携帯に表示される時間がPM10時を示した頃、吐いた白い息の向こう側で、自分の目的地も分からずに迷子にでもなってるかのようなの薄寂しい後ろ姿を見つけた。鉄のブーツでも履いてんのかと思うくらい重そうな足取りで、攫おうと思えば簡単に攫えるくらい隙だらけ。こんな時間にひとりで六本木を彷徨ってるに声を掛けると、思った以上に驚かれた。というかビビられた。…あー、多分急に声を掛けられたことにじゃなくて兄貴だと思ったからかも、と今にでも泣きそうなの顔を見て何となくそう思った。雰囲気的に外で話すのも微妙だし、ウチに連れてくのもこの感じだとが嫌がりそうだし、とりあえず近くにある馴染みの店に入ることにした。駅からも距離があるし路地の奥に存在してるから、一見の客はなかなか来ない。つーか、ほとんど店主の知り合いしか来ない気がする。今も客は他にひとりしかいない。昼はカフェもやってる店だから、も多分居心地は悪くないだろ。カウンターでグラスを拭いてる知り合いの店主に軽く挨拶して、いちばん奥のソファー席に座った。

「で、なんで一人でこんな時間にこんなとこフラついてんだよ」
「…気づいたらこんな時間になってただけ」
「兄貴に怒られんぞ」
「別に良いよ…っていうか既に今日蘭ちゃんと喧嘩しちゃったし」
「それはなんとなく知ってる」
「え…なんで知ってるの?」
「突然兄貴の機嫌が悪くなったから」

 数時間前、急に兄貴から最近敵対してた連中を見掛けからちょっとボコってくるって電話が来た。今日と出掛けるって言ってなかったっけ?と聞けば、数秒無言になってからのブツ切り。なんとなく事情を察して、それと同時にその敵対チームに同情した。たまたま兄貴の視界に入っただけなのに運が悪いっつーか、かわいそうなヤツらっつーか。多分完全に八つ当たりみたいなもんで、兄貴のサンドバッグみたいになってる筈。暫くすると、色々な人間から兄貴があちこちで喧嘩してると噂が入ってきた。あの電話の後もいくつかの連中とやり合ったんだろうな。止めても無駄だと思って放置してたけど、情報が入ってくるたびに結構派手にやってることが容易に想像出来た。そのうち殴れれば誰でも良いとか言い出しそうで、目が合ったとかそんな理由だけで見境なく誰にでも手出しそうだから、面倒なことになる前に早めに何とかしたい。

「早く仲直りしろよ。六本木が色々な意味でめちゃくちゃになる」
「大袈裟な…わたしと喧嘩してるくらいでそんなことにならないでしょ」
「オマエは分かってないかもしんないけど、なるんだよ」
「でも蘭ちゃん、もうわたしのこと好きじゃないもん…っていうか元からそうだったのかも」

 そう言うの声が少し震えていたような気がした。くちびるをキュッと結んで、かなしさを滲ませた表情でホットカフェラテが入ったカップの取っ手を握りしめてる。だけど、なかなか飲もうとはしない。とりあえず落ち着かせようと「あったかいうちに飲めよ」と言えば、手をあたためるようにニットの袖から少し出したもう片方の指たちをカップに添えて、ようやくゆっくり飲み始めた。かたく結ばれていたのくちびるが、飲み物を飲んだことで少しゆるくなったような気がする。力が入っていた身体が落ち着いたタイミングを見計らって話を聞くことにした。そういえば、から兄貴のことについて相談つーか話を聞くのは初めてじゃないけど、こういう重そうな雰囲気を感じるのは初めてかも。

