真夜中というのはどこか冷たくてさみしくて、普段は自分が寝てる時間だから、まぶたの裏の別世界のようにも感じていた。



 空気に夏の余薫がうっすらと存在している。昼はまだ汗ばむので無地のTシャツにリネンのショートパンツ、足元は歩きやすいフラットサンダル。シンプルだけど自分なりに色の組み合わせだったり素材だったりを考えて、少しでもかわいく見えるようにしたつもり。だんだんと夏の終わりを予感することが多くなって、少しさみしいから夏にしか着れないものを今更たくさん着たくなる。
 蘭ちゃんの部屋で一緒に映画を観たりくっついたりのんびりしていたら、時が思っていた以上に進んでいた。気づいたらオレンジと赤のグラデーションでまぶしかった空はいつの間にかディープブルーに染まっていて、時計の針は2本とも真上を指しそうになっている。蘭ちゃんの肩に凭れかかって微睡みの中を彷徨っていると、お姫さま抱っこをされるように持ち上げられた。「ベッドで寝ようなー」という心地よい声色にうっとりとしてしまう。雲の上かと錯覚してしまいそうなくらいやわらかくて大きいベッドにゆっくり降ろされたけど、蘭ちゃんはベッドに入らずドアに向かいどこかへ行きそうだったので、置いてかれそうな子どもみたいに蘭ちゃんの服を無意識に掴んでいた。

「あれ、蘭ちゃんどっか行くの?」
「コンビニ行ってくっけど何かいる?」
「…わたしもいっしょに行く!」

 その言葉で重く閉じかけていたまぶたはグっと上に持ち上がり、眠りに落ちそうだった身体は一気に覚醒した。大袈裟かもしれないけど、こんな時間から出掛けた事のないわたしは、例え近所のコンビニだろうと何だろうと真夜中に玄関の扉を開けて1歩外に出ることを非日常のようだと思っていた。身体を起こして、少し乱れてしまった髪を手櫛で軽く整える。蘭ちゃんの細長くて骨ばった指がスっとわたしの髪を通り、後頭部の直っていない部分をやさしく直してくれた。ありがとう、と言って蘭ちゃんの腕を引っ張るように玄関へ向かう。やたらと意気揚々としているわたしを、蘭ちゃんは少し不思議そうな顔で見ているようだった。

「…つーかちょっと待て、その格好で行くつもりかよ」
「うん、だって今日これで普通に蘭ちゃんの家まで来たし、かわいくない?」
「かわいいけどダーメ」
「え、何で」
「今何時だと思ってんだよ」
「蘭ちゃんがそんな真面目なこと言う?」
「良いからクローゼットに入ってるオレの服とか適当に羽織ってこい」
「えー暑いよ」
「もうそんな暑くねぇよ、冷えっから着てこい」

 ひとつの部屋かなと思うくらい広いウォークインクローゼットには、相変わらずセンスの良い服がセレクトショップみたいにたくさん並んでいて目がちかちかする。一着いくらくらいするんだろうと思うような服がたくさんあるから、適当にと言われても伸ばす手が躊躇いを覚えてなかなか動かない。玄関で待ってくれている蘭ちゃんを待たせるのは悪いので、生地が薄そうなカーディガンをとりあえず選んだ。Made in Italyとか書いてあるけど気にしない。蘭ちゃんと身長差のあるわたしが羽織るとかなり長くなってロングカーディガンみたくなる。ふわりと香る蘭ちゃんのいつものニオイに少し嬉しくなって、冷たい大理石の廊下を小走りしながら蘭ちゃんに駆け寄った。

「お待たせ。…って蘭ちゃん?どうしたの真顔で」
「…やっぱダメ。普通にこの前オマエが忘れてった自分の服に着替えてこい。ハンガーにかけてあっから」
「着替えるの面倒だからイヤ」
「じゃあはひとりでお留守番だなぁ」
「…すぐ着替えてくる!」

 生地が薄い分、他の服より安価かなと安易な考えをしてしまったけど、もしや超高級品だったのだろうか。確かにカシミヤみたいなすごくやわらかい肌触りで、つい何度も触れたくなってしまうような繊維が使われているような気もする。前にお泊りした時に置いていった自分のファストファッションのカーディガンとロングスカートが、クリーニングに出してくれたのか皺一つなくハンガーに掛けられていて、少し申し訳なくなった。最初からこれの存在に気づいていれば良かったと、Tシャツの上にカーディガンを羽織り、下はロングスカートに履き替える。ふらっとコンビニに行くという流れに少し憧れていたけど、贅沢は言わない。

 長いエレベーターを降りて重厚さと洗練さが掛けあわされたエントランスの自動扉を抜けると、ようやく真夜中の空の下を歩ける。肌に纏わりつく空気が違うような気がして、冬でも無いのに空気が澄んでいるように感じた。当然だけど、昼とは比べ物にならないくらいの静寂と真っ黒に近い空のせいで異様な雰囲気が生まれている気がする。ひとりだったら少しこわくなってしまいそうだけど、蘭ちゃんといるから全然こわくない。

「コンビニ行くだけで随分ご機嫌じゃん」
「だって何かワクワクする」
「でも夜は変なヤツ多いからなー」
「蘭ちゃんがそれ言う?…わっ!横からほっぺ掴まないで」
「何度も言ってっけど、ひとりでこの時間は絶対歩くなよ」

