ピーエムナイン。「もう21時」という人間と「まだ21時」という人間に分かれそうな時間。東京を形成している人間たちは、自分を含め後者のタイプがきっと多い。部屋のガラス張りの大きな窓から見える光景は、夜に飲まれることもなく人工の光が眩しいくらい散りばめられている。そのせいで自然の星が見えないことなんて一切気にしないのが、東京の人間は冷たいと言われる理由のひとつでは無いかと、密かに思っていた。
初めてこの部屋に来た人間は、東京の夜景が一望出来るこの場所に感動したり興奮したりするけど、どんなに良い眺望でも特別でなく当たり前になってしまえば何の感情も抱かなくなる。夜の東京を背景に何も考えずただDJブースで回したり、部屋に呼んだ連中と適当に飲み食いしたりバカ騒ぎする時間も、ここから見える景色と同じで特別だと思ってるわけじゃない。けど、無いと少し物足りない。だから今宵も部屋に何人か呼んで夜を楽しむ予定だった。
「蘭ちゃんのバカ!バカバカ!」
「あー、んな怒んなって」
自分を境界線のようにして繰り広げられる口喧嘩。意識をしたことは無いけど、そういえば口喧嘩をこんなに間近で見るなんて滅多に無いような気がする。自分が喧嘩をするとしたら身体を使う喧嘩だし、自分の周りで行われる喧嘩も同様だ。だからと言って、別に口喧嘩を見たいわけでは無い。いや、目の前で見せられているのは口喧嘩というよりがただ怒って、兄貴はそれを適当に聞いてるだけって感じもするけど。何でも良いけどオレを物理的に挟まないで欲しい。喧嘩ならせめて兄貴の部屋でやってくれ。ただ、ついついこういった空気を読んでしまう心の中のオレが言ってる。「今は何も言うな、ヘタすると巻き込まれんぞ」と。なのでとりあえず静観することにした。
30分ほど前のことだ。リビングにあるL字ソファーに座りながらとテレビゲームをしていたところに、出掛けていた兄貴が帰って来た。兄貴はと夜に待ち合わせをするのをあまり好まない。明確に言わないけど、多分その道中や待たせている間にナンパされたり変な連中に絡まれたり、に何かあったら嫌なんだと思う。だから、には明るい時間にここに来させておくのが安心するらしい。溺愛のようなこの思考と行動に、兄貴もも自覚が無いのがまた面白い。
今日たまたま家にいたオレは、まさかこんな修羅場に遭遇するなんて思わず、いつものようにとマリカー対戦をしていた。に無理矢理選ばされたキノピオで、華麗なドリフトをキメてはしゃいでいたのんきなあの頃にタイムリープしたい。
「蘭ちゃんお帰りなさ…え、服に血ついてるよ!」
「あー…どこ?」
「袖と腕のところ…大丈夫?怪我したの?」
「いや、オレのじゃなくて多分相手の」
予定していた時間より少し遅く帰ってきた兄貴は、長い髪がいつもより少しだけ乱れていて、白い服には模様みたいに返り血のようなものが付着していた。明らかに喧嘩帰りということが素人でもよく分かる。ドアの音が聞こえた瞬間、子犬のように反応して嬉々とした表情を見せたの顔面は、兄貴の姿を見た瞬間凍りつくように青ざめていった。あー、あのシャツ8万くらいしたのに、あんなに血ついたらクリーニングでも微妙そうだな。とかオレはボーっと考えていたら、隣にいたの顔が今度は青から赤へ変化し始めた。そういや昔、理科の授業の酸性だかアルカリ性だかでそんな感じに変わる紙みたいのあったな、なんて考えてた一瞬の間に部屋の中の空気が変わっていた。は兄貴の血じゃないと分かって一瞬安堵した様子を見せたものの、表情は珍しく険しい。のそんな表情に兄貴はすぐ気づいたのか、とは少し距離を取るようにオレの隣に腰掛けた。ここで兄貴がオレの隣に座るなんて余計な事をしてくれたから、今の「兄貴・オレ・」という謎の並びが出来上がってしまった。
