せまい部屋の窓を額縁にして訪れる黄昏時が、あと少ししかいっしょにいれないという侘しさのようなものを同時に運んでくる。部屋の主役とでも言うように堂々と存在する、ふたり分の重さを支えるこのソファーはそろそろ買い替え時だ。そんなくたびれかけたソファーの上で、後ろから伸びてくる長い腕がベルトみたいにわたしの腰回りを固定するから、薄くてしっかりしている胸板を背もたれにしなきゃいけない。ただでさえ窮屈な部屋の、更に彼の脚の間のちいさな世界におさまらざるを得ないわたしだけど、溶け込むように居心地が良いから不思議だ。むしろ自分の部屋の中でいちばん落ち着く空間になってしまったと言っても過言では無いかもしれない。いつからか、この部屋は彼がいないと完成されないようになってしまった。特に何かをするわけでもなく、ただ時間だけが過ぎていく。そんなひとりだと勿体ないと思えることでも、ふたりだと宝物にしたいくらい大切なものになる。
「蘭ちゃん知ってた?今日はニャンニャンニャンで猫の日なんだよ」
「ナンダソレ」
「でね、明日ここ行きたい。期間限定の猫ちゃん食パン買いに行きたい」
「明日じゃ猫の日終わってんだろ」
「ニャンニャンミャーで明日も猫の日です」
「まぁオマエが行きてぇならいーけど」
BGMと化していた夕方のテレビのニュース特集をふと見ながら、そうえいば今日が猫の日だったことを思い出す。特集でやたらと猫のスイーツ特集をやっていたから何故だろうと思ったけど、祝日でもなんでもない今日は一部の猫ファンの間ではイベントみたいな盛り上がりを見せているようだった。愛玩動物の代表的存在でもある猫の特別さがよく分かる。特に今まで意識したことはなかったし興味も無かったけど、単純に食パン自体が美味しそうで惹かれてしまった。猫の顔の形だからと言って、食べるときに罪悪感は多分抱かない。
「今日このあと予定あるんだよね?明日の待ち合わせは少し遅い方が良い?」
「そーだなぁ」
特別でも何でもない今日というふたりで過ごした時間にバイバイするのはさみしいけど、明日の約束がわたしを少し励ましてくれる。不意に骨ばった大きな手で頭を撫でられて「ん?」と顔を下から覗き込むと、もう片方の手で顎を固定されて言葉の代わりにくちびるが泡雪のようにやわらかく落ちてきた。「そろそろ行くわ」とあっさり言うくせに、重ねてきたくちびるに名残惜しさを孕ませていたところが相変わらずズルイ。
「横浜だっけ?1回家帰ってから行くの?」
「そ、着替えなきゃなんねーし」
「ふーん…」
短くて冷たい廊下を通って、あっという間に玄関に着いてしまう。別にいつもと変わらない、何回もこうして見送ったことがあるのに、こんなにも不安な思いを抱くのは冬特有の、どこかさみしい澄み切った外の空気のせいだろうか。暖房がきいていない玄関は少しだけ寒いという言い訳を思考の片隅に用意して、引き止めたいわけではないけれど思いっきり強く抱きついた。わたしから抱きつくことなんて滅多に無いから、少し驚いたような、でもそこにほんのひとさじの嬉々とした感情が宿ったような表情と声色が降り注ぐ。ふわりと香るまぶたを閉じたくなるようなこのニオイを、明日また会う時まで記憶しておきたい。それを子守唄代わりに今宵は眠りたい。
「…どーした?」
「なんか、なんとなく」
「そんなことされると行けなくなんなぁ」
「ウソつき。わたしが行かないでって言っても行くでしょ?」
「よく分かってんじゃん」
頭の上に乗せられた、ちいさな子どもをあやすような大きい手は、やさしさの裏に残酷さが隠れている。だって、余計に離れ辛くなってしまうじゃないか。玄関の段差のおかげで少しだけ近づいた距離が、もう1回互いのくちびるを引き合わせてくれた。じんわりと生まれる熱が、不安を少しだけ埋めてくれたような気がする。けど、くちびるが離れるとまたすぐに冷たくなって、無意識に上唇と下唇をきゅっと結ぶように閉じた。
「寒ぃからここで良い」
「うん、もう外暗いから気をつけてね」
「誰に言ってんだよ、オマエも鍵ちゃんと閉めとけよ」
「分かってるって」
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉が開くと、冷たい外気が隙間から流れ込んで肺に入ってくる。いつもは玄関と外の境界線ギリギリまで立って扉から顔を覗かせながら、スタイルの良い体躯を見えなくなるまで見送っているけど、今夜はしんしんと雪が降りそうなほど寒い。ひとりになった今は暖房という人工的な機械に頼るしかないので、鍵を閉めて足早に部屋に戻ることにした。扉の閉まる音がやたらと重く響いたのは気にしない。
