※梵天軸のお話となります


 都心の一等地にあるとは思えないほど閑静な場所に佇む一軒の高級料亭。看板も無く、外観からだけではお店だと一切分からない。本当にこの場所で合っているのか不安に思っていると、ようやく待ち合わせの相手が現れる。とは言え、まだ待ち合わせの時間の5分前。正直現れない可能性も想定していたし、遅れてくるタイプだろうと勝手に思っていたので、思ったより早い登場に少し驚いてしまった。

「コンバンワ、ちゃん」
「こんばんは、灰谷さん」
「"灰谷さん"じゃなく蘭で良いって何度も言ってんのになぁ〜」

 待ち合わせの相手である灰谷蘭さんは慣れた様子でわたしをエスコートしながらお店へ入る。灰谷さんが店主のような人と挨拶を交わし、よくドラマなんかで政治家や大企業のトップたちが会食に使用していそうな広めの個室に案内された。部屋からはお店の庭園が静かな光にライトアップされている景色が見える。こういったお店に来れる機会なんて滅多に無く、新鮮に感じてつい周りを見てしまう。ご飯に行くと決まった時も彼の持つ雰囲気からだろうか、イタリアンやフレンチなどレストラン系の場所を勝手に想定していたので、日本料理のお店とは少し意外だった。けど、仕事関係でよく使用しているのだろうと何となく理解出来た。畳の上に置かれている座椅子に座り、一息つく暇も無く本日最大の疑問を投げかける。

「あの、ところで今日って何なんでしょう?」
「んー…理由欲しい?」
「そうですね、なんでわたしなんかに構うんですか」
「どうしてだと思う?」
「わたしが春千夜の幼馴染だからですか?」

 この回答に、灰谷さんは否定も肯定もせず、夜に溶け込みそうなほど妖艶な笑みを静かに浮かべた。
 わたしと春千夜は小さい頃からの幼馴染で、彼が当時の東卍に入る前から知っている。幼馴染なんて、大体高校生だとか大学生だとか社会人だとか、どこかの人生の分岐点で解消されてしまう関係かと思っていたけど、関係は大人になった今でも続いていた。春千夜が今、何をして生きているのか明確に聞いてはいないし教えてもらってもいないけど、何となくただの会社員である一般人のわたしと関わるような人間では無いということは分かっている。交じり合うような関係では無いと、お互い頭のどこかで理解していながらも、どちらとも何も言うことなくただ何となくたまに会って一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりするという、それこそまさに世間の普通の幼馴染と何も変わらないような関係が続いている。
 先日、たまたま春千夜と会っているところを灰谷さんに見られたらしい。春千夜は、自分のためなのかわたしのためなのかは分からないけど、わたしと会う時は基本誰にも見られないようにしている。送迎も必ず車やタクシーを用意してくれるし、お店も大体個室があるところを選んでくれている。そのせいで、と言ったらおかしいかもしれないけど、わたしたちがふたり並んで外を歩いたり立ち話をすることはいつからかあり得なくなってしまった。ただ少し前、春千夜と新宿で会っていたときに一瞬だけ外で会話をしたことがある。わたしが帰るときにお店にハンカチを忘れてしまっていて、そのまま気づかずに用意してくれていたタクシーに乗ろうとしたところ、まだお店にいた春千夜がわざわざ外まで渡しに来てくれた。「コレまだ使ってんのかよ」「うん、お気に入りだから」なんて、その程度の会話だけ。時間にしたら数十秒程度なのに、そのタイミングを灰谷さんに見られていたらしい。

