美味しいね」
「俺はの作るパスタが一番好きじゃけどな」
「…どうしたの、急に」
「別に。思ったことを素直に言っとるだけぜよ」
「良いけど…急に褒めたからって今日の晩御飯やき肉にしたりしないからね」
彼女は何でもお見通しのようだ。艷やかな髪を耳にかけ、マイペースにフォークでくるくるとパスタを絡めるを見ながら、仁王は自分のポジションを静かに自覚していた。キッチンの主導権、イコールご飯の選択を自在に操るのはだ。仁王の要望が通るのは確率的に30パーセント。彼のリクエストは偏っている事が多いため仕方がない。しかし、仁王は全くもって不愉快なんかではなかった。そんな自分が可笑しく感じのか、口元に猫が笑うような緩いカーブを描くと、は些か不思議に思った様子ではあったが特に口には出さずに大人しくパスタを食している。仁王は自分をよく理解してくれているに心の中で喝采を送りながら、久しぶりの外でのランチを楽しんだ。
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トイレットペーパーはもちろん、最近衣替えしたばかりで不足していたハンガーだとか、新しく新調したかったクッションカバーだとか、晩御飯のおかずだとか。の予告通りかさばる物を一通り近くのショッピングセンターで揃えてお互い大きな買い物袋を下げながら帰路を辿る。別れがなく、ふたりで同じ家へ向かうというのは当たり前のように思えて、実はとても至福だということをは忘れていない。
は特に家まで繋がるこの道が好きだった。近くに公園があるのも、今の部屋を決めるきっかけのひとつ。交通の便もそれなりながら、長閑でいつでも散歩したくなるようなゆっくりとした時間が流れる感覚を堪能出来るこの道。途中に聞こえる穏やかな風の音や、木々が揺れてざわめく音。子どもの笑い声や近所の人たちの談笑。すべてが休日を彩る音楽となり、まるでオーケストラの一員になれたかのようにさえ感じる。
「あ、見て見てあの子」
「ほう、あんな小さいうちからテニスか」
「すごい楽しそう」
途中で見える公園に仲睦まじそうな親子が3人。些か距離があるが視界にはハッキリと映る。自分の背丈とあまり変わらないほどのラケットを持ち、一生懸命ラケットを振る小さな男の子。傍で父親らしき若い男性がボールを山なりに投げて、それを母親らしき女性が応援している。全くもって赤の他人ではあるが、なかなかラケットにボールを当てることの出来ない少年を見て、は持っていた買い物袋につい力が入った。仁王はそんなを横目で眺めている。少年のラケットにボールが当たると、親子3人喜び合い、もそっと胸を撫で下ろした。
「ずいぶん真剣に見とったの」
「なんか応援したくなっちゃって」
「買い物袋なんかよりオレの手握って欲しかったぜよ」
「今日の仁王くんの手は、この大きい買い物袋を2つ持つ大事な手だから」
「…プリ」
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なんの感情も抱かず、何となく感動で泣きたくなってしまいそうなほど眩しい夕陽の赤と橙が重なりながら映える時刻に帰ってきてこれたので、家についてからしばらくゆっくりとした時間を過ごしていた。買い物に付き合い、袋を持ってくれた仁王を労うように、は帰宅早々ポットの中のお湯を沸かし、この前友人に貰ったお土産のダージリンティーを入れてふたりで夕焼けの余韻に浸った。ふたり分の重みを支えるソファーに寄り添うように腰かけ、特に言葉は無くてもそれが何よりの安寧である。
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結局晩御飯は焼き肉ではなく正反対の和食だったものの、充実している食生活を送らせてもらっていることに感謝しながら、仁王は「いただきます」と「ごちそうさま」を毎回言う。洗い物は仁王がすることも多い。
洗い物を終えた仁王は、バスルームから微かに聞こえるシャワーの音をBGMに、が風呂から出てくるのを読みかけのミステリー小説を読みながら待っている。既にシャワーを済ませて温まった仁王は、乾かした自身の髪を片手で弄びながら、ひとりの時間を過ごす。
「まーた髪乾かさんで出てきおって」
「だって長いから時間かかるんだもん」
「仕方ないの、こっち来んしゃい」
「はーい」
床に敷いたラグの上にを座らせ、自身はソファーの上に座る。仁王がの髪を乾かすことは珍しくない。の細く長い艶やかな髪に指を通し、水分で重みのある髪を人工的に揺らしながらドライヤーで乾かす。ご機嫌な様子のは、口に出したことはないが仁王に髪を乾かしてもらうのが好きであり、仁王もそれに気づいていた。徐々に軽くなっていく髪が風でバレリーナのように優雅に舞い踊り始める。
「今日久々に一緒に外出られて楽しかったねー」
「そうじゃの」
ドライヤーのせいで若干声のボリュームが大きくなる二人であるが、それでも会話をやめないのはお互いの意思が疎通しているということ。がつい間延びした声になってしまうのは、その心地好さに酔いしれているからだろう。時折かかるターボに、目の前で髪がふわふわと踊るのを感じながら、は会話を続けていく。
「それに、なんかああいうの良かったよねー」
「ああいうのって何じゃ?」
「公園の親子ー」
「何が良かったんじゃ?」
「普通かもだけど、家族と過ごせる休日のしあわせ、みたいな感じ」
学生や社会人、ほとんどの人間が日々、良くも悪くも決められた殺伐とした時間の中で過ごしているだろう。もちろんも例外では無い。そんな彼女から見て今日の親子3人が奏でる時間は、日常の中で繰り広げられる小さな戦争さえもまるで知らない、とても穏やかで平和なものに感じられた。その時間を醸し出す本人たちに自覚はないのかもしれないけれど、周りから見たらきっとしあわせのひとかけら。
「なんじゃそんなこと」
「そんなことって、それでもわたしには大事なことなんですー」
の髪が本来の絹のような美しさと艶を纏い始めた。幾分軽くなった髪から漂うオーガニックシャンプーの自然な香りが仁王の鼻腔をくすぐり、心に波を打つ。自分と同じシャンプーを使っている筈なのに、どうしてこうも違うのだろうか。
「 」
もう既に8割は乾いているの髪には相変わらずターボの強い風が吹いている。の耳はアーティフィシャルの風に埋められてしまい、肝心のナチュラルな声が聞こえて来ない。けど、何か言葉が発せられたのはギリギリ気づく程度。その絶妙なアンバランスがの好奇心をくすぐる。
「え、なんて?ドライヤーで聞こえなかった」
「…二度は言わんぜよ」
「えー!」
ドライヤーのスイッチが切られ、ようやくの髪が一本一本燦然と輝く。仁王の手櫛によって整えられた髪たちは色めき立つかのように恍惚として眩しい。頭上に乗せられた仁王の手のひらは形容し難いほど温かく、そのまま瞬きをするくらいの速度で当たり前のようにリップノイズを奏でながら、仁王とのくちびるは甘美な熱を共有する。くちびるに浸透した温度は乾ききった髪とは正反対に、潤沢だ。
「次言うときは別の言葉で言うからの、それまで待っときんしゃい」
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あれから、735日後の朝。ふたりの苗字は同じになり、日常に小さな笑い声がひとつ、増えた。