そして今に至る。
「だって、もうあまり喧嘩しないでねって何度も言ってるのに」
「オレだってしたくてしてるワケじゃねーし。あっちから来んだから仕方ねーだろ」
「たまに怪我して帰ってくるから心配なの」
あーハイハイ。そこら辺の相手なら余裕で勝てんのにに心配してもらいたくてワザと攻撃食らって帰ってくる時あるもんな。誰かに甘えたりする兄貴なんて今まで見たことない。といる兄貴を見てると今まで知らなかった一面が見れるのが実はちょっと面白いと思ってる。んな事言ったら殺されるから言わねーけど。ただ、今回の件に関しては本気で心配してるが少し不憫に感じる。兄貴は特に六本木じゃ目立つし、実際絡んでくる命知らずも多いから言ってることも間違ってはないだろうけど。でも、今のあの兄貴の顔は心配して泣きそうなを見てかわいいくらいにしか思ってない。能面みたいに無表情だけど絶対そう思ってる。ほんと性格歪んでんな。
「分かってくれないなら、わたしも蘭ちゃんが嫌がることする」
「へー、ナニすんの?」
「りんちゃんと浮気します!」
は…………?いや待て!何で急にオレ?こうならないように黙ってたんだけど!っていうか浮気って宣言するもの?ただでさえ間に入れられて居心地悪いのに、これ以上面倒な事にオレを巻き込むんじゃねえ!頼むからオレの腕に抱きつくな。っていうか何か兄貴と同じニオイすんな。もしかして同じ香水?ってか今そんな事どうでも良いし。うわ、さっきまでの言葉なんて余裕でかわしてたくせに兄貴も急にイラつくなよ。明らかに機嫌悪くなってる。こんなのの脅迫にもならない嘘だって分かるじゃん。オレ何もしてねーのに、むしろの時間潰しに付き合ってるのにオレのことそんな目で見んなよ。いやもうめっちゃ怖ぇ。も兄貴の迫力にビビってオレの腕掴んで後ろに隠れてるけど、それが余計煽ってるってことに気づいてほしい。
「あ?」
「そ、そんなこわい顔しても怯まないから!」
あー、でも少し分かった気がする。ってこう見えて結構強いんだな。あの兄貴に反抗出来る人間なんて世の中なかなかいねーよ。まあふたりともお互い気づいてないし自覚無いだろうけど、兄貴の方がに惚れ込んでるっつーか、多分兄貴の方がのこと好きで仕方ないって感じだからな。に嫌われたくないから、がイヤっつーことは基本しないし(今回は別だけど)、が行きたいって行った場所にはいっしょに行くし。前にに「蘭ちゃんもモンブランとか好きだよね?」って言われてスイパラに行った話を聞いたときは兄貴に似合わな過ぎて笑ったし(「すぐ近くのホテルのスイーツビュッフェとか行けば良かったのに」って言ったら「がそこが良いっつーから仕方ねーだろ」って言いながらも全然仕方ないと思ってない顔してたのも覚えてる)、近いからって理由で正月の増上寺に初詣行きたいって言ったに着いて行った時は目を疑った。一番信仰から遠い人間が朝っぱらからそんなとこに行って何してんだよと思ったし、を家まで送って昼に帰って来た兄貴の目はショボショボしてた。そんなふたりが別れるなんて想像したことなかったけど、もしかしてコレ結構危機だったりすんのか?
