いっしょに朝を迎えられることが特別な事だと知ったのは、いつだっただろう。
 白いカーテンの隙間から朝陽が差し込むような爽やかな朝とあどけないかわいらしい寝顔なんて、絶対にフィクションだけの世界だと思ってしまうほど寝起きの顔なんて24時間の中でいちばんブサイクだ。けど、筋肉しか無いのではないかと思わされる決して気持ち良くは無いけど心地好い腕枕と、夜には多分見れないやわらかく笑ってるその表情が、わたしをノンフィクションの世界に連れて行ってくれる。その時間があまりにも穏やか過ぎて大体もう一度まぶたを閉じてしまう。但し、ブサイクという現実は何も変わらない。おまけにそのブサイクを眺めているのは、メイクで飾り立てることなんてしなくても端正さが溢れ出ている顔面。少し心配になって同じようなうつくしい遺伝子と容貌を持っている竜胆くんに、恋人の寝起き顔についてどう思うか、ふたりだけの時にこっそり聞いたことがある。彼に「恋人」という存在がいるのかもいたことがあるのかも分からないけど、女性の寝起きを何度も見たことはあるのでは無いかと勝手に思っている。

「つーかちょっと待って。その前に兄貴がオマエの寝顔見てんの?」
「え、何でそんなに驚くの?」
「あー…いや、今までの兄貴って何となくだけど終わったらさっさといなくなるイメージだったから」
「…それってひどくない?」
「まあそんなもんだろ、しかも兄貴だし」
「兄弟揃ってひどい…」
「だからわざわざ女と一緒に朝までいて、しかも早く起きて寝顔見てるとか想像つかなかったわ」

 求めていた回答では決してなかったけど、不思議とわたしのこころは春の木漏れ日の下で日向ぼっこしてるみたいにあたたかくなった。自分の寝起きを見られるのは恥ずかしくて、脳が覚醒していたとしても二度寝のフリをしていたけど、わたしの三流芝居はいつもすぐに見破られていた。顔を隠そうと布団をかぶれば剥がされるし、反対側を向こうと動けば、骨盤に巻きつくようにされた力強い腕や絡められた長い脚がそれを阻む。わたしの抵抗はいつも無駄に終わっていたけど、そうして戯れ合うような時間は無駄なんかではなく、大切にしたいと思う時間だった。逆にわたしの方が早く起きたときは、無防備でかわいい寝顔をひとり占め出来る。寝起きで微睡みの中をまだ彷徨っているかのような無垢な表情と、短くゆっくりとしか紡がれない言葉にだって愛しさが生まれる。普通しか持ち合わせて生きてこなかった自分が、彼の特別になれているのだと分かった。

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 終わりの言葉を告げることが誠実だと分かったのは、数年後の事だった。
 まだ大人でも無い子どもで無い時だ。正直、今だって年齢と言う数字だけが大人を飾っているだけで昔憧れていた、なりたいと思っていた大人になんてなれていない。高校生から見たら、わたしなんてオバサンと言われてしまうかもしれないのに未だに自分の世代が世界の中心だなんて勘違いをしている。そう、あの時からわたしの中の時間は、まぶしかった思い出だけを美化することしか出来ず止まっているのかもしれない。

「オマエとは今日で終わりにする」

 喩えば、電球が消えそうな時にチカチカする現象だったり歯磨き粉がなかなか出て来てくれなくなったり、日常にありふれた消えるとか無くなるの前のそういう前兆みたいなものがあれば、まだ良かったのに。いや、全然良くはないけれど。傷つく準備が出来ているのと出来ていないのでは、傷跡が残る時間が違うような気がする。唐突に生み出された言葉に思考回路が追いつかなくて「え?」と聞き返すようなつまらない返事をしてしまった。蘭の連絡先は目の前で消されたし、わたしの連絡先も目の前で消された。残念でした電話番号くらいなら覚えてるけどね、と言える強さは生憎持ち合わせておらず、どうせ覚えている電話番号もそのうち使えなくなるのだろうと容易に想像出来た。