「今思い出しても衝撃的だったな」
「何がですか?」
「アイツもあんな表情すんのかって」

 その後日、仕事帰りに近道をしようと人気の無い高架下を通った時、いきなり知らない男の人たちに絡まれた。春千夜ほどではないけど、明らかに一般人ではないような雰囲気が漂っていて、春千夜に連絡しようと思った矢先に助けてくれたのが、どこからか現れた灰谷さんだった。それからはまるでお決まりの展開のようにお礼を言って、流れで連絡先を交換して、意味があるのか分からないようなやり取りを何回かして、そして今に至る。何度かやり取りをしているうちに、灰谷さんは春千夜の同僚のような人だと言うことが分かった。雰囲気的に同業者のような気はしていて、最初は春千夜を狙っている別の団体とか組織の人間かとも思ったけど、灰谷さんから聞く春千夜の話はある程度近い距離にいないと分からないであろう内容だったりしたので、そこは信用することにした。けど、だからこそあまり関わりたくないと思っていて、かと言って無下にすることも出来ず、再三くる連絡や誘いを躱すのが難しかった。今思えば、あの日に知らない男の人たちに絡まれたことも灰谷さんが助けてくれたことも、全部仕組まれていたんじゃないかとさえ思ってしまう。

「ってかオレと知り合った事とか、こうしてデートしてること、アイツに言ってねーんだ」
「そうですね。…え?これデートだったんですか?」
「オレはデートのつもりで来たんだけど」

 相変わらず冗談だか本気なんだか分からない言葉を生む灰谷さんのくちびるは、楽しそうに弧を描いている。
 春千夜に灰谷さんと出会ったことを言おうかどうかすごく迷ったけど、なんとなく言わない方が良いと思って黙っていた。それに春千夜からも特に何も言われていないので、灰谷さんも春千夜には何も言っていないのだと思う。そのせいだろうか、灰谷さんと秘密を共有しているみたいな感覚がどこかに生まれてしまっているのかもしれない。別に秘密にしたいわけでもなんでもないのに、何もしていないのに、罪悪感のようなものが心臓をちくちくと刺激する。

「で、どうしたらオレの女になってくれんの?」
「そういうこと、毎回言ってきますけど冗談ですよね?」
「冗談じゃねーよ」
「…灰谷さんって結婚詐欺担当とかですか?」
「オレの扱いひどくね?つーか知ってんだ、オレたちのこと」
「ちゃんとは知らないですけど、なんとなく」
「ふーん、守られてんなあ」

 出会ったときから、まるで口説いているような言葉をずっと投げかけてくる。生きる世界が別という話は置いておくとして、日本人離れしたスタイルの良さと完璧と言えるほどのその容貌で、女性に困っているとは到底思えない。春千夜も客観的に見たら髪の色だとかそういうのは別として、昔からかなりの眉目秀麗だったので、そういった人間には目が慣れていた。だからどんなに外見が優れていても中身が分からなければ正直惹かれはしないし、そういう特別をたくさん持った人が外見も中身も普通な、普通で埋め尽くされている平凡なわたしのどこを気に入ったのか分からないので、むしろ警戒心が高まってしまった。

「わたしというより、春千夜が目的ですか?」
「違ぇよ。つか、そもそもアイツにそんな興味ねーし」
「そう、ですか」
「ただ、あのアイツにあんな表情させる女がどんな女なのかは興味湧いたけど」
「…ところで、さっきから言ってる春千夜のあんな表情って?」
「教えて欲しい?」
「…交換条件とか出されそうなので、やっぱり良いです」
「へぇ、勘いーじゃん」

 いつの間にか料理が運ばれてきていて、旬の食材が華やかに飾られたお皿たちが目の前にたくさん広がっていた。食べていなくても、見ただけで高級な料理だと分かる。当然、こんな高級なお店に来ることなんて滅多に無いから、こういった料亭の値段の常識を一切知らない。一般人らしくお金の心配をぼんやりしていると、そんなわたしの様子を察したのか灰谷さんに笑いながら「落としたいと思ってる女に金なんて払わせねーよ」なんて言われてしまった。なんて返せば良いか分からず、その辺はとりあえず後で考えることにして「いただきます」とせっかくなので美味しいうちに食事を楽しむことを優先した。

「ん、どれも美味しい!」
「そーお?」
「あんまり食べてないみたいですけど灰谷さんはそんなに好きじゃなかったですか?」
「んーん、好き」
「何がお好きなんですか?」
「さっきまで一切隙なかったのに、そうやって美味そうに食ってるとことか」