フローリングの床は相変わらず冷たくて、急いでソファーの上に乗る。さっきまでふたりで形成していた温もりは、最初から存在なんてしていなかったみたいに消えていた。少しさみしくなったけど、座っていた痕跡がまだ僅かに残っていたのでそこにゆっくりと重なるように座った。ファブリックはどことなく色褪せていて、中のウレタンが意味を持たないことになる日も近そうだ。
△▼△
翌日の2月23日、アナログの針もデジタルの数字も待ち合わせ時間を示しているけど、彼が現れることはなかった。眼球を刺すように襲う無慈悲な程まぶしい冬の夕陽が、この世のおわりを思わせるほどうつくしい茜空を演出している。時が進んでも、馬鹿みたいにずっと待ってた。だって、遅刻することはあっても来なかったことは一度もない。まぶたを一度閉じて開けたらきっと目の前にいるとか、そういう無意味な期待を何回繰り返したことだろう。時間が経つにつれて、まるでこの世界に自分は存在しておらず人の行き交う様子を俯瞰して見る透明人間みたいなものになってしまったのかと錯覚する。携帯にも何度か連絡してみたけど繋がらなかった。もしかして事故にでも遭ったのだろうかと心配になって弟の竜胆くんに連絡をしてみたけど、同じく繋がることはなく、聞こえてくるのは虚無を感じさせるコール音のみ。ありとあらゆる疑問や不安でいっぱいの頭に思考回路なんてものは存在しておらず、無意識に目的のパン屋へと足が向いていた。お目当ての猫ちゃん食パンどころか他の商品も売り切れていて、すでに閉店の準備をしているところだった。履いていた靴に虚しさという足枷をつけ、ゴールも分からずに街を彷徨う。
もしかしたらフラれてしまったのかもという考えがすぐに浮かんだけど、そうではないと本能がそれを否定した。自惚れかもしれないけど、そんな風に簡単に終わる時間の過ごし方はしていない。けど、わたしたちは生きてきた世界も生きている世界も違う。六本木なんて大人でまぶしい街なんて自分には似合わないから、ほとんど行った事もない。共通の友人もいないから、情報を全く得られなかった。ひとりで夜の六本木には来るなと言われていたけど、どうしても情報が欲しくて、探偵でも何でも無いのに彼がよく行くと言っていたお店や場所に行ってみたりした。もちろんドラマや漫画のように欲しい情報が入るなんてことはなく、歩き疲れて六本木通りにあるカフェチェーン店に入った。そこでたまたま隣に座っていたふたり組の声が耳に入る。華やかなメイクやファッションで飾り立てられている、自分とは何もかもが違う女の人たちの会話に、全神経が熱くなったのか冷たくなったのか分からない感覚を覚えた。「灰谷兄弟、捕まったらしいよ!」「えーショックぅ」「六本木来る意味無くなぁい?」暫くまばたきすることさえ忘れていたと思う。気づいたら隣の女の人たちはもういなかった。逮捕されたという事実を飲み込めないまま、わたしはコーヒーに映った自分の顔をぼんやり見つめる。そんな自分を消すように、味さえ感じなくなってしまったコーヒーを喉に流し込んだ。なにひとつ満たされず、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。焦燥感のようなものが血液に混じりながら全身を駆けめぐっているようだった。
△▼△
あの日から、パズルのピースが欠けたみたいな毎日で、わたしの日常は完成されない日々が続いた。自分がどう生きているのかも分からないまま今を生きている。今日もうっかり食材を多めに買ってしまった。真っ白な布にコーヒーを溢したのと同じくらい、染みついた習慣もなかなか抜けない。ひとりでは食べきれない量をつい買っては、腐らせてしまわないように冷凍庫に避難させる。料理をして食材を使ったとしても食べ切れないから、また凍結させる。そんなことを繰り返していたら冷凍庫はいつの間にかパンパンになっていた。いっそのこと、このこころも冷凍庫で凍結させたい。そしたら腐敗せずにいられるだろうか。しあわせを感じていた瞬間を思い出として美しいまま、いつまでも保存しておけるのだろうか。