「うん…分かった」

 混乱している思考の片隅だけが冷静さを保っていたらしい。理由を聞くことはしなかった。それを聞いたところで何も解決するとは思えなかったからだ。何も考えず、喚いて責めることや泣いて縋ることが出来たらどれだけ楽だったのだろう。黙々と情報処理をしている脳が、余計な言葉を生まないようにとくちびるをきつく結ぶよう指示したらしい。わたしの目の前がただのつまらない景色になって暫くしてようやく、大きくひとつ息を吸い込めたような気がした。

 それから数年後、小学生の頃から仲良くしている古くからの友人とひさびさに食事をし、お互いの青い春のアルバムをゆっくりめくるように思い出話に花を咲かせていた。そこで、たまにニュースで聞く犯罪組織に蘭が所属しているという噂を聞いた。彼女がどこからそんな噂を拾ってきたのかは知らないけど、特に驚きはせず「へえ〜そうなんだ」とありふれた言葉を一定の音で淡々と返した。いつから自分の感情を誤魔化すのが上手になってしまったのだろう。

「でもさ、あの人と付き合ってた時がいちばんしあわせそうだったね」
「…そうかなあ」
「うん、見た目ちょっと迫力あった元カレだけどあの人と付き合ってる時のはすごいかわいかったよ」
「それってあの時以外はかわいくないってこと?」
「違うって〜!でもアレだね、の元カレが本当にヤバイとこにいるのか分かんないけど、」

 間接照明の灯りが映える落ち着いた店内で、赤ワインが入ったグラスを片手でゆらゆらと回しながら大人を味わうわたしたちだけど、話している内容は学生の頃と大して変わらない。過去や現在、未来の恋愛の話だとか、流行っている音楽やドラマやメイクの話。新たに増えたのは仕事の愚痴くらい。そこまで酔ってはいないけど、アルコールでテンションが高くなっている友人はおそらく何も意識せず、グラスに透けた赤ワインと同じような色の口紅をつけたくちびるで言葉を紡いだ。

「別れて良かったね」

 身体中のアルコールが蒸発するように抜けた気がした。その言葉が脳内でリフレインする。別れることで、そしてそれを曖昧にせず明確にすることで、わたしの今後の人生を優先してくれたのだと、ようやく分かった。もしかしたら都合の良い解釈かもしれない。そんなことをするような人では無いように見えるけど、そういうことをしてくれる人だと言うことは、わたしだけが分かっていれば良い。「そうだね」と返事をした4文字は、ぎこちなさや濁りなんてもの一切無く、店内に流れるジャズのような音楽や他のお客さんの声、食器が触れ合う音、すべてがBGMに感じるほど、真っ直ぐに響いた気がした。

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 そしてそれから数年経った今、わたしはようやくひとりでバーに行けるほど大人になった。初めて入るときは重厚に感じた扉も、ヒールの履いたパンプスを店内に踏み入れるときの足取りも今ではかなり軽くなったように感じる。ひとりで何か出来るようになると未だに大人になったと錯覚をしてしまったり、何かを誤魔化すためにお酒を飲むのも、まだ大人になりきれていない証明なのかもしれないけど、それでもわたしはわたしなりに今を満喫している。
 いつだったか、会社のつまらない飲み会を1次会で抜け出して、でも飲み足りないと思ってひとりでフラフラと迷子のように彷徨っていたところで出会ったバー。少し回ったアルコールのおかげで扉を開くことが出来た。ひとりの人も意外と多く、疎外感を感じないこともあり、それから不定期に訪れている。少し前まで夢見てた「バーで知り合う」だとか「隣の男性に1杯ごちそうになる」なんて話もこれまたわたしにとってフィクションだと知るのは存外早かった。何回かそのような光景を横目で見てきたのでノンフィクションだと言うことは理解出来たけど、あれはキラキラと主役のように輝いて生きている女性だけに生まれる、特別な物語なのだ。

