※死を扱うお話となります / 梵天軸 / いつも以上に色々捏造


 の心臓を感じると、どうしてか瞼をゆっくりと閉じてそのまま抱きしめるように眠たくなる。古代ギリシャだか何だかの大昔では、心臓と薬指は一本の静脈で繋がっていると信じられていたらしい。どこかで誰かに聞いたそんなつまんねえ話が脳裏に浮かぶ。だからというわけじゃないし、特別な契機があったわけでもない。明確な理由が存在してるわけでもないし、その契り自体に価値を感じてるわけでもない。それでもただ、の細い左手薬指をなぞるように触れたら何となく、ここに生涯の結びでもある光り輝く象徴を飾りたいと、なんでも無い日にふとそう思った。



 東京の夜景に飲み込まれそうな程の大きいガラス窓と大理石の床から冷たさを感じるこの部屋は少し緊張する、とに言われたことがある。だからと言うわけじゃないけど、今ふたり分の重みを受け止めているこのソファーの色や、が来た時くらいにしか開けない窓のカーテンは全部に選ばせた。知らない間にフラワーベースが増えてたり、部屋の雰囲気に一切合わないご当地土産の猫だか熊だかワケわかんねぇ飾り物が置いてあったり、気づいたらこの部屋はとふたりでゆっくり創り上げていった空間になっていた。オレの脚の間のせまい世界に収まるような小さい身体は、今日も意味無く陽だまりのような温度を宿してる。別に寒いわけでもないのに、気づいたらつい後ろから抱きしめて暖を取りたくなるのが癖みたいになってた。冬だけじゃない、夏でも春でも秋でも、一年中ずっとそう。

「ねえ、これ見て」
「んー?」

 斜め下のスマホに視線を落としていたが、何か共有したいことでも見つけたのか画面から目を離さずに声を掛けてくる。わざと顔を近づけて後ろからスマホを覗き込めば、距離の近さを自覚したのかようやく顔をこちらに向けてきた。視線が交わると、まばたきひとつしないの虹彩が僅かに揺れる。リップ音を立ててくちびるを短く重ねれば、いつまで経っても初々しいの頬が、感情を誤魔化すことも出来ずにあっという間に色づいていった。

「…来週金曜の夜、空けとけよ」
「何か約束してたっけ?」
「してねぇけど」
「多分定時で終わるから大丈夫だと思うけど、どこ行くの?」
「オレの行きたいとこ」

 なにも知らない無垢な子どもみたいに小首を傾げるは一般の会社で週5日、朝から晩まで真面目に勤めてる。「仕事終わりに蘭ちゃんと会えると思うと頑張れそう」なんて、まるでこの世には平和と純粋しか存在してないみたいな笑顔で真っ直ぐにそんなこと言ってくるから、言葉で答える代わりにのやわらかい手を取って甲にうっすらと浮かぶ血管をそっと撫でたあと、くちびるをひとつ落とした。

「車で迎えに行くから会社の前で待ってろよ」
「やだ、蘭ちゃん来ると色々目立つから直接行く。どこ行けば良いの?」
「…じゃあ19時にココ」
「え、ここわたしが前に泊まりたいって言ってたホテル!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!蘭ちゃんってわたしの話聞いてなさそうで聞いてくれてるよね」
「ディナーも予約してあっから遅れんなよ〜」

 黒目の中に星を鏤めさせたは身体を反転させ、興奮気味に「いつ予約してくれたの?」とか「どうやって予約取れたの?」なんて聞いてくる。まさかついさっき裏の権力を使って予約を押さえたとは流石に言えない。はぐらかすように「ひみつ」とだけ言って腰を引き寄せてもう一度くちびるを短く重ねると、は「えー」と少し不満そうな表情を見せながらもすぐに自分の会社からホテルまでの電車の時間を嬉々として調べていた。「いつも蘭ちゃんが迎えに来てくれるけど、実は一度待ち合わせしてデートしてみたかったんだよね」なんて、何でそんなことしたいんだよと思いながらも満開の花みたいな笑みを向けられるから、ついつられて「そーだな」と同意を示すような言葉を無意識に出していた。「絶対思ってないでしょ。相変わらず適当」とか言われて睨まれるけど、宥めるように額にくちびるを落とすと、分かりやすいくらい静かになって抱きついてくる。そのままガラス細工みたいに脆そうな細い体躯を、壊さないように抱きしめた。