 家族以上に夜道への注意をいつもされるので、もうそれが習慣化していた。意外にも心配性なのか、買い物をして帰るときも、友人と遊んで少し遅くなる時も、蘭ちゃんと夜から会うときも、月が夜に浮かび始めたら必ずお迎えに来てくれるので、ひとりでこんな時間に外に出ようという思考回路がそもそもあまり存在していなかった。ただ、頭の片隅で「真夜中を歩く」という憧憬みたいなものがきっと潜在していたのだろう。「わかってるよ、でも今日は蘭ちゃんがいるから危なくないね」と声を弾ませて言えば、蘭ちゃんも「そーだな」って笑ってお互いの指が惹かれ合うように自然と手が繋がったから、スキップしたくなるくらい足が軽くなってしまった。

▲▽▲


 少し歩くといつも通っている大通りで、六本木を照らすネオンが思っていた以上にこの街を明るくしていた。その光に反射するみたいに、わたしの虹彩もきっと夜景みたいにきらきらしていると思う。車は走ってはいるけど昼ほど多くはなくて、知らない世界を歩いているみたいな気持ちになった。元々近いコンビニが余計近く感じるほどに、ただアスファルトを踏んで歩いていくだけのことが楽しい。願わくば、もう少し夜のお散歩をしたいなと思うくらい。
 真夜中のコンビニはやたらと光り輝いて見えて、昼間は当たり前のように存在している何とも思わないスポットなのに、何だかすごく煌びやかに感じた。店内の空気感も少し違っていて、店員さんもお客さんも当然少ない。そういえば昨日は火曜日だったから何か新商品あるかな?と思ってお菓子売り場をのぞいてみる。「アイス買って公園で食べたい」と言えば「んー、は絶対寒いって言うから却下」と言われたけど「カーディガン着てるから大丈夫」と半ば強引に押し切ってカゴに入れた。

「なんで公園?家でも食えんじゃん」
「外で食べるのが良いんじゃん」

 真夜中の公園はコンビニへ行く以上に冒険感が在るような気がした。そもそも公園に行くこと自体がひさびさで、ノスタルジーのようなものを感じてしまう。蘭ちゃんが少し周りを気にしてる様子なので「どうしたの?」と聞けば「ん、何でもねぇよ」と言って頭を撫でてくれた。深い夜のせいだろうか、月を背景にした蘭ちゃんはいつもより妖艶さを孕んでいる気がする。
 予想通り公園には誰もいなくて、大通りの華やかな明かりや車のテールランプ、酔っ払った人たちの声なんかは一切存在していない。ふたりきりの世界みたいに静かで穏やかだけど、ちょっとした不気味さも感じて、そのアンバランスさに余計こころが惹かれるような気がした。ブランコが目に入ったので、つい童心に帰って小走りすると蘭ちゃんの「転ぶぞー」と言う声が後ろから聞こえてくる。もちろん無視してブランコに乗るとギシっと軋むような音がして、小さいときにこの公園で遊んだことは無いけれど懐かしさみたいなものが生まれた。ゆっくり歩いてきた蘭ちゃんは、まるで親が子どもを見守るみたいに目の前のブランコ柵に腰かける。

「めちゃめちゃ楽しい、ありがとう蘭ちゃん」
「どーいたしまして」

 部屋という囲まれた空間ではない、何の隔たりもない場所で食べるアイスは、冷たいけれどこころをじんわりと満たしてくれるようだった。海に行ったわけでもお祭りに行ったわけでも無い。花火をしているわけでもない。イベントでも何でもない、ふつうの人からしたらただのありふれた夜なのに、わたしにとっては今年の夏の思い出のひとつになるくらい、きっと今日のことをいつまでも覚えている気がする。

「ねー、蘭ちゃん」
「んー?」
「寒くなった」
「だから言ったろ〜?」
「蘭ちゃんってわたしのこと、わたしより分かってくれてるよね」

 気分が高揚していて気づかなかったけど、蘭ちゃんが言った通り真夜中はかなり涼しい。この時間の外を知らないわたしが知らなかった現実だ。ブランコを降りて蘭ちゃんに近づくと、骨盤に巻きつくように長い腕が回されて、磁石が惹かれ合うみたいに引き寄せられた。その勢いに耐えられず、思わず柵に腰かけている蘭ちゃんの両肩に手をつくと、やわらかく弧を描いた形の良いくちびるが目に入る。後頭部を包み込んだもう片方の大きな手によって、引力が働くようにふたりの距離が近づくのを感じた。その力強い手とは正反対の、真夜中に紛れるみたいなやさしいくちづけに、心臓がゆっくりと熱を帯びていく。

「本当、冷てぇな」
「アイス食べたばっかりだしね」
「そろそろ帰んぞ」
「うん、付き合ってくれてありがとう」

 すっかり冷たくなってしまったわたしの指先が、当たり前のように繋がれた蘭ちゃんの手であったかくなっていくのを感じた。心地よくてぎゅっと力を入れると、輪郭を確かめるようにゆっくりとわたしの指をなぞって、頬を撫でられてるみたいに陶然とした錯覚を覚える。

「家帰ったらたくさんあっためてやるからなぁ」

 もう充分あったかくなってきたけど、今日はどんなに熱くなっても溶けそうになっても構わない。
 別世界だと距離を置いていた真夜中の空の下は、ふたりで歩くとしあわせな日常に繋がっていた。