これ以上もう傷つけないためにと吐いた終わりの嘘で、少しでも良いから幸せになってほしいだなんて、ただの自己満足にも程がある。
その日は買い物がしたいというに合わせて、六本木ヒルズをぶらぶらしたり適当にブティックを回ったりカフェでお茶したり。いつも通りふつうの一日を過ごした。テイクアウトしたキャラメルフラペチーノなんて甘ったるそうな飲み物を飲んでるの歩幅に合わせて、地面のアスファルトをゆっくりと踏んでいく。鼻唄が聞こえてきそうなくらいご機嫌な様子で、何がそんなに楽しいのかを聞けば「ひさびさに蘭ちゃんと外でのんびりデートできてしあわせ」なんて言ってきた。穢れとか腐った世界とか、世の中の汚いすべてを払拭してしまいそうなほど屈託のない笑顔でそんなかわいいことを言うもんだから、その場で形の良い薄いくちびるに、自分のくちびるを合わせていた。
空が茜色と橙色のグラデーションに染まり始めた頃、竜胆から急ぎの連絡が入る。いつもだったら優先で後回しにするけど、今回はそうもいかなそうだった。高層ビルの隙間から差し込む眩い夕陽が、の横顔を少しだけ大人っぽく見せていたような気がする。
「いいよ、まだ夕方だしひとりで帰れるから」
「家帰ったらすぐに鍵閉めてちゃんと戸締りしろよ」
「相変わらず親みたいなこと言うね」
くすくすと笑うその表情と先ほどの横顔のコントラストに思わず見惚れて、の頬をやさしく撫でる。手のひらに簡単におさまってしまう小さい顔に愛しさが増してなかなか離れられずにいると、はそれを察したのか「竜胆くんによろしくね」と言って颯爽と去っていった。どんどん小さくなっていくの後ろ姿を、ただ見えなくなるまで見届けていたのがそもそもの間違いだったと今では思う。そのあと友人と偶然出会い帰りが夜になったは、オレたちが敵対していたグループに襲われた。
いつもなら、絶対に家まで送り届けていたし、今思えばタクシーでもなんでも使わせれば良かったと、無駄だと分かっていながらも絶対に戻せない過去に対して後悔した。幸いすぐに気づけて駆けつけることが出来た。ただ、その場にいたは顔を殴られていたし、首筋に刃物を当てられていたのか白雪のような肌に鮮血が流れていた。そんな光景を目にした瞬間、今まで覚えのない感情が身体中の血管を駆けめぐる。自分を見失いそうなほどのオレを、掠れた細い声で「蘭、ちゃん」と呼ぶのおかげで現実に戻って来れたような気がする。でも、その痛ましい姿と微かに感じる血のニオイに、眩暈さえしそうになった。相手は竜胆たちにいったん任せて、すぐにの元へ駆け寄る。抱きしめようと思った細い身体はビクっと震え、明らかに拒絶を示していた。そんな自分に罪悪感を抱いたのか、の表情は更に狼狽えるように歪み「あ、ごめ」と喋るのもつらいだろうに、消え入りそうな声を絞り出す。数時間前まで見ていたの笑顔はまぼろしだったのではないかと思うくらい、今起きている現実から目を逸らしたくなった。を抱きしめるために伸ばした手は行き場を失い、ただ思いっきり、何もかもを潰すように空気を握りしめることしか出来なかった。
翌日のはいつも通り元気で無邪気に笑ったりもしていて、でもそれはすぐにオレを心配させないようにと取り繕ってるんだと分かった。そんな分かりやすい嘘ついてんじゃねえよと思いながらも、出来るだけいつも通り平静を装っての怪我が完治するまでずっと傍についていた。顔の傷はキレイに治り、今までみたいに頬をやさしく撫でると嬉々とした表情ですり寄ってくるから、思わず後頭部の丸みに手を添えて強く抱きしめた。戸惑いがちに「苦しいよ、蘭ちゃん」なんて言うから「良いから我慢しろー」と返せば「はーい」と微笑むような素直な返事が聞こえてきて、心臓あたりがくすぐったくなる。の体温を全身で感じて、生きてることにひどく安堵した。
△▼△
「飽きた」
その数日後、部屋に来たに温度も感情もない声でふたりの終わりを告げた。よくヘアアレンジをしては自慢気に見せてきていたのに、あの日以来ダウンスタイルなのは首筋の傷跡を隠すためだと馬鹿でも分かる。ふと、あの日が気に入ったと言って衝動買いをしていたオードトワレの香りがした。やさしい花の香りが部屋にやわらかく漂っていて、心臓の奥を刺激してくるのが鬱陶しい。確か買ってやるって言ったのに頑なに「これは自分で買うから、今度蘭ちゃんがお気に入りの香り教えて」なんてずるい断り方をしてきたことを、昨日のことのように覚えてる自分にもイライラする。
「うそつき」
「あ?嘘じゃねぇよ、面倒なんだよ」
今まで息を吐くようについてきたどうでも良い嘘とは比べ物にならないくらい、生まれる感情が重い。
「…そっか、分かった。ごめんね」
なんでオマエが謝んだよ、そう言いたくなった衝動を抑えて「そういうことだから、じゃーな」と淡々と言えば、は躊躇いなく踵を返した。そういえば「じゃーな」的なことを言ったのは初めてだったような気がする。今まで無意識に「またな」とか次に繋がる言葉しかには言ってこなかった。これで終わりなんだと、重厚な玄関の扉が閉まる音が、やたらと胸に響いた。