「でもこんな良いとこに着て行く服あるかな…仕事のあと一度家に帰る時間無さそうだし」
「この前いっしょに出掛けたとき買ったワンピース着てこいよ、白っぽいやつ」
「あ、確かにあれなら仕事でも浮かないし良い感じかも」

 以前ふたりで銀座のブティック前を通り掛かった時に目についた、ショーウィンドウに華々しく飾られていた白いワンピース。に似合いそうだなーとぼんやり思っていると、も気に入ったのか「あれかわいい」と言うので、そのまま中に入って試着させた。最高にかわいかったから合わせていたバッグや靴もまとめて買おうとしたら、に慌てて止められたっけなあ。ワンピースでさえ今度のボーナスで自分で買うとか言い張ってたけど「オレがそれ着たオマエ早く見たいから」とか何とか言って強引にプレゼントしたことをふと思い出した。そのまま着て帰るのかと思いきや「汚したら勿体ない」なんて言って、結局元の服に戻ったからあのワンピースを着ていっしょに歩いたことはまだ無い。

「でも急にどうしてホテルの予約なんてしてくれたの?」
「知りたい?」
「知りたい」
「明日教えてやるよ」
「えー、約束だよ?明日絶対教えてね」

 夜景なんてこの部屋からも見えるのにベタにラグジュアリーホテルの高階層のレストランと部屋なんて予約して、が好きだと言っていた花を用意して、の左手薬指にぴったりであろう指輪を準備して、ひとりの女のためにこんな面倒で普通なことをする自分に笑いそうになる。でもまあ悪くねぇなと、そんな暢気なことを考えながらがあのワンピースを着て笑顔で現れるのを待っていた。
 然し腕時計の針がpm7:00を示しても、は姿を現わさない。が約束を破ったことは無いし仮に遅れそうであれば絶対に連絡を寄越す筈。何度連絡しても一向に反応を示さないことに、滅多に生まれない焦燥感に似た感情が心臓を騒然とさせる。一般人より事件に巻き込まれる可能性が高いことは認識しているから、心当たりに片っ端から連絡をしたり情報を集めても、確信めいた事実はなかなか出てこなかった。なんでも無かったという平穏な未来をいくつか思い浮かべてみても、思考が残酷に千切れては散っていく。
 
 それから数時間後、がここに来る途中に交通事故に遭って死んだと連絡が入った。喉に毒物を流し込んだみたいに、一瞬言葉が詰まる。すべての感情が裂けそうなほどの衝撃が、心臓を深く静かに貫いたように感じた。事故だろうが何だろうが、こんな世界にいる以上は自分含め誰かの「死」は常に側にあるものだと認識している。けど、といっしょにいた時間はあまりに穏やかで普通過ぎて忘れていたのかもしれない。頭では理解している筈なのに、生と死の境目が分からなくなりそうなほど、心臓がこの事実を拒絶しようとしている。
 気づいたら自宅に帰っていて、フルレッドクリスタルのグラスが割れていた。二度と元に戻らない破片と白い大理石の床に映えるような鈍い赤が、虚しさを孕みながら散らばっている。足元に広がる光景が、破滅した心臓のようにさえ思えた。掌にも罅みたいな傷から赤が生まれていて、そこでようやく水でも飲もうとしたけど無意識に握りつぶすように割ったんだなと、思考が追いつく。を抱きしめることが出来ない手の存在意義に疑問を感じながら、ふとが最後に挿していった一輪の花が視界の端に入った。この部屋はまだ、至るとこにが存在している。交わした約束は果たされぬまま、間違いなくは還らぬ人間になったというのに。

△▼△


 に親兄弟はひとりもいなかった。唯一の親族である疎遠の叔父がいたらしいけど、長い間連絡を取っていなかったようでの訃報を聞いて逆に困惑していたらしい。秘密裏に組織と繋がってる葬儀屋に連絡しての叔父と話をつけてもらい、基本はこちら側ですべて引き受けることにした。人が死んだあと、正規のルートだとどういう流れで何がどう行われていくかなんて最低限しか知らないし興味もねえ。搾取する側の人間として知ってんのは、人は簡単に死ぬっつーことくらい。葬式や告別式もしない直葬でほとんど葬儀屋任せだけど法律とかやっぱ面倒くせーなあ、なんて思いながらもは一般人として少しでも美しく終わらせてやりたい。
 交通事故ということで警察が入ったため、のためにも立場的にもすぐに駆けつけることは避け、ようやくに会うことが出来たのは火葬する直前だった。その亡骸を前にして、本当に死んだんだなと、ようやく理性と感情を重ねることが出来たような気がする。ひさびさに着た真っ黒い喪服は、鎧のように重かった。