 当然、今宵も会社帰りに寄ったいつものバーでそんな現象は起きず、下らない考えばかり浮かぶ脳を冷ますため、夜風にあたりながら特に行き先も決めずに歩いている。若いときは頑張って履いていた8cmの武器にも出来そうな華奢なヒールは、だんだんと低く太くなっていったように感じる。そんな風に足元を見ながら歩いていたからか、ふと顔を上げると夜ということを忘れてしまいそうなほど悠然と立つ東京のシンボルが、黒い空を引き立て役にするように橙を輝かせていた。夜の公園は静けさの中に不気味さを宿しているような気がして少し苦手に感じることもあったけど、ここまで明るいと逆にその輝きに負けそうになって自分を惨めに感じたくなるのか何だか目が熱くなる。芝公園4号地のこの場所は東京タワーをゴールにしてカーペットをひくように歩道があり、歩道の両脇には緑の絨毯の上にベンチがある。歩道も両脇のベンチもきっと自分たちしか見えていない恋人同士のために存在しているのだと思うほど、この景色は完成されているように見えた。脇役にもなれないエキストラが画面を壊してはいけない。当然ひとりで歩いているわたしは居心地が悪くなって踵を返そうとした。


「え………………あ、髪」
「ひさびさに会って開口一番がそれかよ」

 匂いというものは罪深いとさえ思う。虹彩を通して脳に映していた顔よりも、耳をくすぐるような声や言葉よりも、香りの方がずっと鮮明に記憶に残ってる。夜の冷たい風に乗せられた匂いが、懐かしさを孕みながら鼻腔を蕩かした。同時に映画のフィルムのように頭の中に過去の情景が流れ込んでくる。けど、わたしのふたつの目が映しているのは間違いなく現実だった。驚き過ぎると声が出なくなるというのは本当らしい。喉で言葉が止まっているような感覚がする。仮に出たとしても「何で?」だとか「どうして?」だとかそういう疑問しか出て来ないだろうし、その答えを聞いてどうしたいのかも分からない。

「オマエはオレじゃないとダメだろ」

 あれ、わたし声に出してたっけ?まぶたを閉じたくなるような心地好い声が、心臓をくすぐる。わたしを何度も二度寝させたずるい声だ。あの頃からは想像出来なかった品の良いスーツ姿や身に纏っている装飾品の数々が、別世界に住んでいる人間だと言うことをより物語っている。友人から以前聞いたあの噂はどうやら本当だったらしい。見た目はすっかり変わってしまったというのに、当然面影はある。年を重ねても全く衰えないその体躯も、見惚れそうになるほどのその容貌も、今この状態を形成しているすべてが過去の思い出と繋がろうとしていて、せっかく美化していた思い出が思い出ではなくなってしまう。

「…そんなことないよ、明日今付き合ってる人と結婚するの。入籍する」

 そう、明日は役所に行って婚姻届を提出しひとりの男性といっしょに生きていく最初の日。そして今日は、おひとりさま最後の日。だからと言って特別な日だなんて思わないけど、いつかこうしてひとりでフラフラと飲み歩く日を自由という名の贅沢だと思う日が来るのかもしれない。そう思ってしまうのは今回の結婚を心のどこかで生きていくための最後の手段だと思っているからだろうか。年齢を考えて、今後稼ぐであろう生涯年収や親、自分の老後など、遠い未来だと思っていた近くにやってくる現実を考えた時、わたしはひとりで生き抜いていく自信がなかった。今更白馬の王子様なんて言う気はもちろん無いけど、自然な出会いなんていう宝くじで一等が当たるほどの少ない確率から、更に恋愛が出来るという不可能に近い奇跡を待つ時間も余裕もわたしには無く、勢いで始めたマッチングアプリで出会った相手と交際半年で結婚することになった。