それから今までは虚無みたいな毎日を過ごしているような気がする。毎日のように誰かと喧嘩していたし、当たり前のように自分の血かも相手の血かも分からない汚れをつけて家に帰ってきてた。竜胆に何回か心配されたような気がするけど、空いた穴は空洞のままで、と会うまで何が楽しくて生きていたのかも思い出せないくらいつまらない毎日だ。
一カ月程掛かったが、今日ようやくを拉致った連中をひとり残らず末端まで容赦なく潰した。一人で何十人も相手にしたからか流石にいつもより血も出ていて、疲れて帰りに公園のベンチで天を仰ぐと、目を閉じたくなるくらい眩しい満月がミッドナイトブルーに浮かんでいた。目的を果たして道標も何もなくなった今、これからどうしようかとぼんやり考える。邪魔なくらい輝く満月から、目を逸らすようにゆっくりと瞼を閉じた。何も見えなくなって、世の中の裏側みたいに真っ暗なこの世界がオレにはお似合いだと、自身を嘲笑したくなる。ふと、肌を撫でるような風に乗ってやってきた香りが、が纏っていた香りと似ているような気がした。確かコンバイニング出来るとかで、とは別の香りをその場でオレも買って今でもつけている。の香りと重なると、不思議と心地の良い安堵感みたいなのが生まれたような気がしたから、いくつか愛用していた香水を差し置いて使っていた。そんな香りが今でも鼻腔をくすぐっているような気がして瞼をゆっくり持ち上げると、そこには満月の代わりにの顔が存在していた。怪我した影響で脳か視覚でもやられたかと一瞬思ったけど、の虹彩には間違いなくオレの顔が映ってる。
「なんでオマエここにいんだよ」
「竜胆くんが教えてくれた、蘭ちゃんが荒れまくって大変だから何とかしてくれって」
「…オレに近づくとまたこわい目に合うぞー」
「蘭ちゃんといっしょにいれない毎日の方がこわいよ」
脳も嗅覚も視覚も異常ではなかった。隣に座ってきたは、ドラッグストアで買ってきたであろう消毒液でオレの顔に躊躇いなく触れてくる。そういえば、たまに怪我をして帰るとよくこうして手当てしてくれてたっけ。ひさびさにの体温に触れた気がする。こんなに手小さかったか?とか指ほせぇなとか、どうでも良いことばかり考えながら触れられたところが火傷したみたいに熱くなっていくのを感じた。
「わたしだって蘭ちゃんと同じだよ」
「何がだよ」
「蘭ちゃんが傷つくとわたしだってつらい、しあわせじゃない」
鼻を啜りながら生まれる言葉たちは弱そうに見えたけど、真っ直ぐで強い印象を受けた。まばたきを一回したら零れ落ちそうなほど涙をためて、耳は真っ赤で、くちびるは震えている。思わずボロボロの手を伸ばしての頭を撫でると、堰を切ったようにポロポロと頬に涙が流れていった。そういえば、が泣くのを初めて見たような気がする。襲われたときだって震えてはいても泣いてはいなかったし、別れるときも涙を流していなかった。初めて見たその表情に、なんとも形容しがたい感情が生まれる。の中にあるであろう感情が伝染しそうになった。
「蘭ちゃんのことはわたしが守るから、わたしのことは蘭ちゃんが守ってよ」
息をするのを忘れるくらい、のその言葉と表情に惹きつけられた。しばらく動かなくなったオレを心配したのか、が不安そうに声をかけてくる。涙を拭うように親指で頬を撫で、言葉の代わりにゆっくりとくちびるを重ねると、は鉄の味がすると言った。ようやく笑ったの顔に、今まで何も見えていなかった世界がようやく色彩を持つようになったと感じる。見えない何かから解放されたような気がして、はぁ〜と長い息を吐くと今まで胸の中に蠢いていたものがぜんぶ消えた気がした。の華奢な肩に頭を乗せると、ふわふわと撫でられた頭が心地よくて、微睡みを誘ってくるような感覚がする。
「やっぱりオマエ馬鹿だな」
「…馬鹿なわたしは嫌い?」
「すき、めちゃくちゃかわいい」
「そこまで言われると照れちゃうよ」
「…つーかオレのせいで首のココ、傷跡残っちまったよなぁ」
「蘭ちゃんのせいじゃ無いし目立つとこでも無いし、平気だよ」
首筋を慈しむように擦れば、すこしくすぐったそうに身を捩った。首筋を舐めるようにくちびるを這わせると、慌てて「蘭ちゃん!手当て先!」と言ってくるから「あー、かわいい」と言えば「もう、うそつき」と子どもみたいに頬をふくせませそうな表情をしてくる。痛かった身体も心臓も、いつの間にかどうでも良くなってる。
「嘘じゃねぇよ、分かってんだろ?」
が襲われたあの日、生まれて初めて憂懼の感情を抱いた。今まで喧嘩をしたり誰かを散々傷つけてきたりしたけど、何も感じたことはなかった。無機質で何の感情も生まれない。けど、もしオレのせいでに何かあったら、オレは誰に何をするかわからないし自分がどうなるかも分からない。多分、前みたいに目に入るものをひたすら壊していくと思う。オレが解放してやればは幸せになれるんじゃないかと思ってたけど、間違いだった。ほんとの答えは当たり前みたいに単純なことだから、逆に遠回りになってしまったような気さえする。
「だからもうずっとオレの傍にいろ、離さねぇわ」
もう二度と吐かない嘘の代わりに、愛惜するようなくちづけを数えきれないくらい送ることにした。