「わたしが死にそうになった時は、必ず蘭ちゃんがわたしを殺してね」
それまで当たり前に存在していた世界なんて、人間の手で簡単に歪むし破壊も出来る。そんな黒で塗りつぶされた世界にしか存在しない常識とは無縁の、普通の社会で生きているが首にある梵天のマークを細いゆびさきで撫でるように触れてきた。先ほどまでの甘ったるい余韻を纏いながら急にそんなことを微笑みながら言うもんだから、こわい夢でも見たのかと問えば「んーん」とそれだけしか言わねぇ。否定も肯定もしない代わりに微睡の奥深くに落ちるようくちびるをやわらかく重ねると、子守唄でも聞かされたガキみたいに瞼がゆっくりと閉じていく。そのままシーツに溶け込みそうなくらい白いのこの肌が、鈍い赤色に染められてしまったときは多分、
・
・
・
「ナーニ考えてんの?」
日本人の平均収入436万円。その金額に見合ったせまい部屋で過ごす朝は存外嫌いじゃない。こんな時間に起きるなんてがいるときだけだな、と漠然と思う。深い夜に堕ちるように生きていく毎日が日常なのか、こうして光を浴びながら朝特有の眩しさを感じる日が日常なのか、たまに混乱するけど正直どっちでも良いしどうでも良い。ただ、が傍にいた方がよく眠れる気がした。
まだ覚醒しきっていなかった身体を無理矢理起こして、洗面所に行って、小さいシングルベッドの上に腰掛けるとシーツが波を立てるように皺を生む。ベッドのサイドフレームを背もたれにして座っているは出勤前の着替えもヘアもメイクも殆ど終えてるくせに、鏡を見ながら何かに悩んでいるような様子が窺えた。の髪に触れると、やわらかい花の香りが漂ってきて、起きたばかりだと言うのに再び瞼がゆっくりと閉じそうになる。こんな風に何も考えない心地良い時間を過ごしていると、毎日のように決められた時間に決められたルートで、あの狭い箱の中に埋められるようにして無理に一生懸命出勤する世間一般の社会人の感情はやっぱ理解出来ねぇな、なんて正にこれからそれを行うであろうの横顔を見ながら思った。
「この前蘭ちゃんが買ってくれた新しいくちべにつけようかなと思って」
「そんなんオレとデートの時つけろー」
「だって仕事頑張ってるからって、この前買い物行ったときプレゼントしてくれたじゃん」
「そう言わねぇとオマエ受け取らねぇだろ」
「う…、とにかく憂鬱な仕事のテンションを少しでも上げたいの」
「憂鬱になんかなる仕事なんてさっさと辞めちまえばいーのに」
「そしたら生きてけないし、でも今更転職する気力も無いし」
数えきれないくらいリフレインしているこのやり取りは多分どちらかが納得しない限り終わりを迎えることは永遠に無い。泣くほど辛いならそんな仕事やめろとその後の生活だって保障すると言っても絶対に首を縦に振らないし、じゃあオマエをそんな風にさせるヤツの名前吐けと少し強引に聞いても睫毛を震わせながら「自分で何とかする、けどたまに慰めて欲しい」としか言わねぇから、結局抱きしめて頭を撫でてやるだけで終わる。喩えばこっちが場所も金も全て用意するからもっとセキュリティがしっかりした所に住めと行っても、今のところが気に入っているからと拒否されては「せまい部屋の方が蘭ちゃんにくっつきやすい気がするし」なんて、広くても狭くても関係ねぇだろと言いつつオレがの部屋に行くことの方が多い。それはまあ安全面の心配もあってだけど。生きてる世界が違うと、どうしてもお互いの意見が一致しないことはある。ただ、不思議とそれに鬱陶しさを感じたことは無い。
「どうかな?」
「かわいい」
「大人っぽすぎないかな?」
「んな事ねぇよ、やっぱ似合うな」
「流石蘭ちゃんの見立てだね」
「でもかわいすぎるからダーメ」
