太陽はすっかり上まで昇りきり、時計の針は2本とも真上を指しそうになっていた。ようやく起きてきた均整の取れた体躯の持ち主は、まだ夢の中を彷徨っているかのようにゆったりとした足取りで洗面所へ向かう。少し前に起きてキッチンでコーヒーを淹れていたわたしが「おはよう」と声を掛けると短く「…はよ」と眠そうにしながらもいつもちゃんと挨拶を返してくれるのが、なんだかかわいく思えてうれしくなる。ふと、ベッドルームの扉が少し開いていて、ぐちゃぐちゃになった白いシルクのシーツが視界の端に入った。白波みたいに皺が寄って乱れているシーツが、昨夜重ねた情事を鮮明に思い出させてくるから顔中の血液が沸騰しそうになるくらい熱くなる。そんな不埒な脳内ビジョンをかき消すように、カップの中のコーヒーをスプーンでかき混ぜていると、洗面所から戻ってきたらしい蘭ちゃんがいきなり後ろから体重を預けるように抱き締めてきた。

「良いニオイする」
「コーヒーのニオイ?目覚めた?」
「んー…のニオイ」
「ちょ、嗅がないで。っていうか蘭ちゃんも同じシャンプーじゃん」
「そういう意味じゃねーの」

 頭にはてなを浮かべていると、顎を掴まれてモーニングを食べるみたいにキスをされた。満足気な顔をした蘭ちゃんは部屋のソファーに腰掛けて、大きな伸びと欠伸をする。わたしも後を追うように隣に腰をおろして、今日のお昼ご飯どうしようかなと考えながら、テレビに映るザ・女子アナ的なキレイめの格好をしたお姉さんのお天気情報をぼんやり眺めていた。今から作るとしたらパスタ、オムライス、炒飯とか簡単なものになるから外に食べに行ったほうが良いかなとかカップの縁をなぞりながらぼんやり考えていると、頬を指でつつかれる。

ー、髪やって」
「ん?ハイハイ、じゃあ後ろ向いて」
「違う違う」
「え?」
「前からやって?」

 予想外の言葉に空気を切るようにまばたきを2回程繰り返してしまった。蘭ちゃんの瞳孔にわたしの間抜けな表情が映ってる。今まで何回か蘭ちゃんのヘアアレンジをしたことはあるけど、真正面からやった事なんてなかったから、驚きが隠せなかった。いつもの三つ編みだしなんの不便も無いかと思惟することをやめ、蘭ちゃんの前に移動したのがすべての始まりであり終わりであったのかもしれない。緩いあぐら座りしているけど、蘭ちゃんの長い脚が邪魔でわたしはどうやって座れば良いのかと躊躇っていると「ほらほらもっと近づかねぇと届かねーぞ」と自分の膝をぽんぽん叩きながら、その表情には蠱惑的な笑みを浮かべている。一瞬ですべてを察知出来たけど、絶対に無理だと拒絶の言葉を伝えた。

「え、やだよ。重いでしょ?」
「重くねーよ、ほらこっち来ーい」

 わたしのなにもかもを受け入れてくれそうな長い両腕を広げ、先程までとは打って変わって無邪気な笑み見せてくるので、なんとなく逃げられなくなって、仕方なく膝の上に乗って跨った。蘭ちゃんはモデルみたいな体型をしているけど、わたしは典型的な標準普通体型。わたしが乗ったら重すぎて脚が痺れてしまうのでは?とか1分も持たないのではないかと憂慮してしまう。全体重をかけるのには躊躇ってしまい、少し腰を浮かせていると、骨盤らへんをいきなり掴まれグッと膝の上に下ろされた。その衝動に備えるため、蘭ちゃんの肩に手をつくと思いのほか距離が近づく。彫刻みたいにうつくしく形成された端正な顔立ちに、今更ながら鼓動が高まってしまったので慌てて視線を逸らしてしまった。

「お、重いよね?」
「いや、つーか前から思ってたけどむしろオマエ細すぎてたまに骨折りそうになる」
「え、こわいこと言わないで」

 そのまま引き寄せられて抱っこされるみたいに抱き締められると、あたたかくて微睡んでしまいそうになる。けど、早く下りてこの重みから解放してあげたいし不本意ながらも生まれてしまった罪悪感からも解放されたいので、胸を押して少し距離を取る。絆されてしまいそうになった自分を誤魔化すため「始めます!」と言って蘭ちゃんの絹糸みたいにやわらかい髪にふわりと触れた。わたしの心情なんてお見通しとでも言うかのようにご満悦な表情がわたしを凝然として見るから、なんだかこころがくすぐったい。
 蘭ちゃんの髪はいつ見ても触れても恍惚してしまうほどキレイで、特別なケアをしてるのか聞けば特に何もしていないと言うから羨望を通り越して少し嫉妬してしまう。そんな蘭ちゃんの隣にいても大丈夫なように、トリートメントやオイルを使って保湿を頑張っているわたしが少しかなしいし偶に虚しくもなる。でも「オレはの髪、好きだけどなぁ」って言って骨張った大きな手でいつも髪をやさしく撫でてくれるから、それならまあいっかと思えるわたしは楽観的なのかもしれない。