重い空気を演出するかのように沈黙が続く。何でかオレまで息を止めたくなるほど微動だに出来ない。この時間が刺さるように痛い。まだ誰かと喧嘩して殴られる方がマシだ。体感的には1時間に感じられたけど、実際は1分も経ってないと思う。ソファーが重い音を立てたのと同時に、ようやく兄貴がゆっくりと立ち上がった。
「…………寝る」
こっわー!マジで殴られるかと思って一瞬身構えた。流石にのことは殴らないと思ったけど八つ当たりしてオレのことを殴るか蹴るかくらいしてくるかと思った。もしかしたらショックでも受けてんのか?あの兄貴が?ドアが閉まる音がすると、同じ空間から兄貴がいなくなったことが実感出来たのか、もようやく思い通りに呼吸が出来るようになったらしい。息を大きく吐いたけど、表情は相変わらず優れていないようだった。強気に見せていたけど、内心はやっぱり違ったらしい。
「久々に蘭ちゃんのこわいとこ見た」
「オマエがあんなこと言うからだろ」
「だって、」
「まあ兄貴と対等に喧嘩出来んのはオマエだけかもな」
こんな時間だしをひとりで帰すわけにも行かず、かと言ってこの後予定があるオレは送ってやることも出来ない。とりあえずキッチンに行って紅茶を淹れる。そういやこの紅茶を兄貴が持って来たときもビックリしたっけ。ダージリンとアールグレイの違いも知らねぇだろうに急にどうした?いや、オレも知らないけど。みたいなことを心の中で思ってた。どうやらに「蘭ちゃんたちの家、お酒ばっかだから紅茶とか飲みたい」と言われたらしい。それですぐ買ってくるとか本命には意外と尽くすタイプかよ、今度ウチに来るときにいっしょに買って来れば良かったじゃん、と言いたくなったけど兄貴がなんだかご機嫌だったので言わないでおいた。どうせ喜ぶの顔でも想像してたんだろ。ただ、クラシックな黒の缶に入った外人みたいな名前のこの紅茶は、ティーパックではなく茶葉だった。当然ティーポットなんてモン置いてないから、わざわざふたりで買いに行ったのもある意味思い出だ。そんなアホみたいな裏話を知らないは「ありがとう」と言ってちいさな手でカップを受け取った。温かい飲み物をゆっくり飲んで少し落ち着いたらしい。オレは兄貴の方も気になって、控えめに部屋のドアを2回ノックしながら「兄貴、入るよ?」と声を掛ける。返事は何も無かったけど、静かにドアを開けた。予想通り、スヤスヤとベッドで寝てる兄貴がいた。寝起きクソ悪いけど寝付きめちゃくちゃいーな。つーかこんな時でもよく寝れんな。
「、ちょっとこっち来い」
まぶしくならない程度にドアを開けて、を小声で呼びよせる。紅茶は飲み切ったのか、テーブルに置かれたカップから湯気は出ていなかった。
「アレ見ろよ」
「何?別に蘭ちゃんの寝顔がかわいいからって今更そんなので許す気無いし」
「かわいい?いや、そんなこと言ってねーけど」
「え?あ、いや」
「何ひとりで照れてんだよ。いいからアレ。寝てる場所見ろって」
「場所?え、意外。蘭ちゃんってあんなに広いベッドなのにすごい端っこで寝るんだね」
「ちげーだろ。オマエのスペース空けてんだよ」
「え?」
たまに兄貴が部屋に入ったあと、用事があるときノックしてドアを開けると大抵もう寝てることが多い。そしてドアに近い側のスペースをひとり分わざわざ空けて寝てる。狭いシングルベッドで寝てんかよって言うくらいアンバランスな場所で寝てるから、その理由に気づく前は不思議で仕方なかった。
「兄貴、オマエがいない時もあーやって寝てる。アレもう癖だろ」
いつだって、がいない時も、今日みたいに喧嘩をしている時も、が入るスペースを空けて寝てる。なんつーか、兄貴にもそういうところあんだなって思って、何となく本人にもにも内緒にしてたけど、今回ばかりは仕方が無い。100%あり得ないと思うけど兄貴がと別れたりなんかしたら(というか兄貴がに振られたら)しばらく六本木は荒れる。六本木どころか東京中の色々な均衡が崩れて大変なことになる。そしてオレが一番大変になる未来が、予知能力者じゃなくても容易に分かる。まぁオレのためでもあるけど、やっぱりふたりにはいっしょにいて欲しい。
「りんちゃん、ごめんね」
「オレじゃねーだろ」
「そう、だね」
「カップはオレが片付けとくからオマエも寝な」
「うん、ありがとう。おやすみ」
部屋にそっと入ったは、空いているスペースにゆっくりと潜り込んだ。多分しか入ることの許されていない、ちょうどにピッタリなスペースなんだと思う。兄貴の投げ出されていた長い腕を枕にして、くっつくように寄り添ったの顔は見えないけど、しあわせそうな雰囲気は伝わってくる。オレは今日も六本木の治安を守ったと自負して、次の予定に備える。今日はこの後いつもの連中が何人か来て、朝まで何も考えずに飲み食いするという時間を過ごす予定だ。それが特別な時間だと意識したことはないけど、さっきまでの事があったからかこの後の予定が待ち遠しく感じる。防音だしあれだけぐっすり寝ていればふたりが起きる事も無いだろう。ようやく自分の自由時間が持てることに嬉々とし過ぎて、この後に起きる更なる悲劇なんて一切予想していなかった。