塗り終えたが隣に腰掛けてきて、無邪気な表情で彩られたくちびるを見せてくる。何も塗られていない時の純真無垢を思わせるような自然なピンクも良いけど、今日の宝石みたいな眩しさと透明感のある赤のくちびるがあまりに艶然としてるから、の腰を引き寄せてリップノイズを立てるようなキスをした。「くちべに落ちちゃう」なんて躊躇いがちに言うくせに、昨晩をプレイバックさせるような情欲を孕んだ表情を朝っぱらから向けてくるから、その罪深さを分からせてやりたくなった。「まだ時間あんだろ?気にすんな」と耳元で低く囁けば、すべてを甘受するように薄く開いたのくちびるを喰むようにゆっくりと何度も味わう。
「そんな物足りなそうな顔すんなよ、行かせらんなくなんだろ?」
「物足りなくなんてないし」
「オマエほんとにキス好きなー?」
「うん、蘭ちゃんとするキスが好き」
もうこのまま今日は会社休ませるかあ、と思ってそのままベッドに押し倒そうとしたら「遅刻しちゃうからもう行く」なんて切り替え早ぇなと思いつつも、短い廊下を抜けて玄関まで見送ることにした。オレがの部屋に泊まりに行くときは、大抵オレが見送ってそのあともうひと眠りして、適当な時間に部屋を出るのがいつからかルーティンになってる。
「仕事遅くなりそうなら迎え行くから連絡しろよ」
「んー、今日は早く上がれると思う」
「オマエのそれ、当てになんねぇからなー」
「蘭ちゃんの仕事的にわたしが帰ってくる時間なんてむしろ早いでしょ」
「そーだけど暗くなったらもう夜なんだよ」
「はいはい」
少しヒールのあるパンプスを履いて距離が近くなったに、もう一度触れる程度にくちびるを落とす。くちびるが離れたあとに見せる春の日差しみたいにやわらかくてあたたかいの笑顔が好きだった。そう、別にいつもと何も変わらない日常。いつもと何も変わらない朝だった。
その次に見たは、病院のベッドの上で瞼を閉じたまま全身に管や線が繋がれていて、棺桶の中にいるみたいに深く眠っていた。との日常を今まで形成してきたすべてが白昼夢だったのではないかと、そう思うくらいあらゆる感情が交錯しては散るように静かに消えていった。
△▼△
いつもと何も変わらない朝を過ごした日の20時、に電話を掛けてみるもののなかなか出ねぇ。いつもだったら出なくても暫く経てば必ず折り返しが来ていた。時間が経てば経つほど感じる違和感に、静かに熱く全身の血液が駆け巡る。のマンションのドアノブに鍵を入れ、回転させるのに少し慎重になった。敵対組織の罠の可能性だってある。注意を払いながら開けると、真っ暗闇しか見えないこの部屋には何ひとつ温度が存在していないとすぐに分かった。
が行きそうな場所は全部探したし、翌日は別ルートを使って会社に問い合わせてみたものの連絡も無く出社していないと回答が返ってきた。が無断欠席をするような人間じゃないというのは散々分かっていたから、100%事件に巻き込まれたか事故にあったかのどっちかだと判断した。
それから数日後、情報屋経由でようやくの情報を入手できた。予想通り、梵天と抗争中だった連中に襲撃されたことが分かった。突然攫われて殴る蹴るの暴行を受けたは意識を失い、繁華街の裏通りのゴミ捨て場に捨てられるように放り出されていたらしい。運よく近くの飲食店オーナーが発見してすぐに救急車で運ばれたらしいが、すでに意識不明の重体。オレがのところに駆けつけられたのは事件発生から3日も経ってからだった。
「…遠いなあ」
手を伸ばしてもとオレを隔てるように存在する冷たい窓ガラスにしか触れられない。こんなガラスを割るくらいどうにでもなる。けど割った破片でが傷ついたら意味ねえな、なんて数えきれないくらい何もできない事実をただ噛み締めるように享受する。
こういった事態が発生する可能性を考えていなかったわけじゃない。はオレの仕事のことも知ってるし受け入れてるけど、それでも平和が安定している普通の世界で生きてる一般人。ふたりでいっしょの時間を過ごして、そうやって生まれた世界を共有して生きてるけど、離れているときはどうしても白と黒みたいにお互い正反対の日常が存在しているのも事実だ。
「まだ目、覚めねぇの?」
「悪かったな、竜胆。色々頼んで」
「オレは別に、けど最近寝てねぇだろ兄貴」