玄関に入り、手首を圧迫していたスーパーの買い物袋を置いて靴を脱ごうとしたところ、脚が疲れていたのか前のめりに転んで廊下に膝をついた。誰にも見られていないとは言え、子どもでも無いのに倒れるように転んだ自分に無駄な羞恥心と哀感が湧いてきて、そのまま廊下に座り込んでしまう。じゃがいもがスーパーの袋から逃げるように脱走して無造作に廊下に転がっていた。せめてもの癒やしにと買ったアイスクリームはスペースがなくなりつつある冷凍庫に早く入れないと溶けちゃう。
「…?」
後ろからやさしい幻聴が聞こえた。ついにわたしの脳内はまぼろしを生み出すようになってしまったらしい。そんな自分自身がこわくなって情けなくなって、声がする方向へ振り向くどころか指ひとつ動かすことさえ出来なかった。相変わらずわたしの視界に映っているのは短い廊下に転がっているじゃがいもとスーパーの袋から中途半端にはみ出た食材たち。わたしの手料理を蘭ちゃんが食べてくれるのを見るのが好きだったから、今でもふたりで過ごした過去の日々に浸るようにちゃんと自炊をしていた。けど、そんなわたしを嘲笑するかのように食材が散らばっている。惨めさの象徴みたいな光景だ。
「おい、大丈夫か?具合悪ぃの?それとも誰かになんかされたか?」
肩に触れられてようやくリアルだということを認識した。冬が終わり、長い眠りから目覚めた花のような感覚を覚える。まぼろしなんて曖昧なものではなく、間違いなく現実だった。唯一存在しているこの部屋の合鍵で扉が開く音は聞こえなかったのに、ひさびさに聞く声は耳殻をなめらかに通り、うつくしい存在を認識させる良い香りは鼻腔をくすぐる。骨張った細くて長い指はわたしの肩にやわらかく触れて、下がっている眉は今まで見たことないくらい更に下がっている。虹彩はゆらゆらと揺れていて、わたしの情けない顔が投影されていた。朧気に映っていた目の前の輪郭が、ゆっくりと鮮明になってゆく。
「…蘭、ちゃん」
「ほら、とりあえず部屋ん中入んぞ」
「…っ、蘭ちゃん…!!」
「…?…あー…そーだよなー、犯人オレだな」
そうだよ、わたしをこんなにした犯人はあなたです。と言わんばかりに蘭ちゃんの名前を呼んだら、今までどこに存在していたのかと思うくらいの水分がふたつの目から溢れてきた。頭をぐりぐりと蘭ちゃんの胸に押しつけて、触れただけで生地の質の良さが分かる服に鼻水を思いっきりつけてやろうかと思ったけど、普段喧嘩ばかりしている手からは想像出来ないほど繊細な手つきでわたしの頭を撫でるから、鼻水をつけるのはやめることにした。ガラスの靴を履かせてもらえるシンデレラとは逆で、たくさん歩いて底が減ってきた靴を脱がせてくれた蘭ちゃんは、そのままわたしを横抱きにして、相変わらずくたびれているファブリックソファーの上にゆっくりおろしてくれた。
「待ってろ、今なんか淹れてやっから」
え?蘭ちゃんが淹れるって何を?火使えるの?お湯沸かせる?なんて馬鹿みたいな事を考えられる程には思考回路が復活したらしい。転がっていたじゃがいもを拾ってせまいキッチンに立つ蘭ちゃんが違和感過ぎて、やっぱりまぼろし?なんて思ってしまう。「紅茶だっけ?つーかどこにあんだよ」なんて言いながら上の棚を探している蘭ちゃんを見て、どうしてかわからないけどまた目に映る世界がじんわりと滲んでぼやけてくる。
「そんなの要らない。早くこっち来てくんなきゃヤダ」
かわいい女の子やお姫様にしか許されないようなわがままを言葉にすると、ようやく見つけてくれたであろうアールグレイの茶葉が入った瓶を置いて、すぐにこちらに来てくれた。歩いてくる蘭ちゃんに向かってわたしが何も言わずに両手を伸ばすと「ん」と言いながら手を握って、ソファーに座ってすぐにわたしがいちばん落ち着く空間を作ってくれる。長い脚の間のちいさな世界におさまって、最後に会った時は背中を預けていた胸に顔を埋める。蘭ちゃんの心臓の音がトクトクと聴こえて、微睡みを誘うように心地好い。目の前に生きて存在していることを確かめるように、ぎゅうっと抱きつく。
「オマエ少し痩せたなぁ」
「分かんない、食欲は確かに無かったけど」
「じゃあ明日、前言ってたパン買い行く?」
「わざと言ってる?猫の日の期間限定だからもう終わっちゃったもん」
「…あ、やべ」