 一途に注がれるような甘ったるい双眸に、絡まれてしまった。油断しないように気を張っていたのに、美味しい料理たちによって思わず普段の自分を曝け出してしまったらしい。きっとこの扇情的な表情で、世の女性たちは魔法にでもかかったみたいに灰谷さんに堕ちていくのだろう。「どの料理が好きか聞いたんですけど」と言う言葉を紡ぐことは出来ず、口に入れた料理と一緒に咀嚼した。何も言えないのを誤魔化していることが分からないように平静を装ってみたけど、何もかもを見透かしたような感情が読めないまなざしをこちらに向けてくる。

「なー、じゃあさアイツ殺したらオレのになってくれる?」
「…もし春千夜を殺したら、わたしが灰谷さんを殺します」
ちゃんほんとに一般人?そんな即答で、しかもそんな答え返ってくると思わなかったわ」

 春千夜が普通の人間より死に近い位置にいることは、もちろん何となくだけど分かっている。覚悟とは違うかもしれないけど、急に連絡が取れなくなってしまうことも、二度と会えなくなってしまう可能性があることも、わたしの思考の片隅にはちゃんと存在している。それでも、もし春千夜が死んでしまったら、わたしはわたしじゃいられなくなると思う。事故とかではなく春千夜が誰かに殺されたということが分かったら、わたしはその相手を絶対に許せない。きっと冷静なんかではいられずに、何らかの行動を取ってしまう気がする。

「それって何?愛情?」
「…え?」

 自分でも自分に聞いたことのない、確かめようとしたことのない静かな問いに思考が停止した。わたしと春千夜はただの幼馴染で、それ以下でもそれ以上でもない。春千夜に対して抱く感情に疑問を持ったこともないし、答えを求めようとしたことなんてなかった。

「…分かりません。そういうこと、考えたことないです」
「分かる方法、教えてやろーか?」
「何ですか?」
「オレに抱かれろ」

 今までの声音と違って、いきなり声に重低音が乗せられたので漂う空気が驚くほど変わった。その空気が肌に重く纏わりついたように感じて、指一本さえ動かせない。さっきまでの甘ったるい瞳とは違って、わたしの心臓を弾丸で貫くような視線から離してもらえない。全く意味が分からず、どうしてそれが確かめる方法になるかを聞きたいのに、くちびるが塞がれてしまったみたいに言葉が出てこない。

「オレが目の前にいんのにずっと他の男のこと考えてるとか、ありえねーんだわ」

 目の前にいた灰谷さんがいつの間にか隣にやってきていて、冷たくて長い五指に捕獲されるように頬が包まれる。まばたきをすることを忘れてしまうほど、時も呼吸も止まったように感じた。灰谷さんが春千夜のことばかり話題にするから、と思っていたけど怖いとかの感情より先に脳裏に浮かぶのはやっぱりどうしてか春千夜の姿。もしこのまま灰谷さんと関係を持ってしまったら春千夜はどう思うだろう、なんてわたしはどうしても春千夜のことをすぐに考えてしまうらしい。今、わたしの虹彩に映っているのは灰谷さんだけど、それはただの映像としてしか認識していない。これから行われるであろうことを拒絶したい感情の裏には、春千夜がいる。

「まあ分かったところでオレが逃がすなんて思うなよ」

 先ほど話題に出たように、灰谷さんとのことは春千夜に一切話していない。なのに、場の空気が変わる少し前に偶然にも春千夜から短いメッセージが来ていた。人と食事中の手前、堂々と返信することは出来ず、ただどうしても「春千夜」と呼びたくなって名前だけをこっそり送信していた。送信された方はきっと奇妙に感じたと思う。その後から何度もメッセージが来ているのかさっきからずっと振動音が聞こえるけど、確かめることなんてもちろん出来ない。だって、何となくだけど灰谷さんは誰がこの振動音を響かせているのか、きっと気づいてる。

 光の欠片も存在しない深い夜にただただ飲み込まれていくように感じる。それでも、何年もずっと奥深くを彷徨っていた曖昧な感情が、明確な輪郭を形成してこの夜を必死に破こうとしていた。