「あの、そんな見ないで」
「んー、無理」
「見られると手が緊張するの」

 一生懸命三つ編みをしているわたしの手は、緊張で揺動しそうになる。恥ずかしいのと照れるのと、色々な感情が交錯してどんな表情をすれば良いのか迷子になってしまう。そんなわたしのゆらゆらとしたこころを揶揄うように、蘭ちゃんの大きい手がわたしの頬を包み込んだ。下から眺めるように見てくるそのまなざしにつかまってしまったら、きっと何かが終わりだと本能が警鐘を鳴らしている。気づかないフリをして、淡々と三つ編みを続けていく。

「ちょっと遅いけど今日のお昼ご飯何が良い?」
「作ってくれんの?」
「うん、でも材料あんまり無いから一緒に買いに行ってくれる?」
「仕方ねーな」

 口ではそんな風に言ってるけど、いつもちゃんと付き合ってくれるし何なら結構楽しそうに一緒に回ってくれる。スーパーにあまり行かないからか目に入るものが色々新鮮らしくて、たまにシェフでも主婦でもないただ自炊するレベルのわたしがどう料理すれば良いのか分からないような食材や余計な食材をカゴに入れたりもしてくる。帰りはびっくりするくらい似合わないスーパーの袋だって持ってくれるし、空いたもう片方の手とわたしの手は当たり前みたいにいつも自然に繋がる。決して派手じゃないけど、蘭ちゃんとそうやって過ごすふつうの時間を、わたしは宝物みたいに大事にしてる。

「できた!意外と前からやったほうがキレイに出来るかも」
「だろー?」

 出来上がったふたつの三つ編みに満足していると「サンキュ」の言葉と共に、いつの間にか後頭部に回っていた手がわたしと蘭ちゃんの距離をゼロにさせた。かわいらしいリップ音が何度も部屋に響き、くちびるだけじゃなくて頬や耳、首や鎖骨などキスを落とされたところがゆっくりと熱を持っていく。反射的に後ろに下がろうとすると腰に回された手が力強くそれを阻んできた。それなのに頬を撫でる手はやさしすぎて、その対照的な動きに翻弄されて眩暈がしそうになる。

「んー、くすぐったいよ」
「やめてほしーならやめるけど?」
「…別にやめてほしいとは言ってない」

 生まれてしまった熱さと脈打つ心臓を隠すように首に絡みついて抱きつくと、子どもをあやすみたいにゆっくりと頭を撫でられた。一定のそのリズムがあまりに心地よくて、そのまま離れられなくなる。

は甘えただなぁ」
「先に甘えてきたの今日は蘭ちゃんじゃん」
「じゃあ、おあいこ」

 情欲を孕んだ虹彩に逆らうことなんて出来ず、そっと瞼を閉じた。心臓がとろけそうな程のキスから響く厭らしい水音も、その隙間からこぼれ落ちるあまい吐息も、何もかもが理性を刺激して惑わしてくる。いつの間にか服の中に侵入してきた手が、愛しむように背中を撫でてくるから、熱が波紋するみたいに広がっていくのを止めることが出来ない。

「あの…このまま?」
「そ、いやじゃねーだろ?」

 直接心臓に触れるみたいにあまく低く耳元で囁くから、催眠術にでも掛かったみたいに誘導されてしまう。その問いに対する答えをわたしがちゃんと述べるまで、きっと蘭ちゃんは何もしてくれない。艷やかに濡れてしまったくちびるを親指で撫でたり、すでに熱を持った耳朶をやわやわとつまんだり、まるで悪戯するみたいにこちらの様子を窺ってくる。

「やじゃない…」

 言葉という明確なものにすると何だかわたしが強請ってるみたいに思わされて、頬に含羞の色を浮かべてしまう。紡いだ言葉はデクレッシェンド気味になってしまった。それでもわたしの回答に満足したのか、かわいらしいくちづけが流星群みたいにたくさん降り注ぐ。そうかと思えば鎖骨をやんわりと噛まれて、きっとこのまま骨の髄まで食べられるみたいに愛し合うのだろうと予感してしまった。

「知ってる」

 嬉々とした声色に対して、じゃあ聞かないでよ、なんて言う余裕も無いほど早くふたつのくちびるが重なる。お互いのくちびるの輪郭が曖昧になるほど強く、濃厚で、婬情に溢れたくちづけに脳が朦朧としてくる。
 置き去りにしたさわやかな朝の代わりに、今日はあまったるい白昼を過ごすことになるのだろう。