せっかく乾いてきた下まつ毛の間に、水分がまたじわじわと滲み出してきた。そんなわたしの様子にすぐに気づいたのか、一定のリズムでわたしの頭を撫でる。どうして人間は苦しいときや悲しいときに頭や背中を撫でられると落ち着くのか全く分からなかったけど、まさかその答えがこんな場面で明瞭になるとは思わなかった。リズムに合わせるように呼吸が落ち着いて眠たくなるけど、眠ってしまったら夢になってしまうと思ってまぶたを閉じることは出来なかった。
「このソファーだって買い替えたくて捨てたいのに重くて運べないし」
「後で運んでやっから」
「いつもつい材料買いすぎてご飯作り過ぎて余って、でも誰も食べてくれないし」
「オレ今日はすげぇ腹減ってる」
「泣いても誰も抱き締めてくれないし」
「…誰かの前で泣いたりしてねーよな?」
「泣いて、ない」
「ならいーけど」
「何が良いの?何でちょっと笑うの?」
「オマエを泣かせられんのも慰められんのもオレだけだろ?」
指の腹で涙を拭うように頬に触れ、指先が耳に触れる。耳の形に沿うように髪をかけられると、さらけ出された頬と同じように、隠れていた感情がすべて露わになってしまったように感じて何だか少し恥ずかしい。否定も肯定もしない代わりに、思いっきり抱きつく。細身の骨格と程よく筋肉がついている身体は、ところどころに骨を感じて抱き心地が悪いのに、不思議と離れたくない。弱いわたしの力ではあり得ないだろうけど、きっとこのまま強く抱き締めて骨を折ってしまったとしても、強く絞め殺してしまったとしても、きっと何も言わずに甘受してくれる。自意識過剰なその自信は、安堵を交えたような笑い声が耳に短く落とされたことで事実になったような気がした。
「蘭ちゃんもぎゅってして」
「してんじゃん」
「もっと」
「オマエの骨折れる」
「良い」
「だーめ、オマエが痛いとオレがなんかヤダ」
「じゃあ…わたしがつらかったりするのは良いわけ?」
「怒ってんの?」
「怒ってはないけど、」
そこから先の言葉を生むことは出来なかった。言葉を飲み込むことで、涙をこれ以上落とさない方を選択した。けど、その選択は許さないというように、わたしの両頬を包み込んで強引に視線を重ねさせられる。わたしの表情を映す鏡みたいなパープルがかった双眸から逃げることも、飲み込んだ言葉を無かったことにすることも、残念ながら許されないようだ。それなのに注がれる表情が今まで見たことないくらい、やさしくてかなしくてさみしくていとしい。感情が整理出来ていないまま、自分でも何を言ってるのかよく分からなくなったし鼻水が混じった汚い声で吐露したけど、最後までちゃんと聞いてくれたことが嬉しくて、少しだけ頭の中がクリアになったような気がした。蘭ちゃんが取ってくれたティッシュで遠慮なく鼻をかむと、形の良いくちびるの端を上げて、楽しそうにしてる表情に遭遇する。
「ひどい、なんでわたしがこんなに泣いてるのにさっきから笑ってるの?」
「ん〜?そーだなぁ、帰って来たなと思って」
恐らく何も考えずに落とされたであろう、後に続いた「落ち着く」と言う言葉が、空気に馴染むように自然に生み出されていて、何だかすごく嬉しかった。蘭ちゃんにとっては道端に落ちてる石ころみたいに何でもない言葉だったかもしれないけど、わたしにとってはダイヤモンドよりまぶしくて大事にしたい言葉だった。存在してもしなくても誰にも何にも影響を与えない無色透明みたいな存在だと思い込んでいた最近の自分を、この人のために大切にしたいと思えた。
「オレは多分この先もこうやって生きてくと思う」
「うん、分かってる」
「でも何があっても絶対オマエんとこに戻ってくるから、待ってろ」
「…待てないって言ったら」
「オレ死んじゃうかも〜」
「ダメ」
「だから待ってろって」
わたしは多分、これから先何度もこういう思いをすることになるんだと思う。心配でさみしくて、枕を濡らしては翌日に目が腫れたり、まぶたを閉じても夜から朝になる瞬間を感じてしまう日々がきっと続く。そんな思いをすることが死ぬことよりつらいことだと分かっていても、そんな思いをわたしにさせることが薄情だと理解していても、それでも離れるという選択肢はお互いに存在していなかった。ひとつの共通する覚悟をふたりで持つことが、この先の未来を共に生きていくという人生に繋がっていく。
「蘭ちゃん」
「ん?」
「おかえり」
「…ただいま」
行ってらっしゃいを言ったら必ずおかえりを言える、行ってきますと言われたらただいまと言ってもらえる。世間では特別でも何でもないこの言葉の逢瀬を、わたしは生涯大切にして生きていきたい。