「一応聞くけど喧嘩の原因って何?」
「わたし以外に彼女がいる」

 まあそんなことだろうとは思ったけど。兄貴に彼女がいようがいなかろうが近寄ってくる女は昔から多い。ただ、と付き合った時だけ全部の女を切ってたような気がすんだけどな、多分。それでも諦めらんなかったり迫ってくる女はいるし、自分だけは特別って未だに勘違いしてる女も山ほどいる。兄貴と女たちどっちかの味方をする気はないけど、このまま兄貴とが喧嘩したまま…つーか別れるなんてことになったら、オレでも兄貴の暴走具合に手がつけらんなくなる気がする。そんでもって、恐らくそのあとに発生するであろう面倒な後始末やら何やらが面倒くせぇ。…それにのことは普通に友人つーか妹みたいに思ってるし、と付き合うようになってからの兄貴は色々新鮮で面白いし、ふたりには出来るだけ早く仲直りしてして欲しいから、ここは一応兄貴のフォローをしておくか。

「蘭ちゃんモテるの知ってるし、そういうの今までも何回か感じたことあるけど」
「まあ兄貴がその気なくても女が勝手に寄ってくるだけだから」
「…この前たまたま友達とご飯した帰りにクラブっぽいお店の前で蘭ちゃんが女の人に抱きつかれてるの見た」
「相手から無理矢理抱きつかれただけだろ」
「でも、蘭ちゃんそれを隠したの!嘘ついたの!」
「嘘?」
「その日、そのお店の近くにいた?って聞いたら行ってないって嘘ついた」

 あー、に余計な心配させないように嘘ついたんだろうな。そういやが言うその日、やたらと強い女モンの香りつけて帰ってきてめちゃめちゃ機嫌悪かった気ぃする。すぐシャワー浴びてたな。兄貴ってが絡むと色々分かりやすくなんだよな。些細な違和感だから分かるのなんて身内のオレくらいかもだけど。兄貴本人も多分そんな自分に気づいてない気がする。

「蘭ちゃんって普段意地悪だけど優しいのに」
「え?…あー(優しい?…いや、それオマエにだけ)」
「本気なんだか嘘なんだか分かんない冗談いっぱい言うけど、出来ない約束しないし」
「へえー(どうでもいいヤツには適当だけど)」
「誰よりもわたしのこと分かってくれてるし」
「ふーん(そりゃあいつもあんだけのこと見てるからな)」
「…なのに」

 え、ってかオレ惚気られてる?オレからしたら愛されてんじゃんって感じなんだけど。去るもの追わずの兄貴がこんな執着すんのオマエくらいだけど、って言いたい。まあは今の兄貴が通常運転で、今まで女に対してどんだけだったか知らないからだろうけど。オレからしたら兄貴がひとりの女に夢中になる日が来るなんて思わなかったから、今でもたまにから話聞いたりすると衝撃に感じることが多々ある。例えばデートするときをわざわざ迎えに行く事とか、の行きたいとこにいっしょに行くとか、とにかく女のために動く兄貴なんて初めて知った。それにに何か悪い事が起きないように、いつでもの周りを警戒してる。絶対道路側とか歩かせねぇし、の目の前では出来るだけ喧嘩もしないようにしてるらしい。は一切気にしてないし気づいてないから暢気にいつも兄貴の横で楽しそうに笑ってる。まあ兄貴からしたら何の違和感も自覚もなく、いつものように自分がやりたいことやってるだけなんだろーけど。

「あー、でも分かったわ」
「何が?」
「オマエ、兄貴が浮気したかもってことより嘘つかれた事がショックだったんだろ」

 の瞳孔が一瞬開いた。きっと自身気づいてなかったんだろうけど図星だな。すっげー分かりやすい、こいつは絶対嘘つけないタイプだな。同時に、今までひとりで溜め込んでたモヤモヤだとかショックだとか、そういうよく分かんなかった感情の正体が明確になって、少し戸惑ってるようにも見えた。

「そ、そうかも」
「でもオマエだって兄貴に嘘くらいついたことあんじゃん」
「ないよ!」
「前に熱出てて体調悪いの隠したまま無理して遊びに行って、でも結局途中で兄貴にバレてウチに強制帰還されてなかったっけ?」
「あ…あれは別」
「いや、一緒だろ」
「一緒じゃないよ!蘭ちゃんは浮気隠してるんだよ?どこが一緒なの?」
「…どっちも相手のための嘘ってこと」