「冷てぇなあ」

 あれだけあたたかかったの温度は、もう一欠けらも存在しない。あんなに愛しかったの心臓を感じることは、もう二度と無い。事故に遭ったというのに、その亡骸は寧ろ神秘的な恍惚さを感じさせるほど洗練としている。あの日、白いワンピースを繊維まで血で染めて、全身の感覚が無くなるような痛くて寂しい思いをしたろうに、その痕跡を感じさせないくらいの美しさが確かに存在していた。
 葬儀屋に相談して、あの夜に渡す筈だった花をの周りに添える。用意した花たちはまだ枯れてはなくて、可憐さと美しさを同調させているこの花は、やっぱりによく似合うように感じた。

「おやすみ」

 落とした言葉なんて届かないと分かっていても、まるで意味の無いことだと分かっていても、が「蘭ちゃんに「おやすみ」って言ってもらえるとよく眠れる気がする」なんて言ってたから、いつもの癖で頭を撫でながら言っていた。
 最後に触れた頬は、雪のように白くて氷のように硬くて冷たい。この感覚を忘れることは、一生無い。

「骨壷って指輪とか入れていーんだっけ?」
「大丈夫です。…奥様でしたか」
「…そ、最初で最後に愛した女」

 もう飾れる指なんて無いけど、自分の左手薬指とおそろいの指輪をようやく贈れる。骨上げして、骨壷に入って、やっといっしょにウチに帰れんなあと思うと日数的にはそんなに経ってない筈なのに、一日が24時間とは思えないほど長く感じていた。
 葬儀屋に謝礼を渡して、迎えに来た竜胆の車に乗り込む。竜胆は生前のと何度も会ってる。オレがを迎えに行けない時とかは竜胆に頼んでたから、それなりに仲も良かったように思う。迎えに来ただけなのにわざわざ喪服を着てきたのは多分竜胆なりの気遣いなんだろうなと、鬱陶しいくらい澄み切った青空に似合わない自分たちの黒を見て、ぼんやり思った。

「なあ竜胆。この遺影のかわいくね?オレが前に撮ったの」
「それ、かわいいって言っても言わなくてもキレるやつじゃん」
「流石よく分かってんなあ」
「…オレ、知らなかった」
「何が?」
ってよく楽しそうに笑ってたけど、兄ちゃんの前だとこんなにしあわせそうに笑ってたんだな」



 それからしばらく経ったけど、がいなくなっても特になんの変わりもなく相変わらず淡々と日々を生きている。いっしょによく過ごしていた部屋も、何ひとつ変えてない。無理をしているわけでもなければ引き摺ってるってわけでもない。絶対に埋まらないこの空虚感と共存して生きて、そしてこの生涯を終えることが自然で普通だと、ただそう思ったからだ。
 そして先日、ようやく条件に合う霊園に空きが出たので墓を建てて納骨をした。あのまま部屋に置いておいても良かったけど、春になれば桜が咲くこの場所の方がにとっては良いだろうなあ、なんてもう死んでんのに未だにのことをいちばんに考えてる。いつからか自分よりの感情だとか立場を無意識に優先させていたことを今更自覚した。特に意識したつもりもなく、ただ自然にやりたくてやってたからそんな変化に気づいて来なかったのかもしれない。
 ここに来ると、の心臓を感じてた時みたいに不思議と落ち着く。吐いた息は白く淡く消えていき、桜の蕾なんてまだついていない風通しの良い木々が、都会の喧騒なんて知らないみたいに別世界の雰囲気を生み出してる。死後の世界なんてもんが存在してるなら、にはこんな風に穏やかな場所でゆっくりとした時間を過ごしてほしい。

「籍は入れらんなかったけど、墓は一緒に入ろうなあ」

 生前、が好きだと言っていた花を飾って手を合わせると、左手薬指の指輪があのとき触れたの肌のように冷たい。けど、脳裏に浮かぶはいつだって春のあたたかさを纏っている。この先いつ冷たくなってもおかしくないオレの中で、こうやってずっと一緒に生きていければ、それで良い。