「んな事ねぇよ」
「…やっぱ行くのかよ」
「決まってんだろ、なんかあったらあと頼むわ」
のことは一旦竜胆に任せて、襲撃した連中のところに単身乗り込むことにした。竜胆以外の幹部連中には今回の事は何も言ってない。正直生きて帰って来れるのかどうかも分かんねぇ。最悪の時はまあ竜胆が何とかすんだろ、くらいの気持ちだ。ここにいたってが目を覚ますわけじゃない。だったら、今オレがやりたいことなんて、それくらいしか思い浮かばねぇんだよ。
・
・
・
あれから何日が経っただろう。実際は数日程度しか経ってねぇのに年単位の長さを感じる。あれからは何とか危機を乗り越えたらしく個室に移ったけど相変わらず昏睡状態で目を覚まさないらしい。このまま眠り続けたままの可能性もあるし、もしかしたら数分後に起きる可能性もある。そんな絶望だか希望だかワケの分かんねぇ話を聞いて、闇医者のところに連れて行こうか迷ったけど、のことを考えるとこの病院にいる方が良い気がした。
先日、を襲った張本人を探し出し、額に銃口を当てながら穏便に話を聞いた。は襲われると分かった瞬間、自分のスマホを思いっきり地面に叩きつけたらしい。多分、オレに影響が出ないように混乱している頭で咄嗟にやったんだと思う。持っていれば助けを呼べたかもしんねぇのに、他人を優先しがちのがしそうなことだと思い自然と笑みが零れると、相手が五月蠅く震えるから即トリガーを引いた。他に何人か潰して、自分の血なのか連中の血なのか分かんねぇ汚れをつけて、口の中の鉄の味に鬱陶しさを感じながら一度シャワーを浴びて着替えてからのところに来た。
「…いつまで寝てんだよ」
今になって、のあの時の「わたしが死にそうになった時は、必ず蘭ちゃんがわたしを殺してね」という言葉が、教会で鳴る鐘の音みたいに何度も脳裏に響き渡る。「殺してほしい」という願望じゃなく「殺してね」という言葉に、お願いと言うよりは一方的な約束に近いものを感じた。およそ普通の生活を送っていたら絶対に出ないであろう言葉。オレももとっくに覚悟なんてしていた。
「それかそろそろ一緒に眠るかー?」
もしかしたら竜胆あたりには非情だと言われそうな気もするけど、の命を奪うことに一切の躊躇いは無い。同時に自分の「生」にも執着があるわけじゃない。のいない毎日の存在価値を考えながらつまらない日々をひとりで生きていくのであれば、ふたりで同じところに逝くのも悪くねぇよなと、多分もきっとそう思うような気がする。
天国だとか地獄だとか、そんな誰も正解を知らねえ世界に興味なんて無ぇしどーでも良い。それでも、最期にいつもの温度を感じないにくちづけをしたのは、オレたちにとって都合の良い死後の世界を一瞬想像したからだろうか。顔の怪我はまだ治りきってないこんな状態なのに、をかわいいと思うのはもうこの脳髄がそう記憶してる。
銃を持つ前に、深い微睡の中をひとりで彷徨ってるであろうの頬に指を滑らせた。瞬間、の瞼がぴくりと痙攣するように動いた気がして、まさか期待みたいなのを抱いて錯覚でもしたかと、そんな悪足掻きを潜在的に持っていた自分自身が愚か過ぎてひとり嘲笑する。けど、ずっと閉じられていたの瞼がゆっくりと持ち上がり何度か緩慢とまばたきをすると、ひさびさに出会った虹彩にオレの顔が映っていて、ようやく現実だと認識出来た。
「ら…、ちゃ」
「…起きた?」
「ん…」
「はよ」
「お…はよ?」
どこの童話のお姫さまだよ。それにしては喉もガラガラで、全身傷だらけ。もちろん起き上がることも出来ない。気のせいかもしんねぇけど、ようやく本来の体温が戻ってきたような気がして、さみしい色を宿していたようなくちびるは前に塗っていたくちべにみたいに少しだけ鮮やかに色づいたような気がして、全部錯覚だって分かってるけどの「生」を全身すべてで実感した。
「オレは寝る…」
「え…あ…蘭、ちゃん…寝、た?」
そっから先はほとんど記憶が無い。そのままのベッドのふとんに突っ伏すように落ちたらしい。一週間以上ぶりに、ようやく眠れたような気がした。