 まあの性格からして純粋に兄貴と遊びに行きたかったのもあったんだろうけど、兄貴に心配とか迷惑掛けるのヤダったんだろうな。だからオレからしたら今回の兄貴の嘘も前のの嘘も内容はもちろん違うけど、ある意味どっちも同じようなもんだと思う。そういえばあのとき、急にを連れて帰ってきた兄貴がいつもよりちょっと焦ってるのが新鮮過ぎて面白かったな。顔も声もいつも通りなのに心ここにあらずって感じで「兄ちゃん、靴!」「…あ」って靴のまま部屋に入って来たし、をベッドに寝かせたあとずっと傍についてて離れねーし。

「見ぃつけた」

 の顔が顔面蒼白になったと同時に、後ろから兄貴の声がした。まあ連絡したのオレだけど。もしがひとりでいるの見掛けたら保護しろ(=遠回しに探せ)って、ボコってくる宣言してきた暫く後にわざわざ連絡してきたから、やっぱりのことめちゃくちゃ心配なんだなって思った。どーせ探してる途中で鬱憤晴らすように喧嘩してたんだろ。ってか兄貴が機嫌悪いのってに対してじゃなくて自分に対してだろーし。が一切携帯出ないから、周りの人間使って目撃情報集めてを見つけて保護したオレを褒めてほしい。後でに聞いたら兄貴と喧嘩した後どっかのカフェの1番奥の席で数時間ボーっとしてたとか。そりゃあ逆になかなか目撃情報入らねぇわけだわ。も自分の家にすぐ帰んないでずっと六本木にいたあたり、このままは嫌だと思ったんだろうな。
 現れた兄貴は喧嘩帰りのせいか、下ろしっぱなしの長い髪が少し乱れてる…と思ったけどコレ多分喧嘩のせいじゃなくて急いでここまで来たからだな。あと返り血みたいのが服についてて、夜じゃなかったらかなり目立つ。馴染みのこの店じゃなかったら入れなかったかもな。は兄貴が急に現れたことと血がついてることにビックリしたんだろうけど、今までの経験ですぐに兄貴が怪我してるワケじゃないって分かってホッとしてるようにも見えた。

「何勝手にいなくなってんだぁ〜?」

 うわ、出た。語尾にハートマークつくような嘘くさい笑顔貼り付けながら本当は笑ってないやつ。表情と感情合ってないのオレでもたまにこわくなる。いきなり横にドカッと座ってきた兄貴に驚いたのかビビったのか、は細い肩を一瞬ビクつかせた。逃げたいけど逃げたくないみたいな葛藤が伝わってくる。ってか兄貴そっち座んのかよ。

「別にわたしがどこ行こうが何してようと何だって良いじゃん」
「…オレがいない時は夜にこの辺りあんま歩くなって言ってんだろ」
「でも、蘭ちゃんは好き勝手してるじゃん」

 たまに…っていうかいつも思うけど、兄貴ってが大事過ぎて過保護な親みたいになってるよな。まあいくら六本木はオレたちが仕切ってるからって、いつ誰がどんな動きするか分かんねぇし、他所の連中がこっちに乗り込んでくることだってよくある。兄貴が大事にしてる女ってだけで、リスクは必然的に高くなるから仕方ないっちゃ仕方ない。守るもん初めて出来て、加減分かんなくなってる時もあるけど。でも、この街をこんな時間にみたいな女がひとりで歩いてたらそれだけで格好の餌食だし。
 つーか、せっかくちょっと良い方向に行きかけてたのに兄貴タイミング悪っ。兄貴ものことになると余裕なくなるときあるからな…冷静じゃなくなるっつーか、変にガキっぽくなるっつーか。