「絶対無理、今すぐやめろ」
「無理じゃないよ、わたし蘭じゃなくても大丈夫」
「オレが無理。つーかそもそも大丈夫って言葉がおかしいことに気づけよ」

 悪い人では無い、結婚の決め手はそれだけだ。恐らく相手もそんな感じだと思う。「自分よりしあわせになって欲しい人」という定義には残念ながらお互い当てはまらないし、お互いそのことをこれまた残念ながら認識している。それでも手は繋げるしキスだって抱き合うことだって夜を紡ぐことだって出来る。到底「愛」なんて言う最早まぼろしみたいな言葉では無く「作業」という、感情が全く生まれない行為になっているのかもしれないけど、それでもお互いある程度のしあわせをきっと演じることは出来ている。

「オマエがひとりで酒飲んでる時って迷ってる時だろ」
「え…ちょ、待って。何で飲んでたこと…え、ストーカー?」
「人聞き悪ぃな〜」
「もしかして…結婚のことも知ってた?」

 世の女性だけでなく蝶も花も、この世のすべてを虜にしてしまいそうなほどの悪戯な笑みが答えのようだった。それに加えて、わたしがひとりで飲みたい時に法則性があることをたった今、知った。そうだった、わたしが知らないわたしのことを知ってくれるのは蘭だけだった。蘭と別れたあと、わたしも人並みに恋をしたり、恋をされたりなんて時間を幾度か過ごした。けど、まるでおままごとみたいな関係にしかなれなくて、かなしむなんて感情も抱かないまま呆気なく終わっていったから、思い出の欠片も何も残っていない。

「あの時から変わらない、相変わらず勝手なことばっかり言う」
「オレはいつだって自分が正しいと思ってることしかしねぇし言わねぇよ」
「…知ってる、だからあの時、わたしがこういう普通の人生を送れるようにしてくれたんでしょ?」
「あれが正解だったと今でも思ってるし後悔もしたことねぇよ」
「じゃあ、なんで」
「今と昔じゃ状況が違う、オレもオマエもな」

 距離が縮まる度に匂いが濃くなっていく。どこも触れられていないというのに、指1本でさえ動かせる気がしない。呼吸の仕方を忘れたような錯覚に陥って苦しくなったのは、息ではなく心臓だった。

「どうしたいか、オマエが選べ」

 選べというくせに、選択肢なんて最初から存在してないみたいに小指だけを絡めてくる。繋がった小指が、過去のわたしたちと今のわたしたちを結んでいくようだ。まばたきするのが勿体なく感じてしまうほど、深い夜を思わせる紫の双眸がわたしを手繰り寄せるように真っ直ぐ射抜く。この状況に抗うように残していた理性は、小指の温度を共有したことで見事に溶かされてしまった。元々剥がれやすいメッキのような結婚だったのだから、残骸がどうなろうと知ったこっちゃない。誰かに軽蔑されても良い、世間体だとか慰謝料だとか、そんなことどうでも良い。すべてをどうでも良いと思えるほどの感情が残っていた自分が、愛おしくさえ感じた。わたしはまだ、他人も自分も愛せるのだ。

「わたしのこと思い出にしないで、蘭とのこと思い出にしたくない」

 この夜に飲み込まれず、まぶしい朝を迎えれば、わたしは法的に他の人のモノになる。あと少し、数時間経てばつまらないけど堅実で平凡で平和な未来が約束されるというのに、太陽が地平線に現れるのをただ大人しく願うことは残念ながら出来なかった。東京タワーに繋がるカーペットみたいな歩道の真ん中で重なるくちづけが、まるで物語の主役になれたかと感じさせてくれる。つまらないわたしを特別にしてくれるのは、いつだってたったひとり。
 朝のあなたに会える夜を、わたしは選んだ。