△▼△
ひさびさに澄んだ水色みたいな空を見たような気がして、太陽と目が合いそうになったから思わず眩しすぎて目を細めた。まさに退院日和。暫くしてようやくが退院できることになった。その日は昼から病室で退院の準備を進めるの手伝いをしに来たというのに「蘭ちゃん座ってていーよ」なんて言われるから、結局ただが服を畳んだり鞄に入れているのをベッドに座りながら見てるだけ。
病室の白いカーテンがやわらかい風で靡いての髪もふわりと揺れる。あーなんかよく分かんねえけどこの感覚ひさびさだなあ、なんてぼんやり思ってると、すぐ目の前にの顔がいきなり現れた。些か驚いてると、天真さを含んだ瞳に惹かれて動けなくなる。たまたま私服のハイネックで首元が隠れ、髪も下ろした状態でいたからか「蘭ちゃん、やっぱりそうしてると普通の人みたいだね」なんて、いつも見せる陽だまりみたいな笑顔で暢気に言うから、こいつホントに色々分かってんのかよと呆れそうになったけど、の目にはそう映ってのかと思うと悪い気はしなかった。とりあえずその表情がやっぱかわいいから「そーだろ?」とだけ言って細ぇ手首を掴んで後頭部を引き寄せながらしたキスがやたらとあったかく感じたのは、がひさびさにオレが贈ったくちべにをつけてたからだと思うことにした。
「やっぱり家がいちばん落ち着くねー」
このせまい部屋に来るのもひさびさだった。前に来たときは冷たくて寂寞とした雰囲気しか存在してなかった部屋が、ようやく本来の温度を取り戻す。は休みもせず帰って早々に夕飯の準備を始めた。こんな日くらい外食で良いだろと言えば、ひさびさになんか作りたいと言うからのやりたいようにさせることにした。買い物にも行ってねぇし冷蔵庫に大したもんだって入ってないだろうに、キッチンに立つは鼻歌なんて口ずさみながら機嫌良さそうにしてる。忘れかけていたこの当たり前の、こういうなんでもない光景がオレにとっては生きてく上で多分大事な何かなんだと思う。
大人ひとり立つとすでにせま苦しいキッチンだっていうのは充分理解しながらの後ろに立つと、透けるように白い滑らかな首筋を汚していた傷痕が消えていた。指でそっと撫でると、くすぐったかったのか身体をピクリと大きく反応させたけど、すぐ「キレイになったでしょ?」と声に喜色を浮かべながら自慢するように教えてくれた。多分、自分自身の傷が癒えたことが嬉しいんじゃなくて、そのことに安堵するオレを想像でもして破顔してんだろーなと思うと心臓がくすぐったくなったから、抱き着きながらの華奢な肩に思いっきり顎を乗せた。「重い、邪魔、動きにくい」と文句を並べる割に声色に鬱陶しさを感じない。
「こわかったろ?」
「…そんなこと言って、蘭ちゃんの方がこわかったんじゃない?」
予想外の返答に、交感神経が刺激されたのか散瞳したのが自分でも分かった。こわかった、とは少し違うような気もするけど、こうしてお互いの温度が共有出来てるとやっぱひとりで生きてんのは意味ねぇなと、片手で簡単に捻り潰せそうなくらい細い首を見ながらそう思う。
「オレを生かしたんだから、責任取れよ」
「え?蘭ちゃんも死にそうになってたの?」
「ある意味そうかもなぁ」
先日の殺して欲しいという強引な約束めいた要求だったり、こういう物騒な会話が冗談ではなく本気として一般人の世界で繰り広げられていることに違和感を一切持たないあたり、は自分に対する倫理観みたいなのが麻痺してんなと思う。けど、そんなに愛しさを感じて親指の腹で下唇を撫でると、ふにゃりとやわらかく形が変わった。
「うそ?怪我でもしたの?なんで?」
生の始まりも生きている世界も何もかもが違ってきたとするなら、せめて最期くらいは骨も血も臓物もすべて一緒に溶けていくような終焉を迎えたい。そう思うのは、お互いのくちびるを綴じるように重ねるのと同じくらい自然で当たり前のことだった。
「生きるも死ぬもオレとオマエは最期まで一緒だろ?」