「あ?何だよそれ」
「ほ、他の女の人と…」
「違ぇって言ってんだろ。何、オマエってオレのことそんなに信じてないわけ?」

 いや、空気重。もうすぐ日付も変わるし、さっきまでいた客もいつの間にか帰ってるし他の客も今日はいねぇから、オレたちが帰れば店もクローズ出来るんだろうけど、店主も多分この雰囲気に気遣って何も言って来ねぇんだろうな。オレがここに連れてきたから少しだけ店主に申し訳なさも感じる。ってかオレも帰りたい。でも今のふたり放っておくことも出来ねーしな。

「泣けばどうにかなるとでも思ってんの?」
「泣いて、ない」

 性格悪っ。ワザとちょっとキツイこと言っての反応見てんな。泣いてないけど泣きそうじゃん。もう言えよ、疑わせた自分が悪かったって!なんも心配すんなって!ほんとはそう思ってんだろ!

「そんなこと言ってオマエだってオレに隠れて竜胆となんかしてたんじゃねーの?」

 あ〜〜〜違ぇだろ!んなこと思ってねーくせに…ってか、オレ巻き込むなよ。もう巻き込まれてっけど。ほら、の手の甲にボタボタ涙落ち始めたじゃん。さっきのやり取りのせいもあっては多分泣いてんの知られたくないんだろうな…バレバレだけど。絶対顔上げねーし、自分の膝の上で作った拳、めちゃくちゃ握りしめてる。まぁ、今の兄貴の言葉が冗談だって思えるほど余裕ねーだろうから、疑われたのがショックだったんだろうな。あと、少し頭冷えて兄貴が浮気してるわけじゃないってのが分かってきて疑った罪悪感で自分責めてそう。

「…兄貴が全部悪い」

 まあこうなる展開はちょっと予想してたけど、兄貴のこの表情はちょっと意外。兄貴が女泣かすのなんて腐るほど見てきたけど、自分が泣かした女見てこんな表情する兄貴は初めて見た。に限っては大事にしてるから、傷つけて泣かせたことなんて今まで無かったんだろうな。驚き半分と罪悪感半分みたいな顔してる。他人からしたら見逃す程度の僅かな違和感だけど、オレには兄貴が今つらそうなの、分かる。もちろんは視線を落としたままだから、そんな兄貴の様子なんて一切分からない。 

「…竜胆」
「分かってる」

 すぐにいつもみたいに冷静になった兄貴が、全てを言う前に察して席を立つ。店主に短く挨拶っていうか詫び入れて、店を後にした。でも、少し気になったから店を出て扉を閉めたあと、帰る前に一度振り返るとドアの大きい窓からふたりの様子が見えた。
 自分の兄貴だけど失礼を承知で言う。人殴ることしか出来ない手だと思ってたけど、好きな女にはあんな風に触れるんだな。めちゃくちゃやさしく頭撫でてんじゃん。すげー大事そうに抱き締めるじゃん。ただでさえ下がってる眉、余計下がってんじゃん。めっちゃ手で涙拭いてあげてんじゃん。ハンカチ持ってねーのかよ、持ってるわけねーか。ふたりがいっしょにいるところなんて何度も見てきたけどが、ふたりきりだとあんな感じになんのか。(店主いるけどふたりの中に存在してなさそうだし)あとを見る目がなんか甘ったるい。そりゃあんな目でずーっと見られてたら兄貴のことやさしいって言うわな。の前以外で一切見たことねーけど。

「蘭ちゃんのバカ」「…そーかも」「蘭ちゃんひどい」「…そーだなぁ」「蘭ちゃんきら、」「嫌いはヤダ、無理」「…蘭ちゃんわがまま」「…知ってる」「じゃあ、わたしのワガママも聞いてよ」「ん」「仲直りしたい」「いーよ」

 身内のそういうのってなんか恥ずかしいっつーか何つーか。まあ何とか無事に収まって安心したから、ポケットに手ぇつっこんでその場を後にした。
 …っていうかオレ頑張ったな。ある意味六本木の治安守ってんのオレじゃね?疲れたから今日はさっさと寝よう。