人工の光に主役の座を奪われて、ひっそり隠れるように在り続ける星たちをいつかこの街で見れる日は来るのだろうか。黒と青を混ぜたみたいな暗いだけの夜を歩く方がまだ良かったかもしれない。道に沿うようにライトアップされている木々たちがあまりにまばゆいから、逆に寂寥感に似た何かを感じてしまう。こんな時間にこんな場所をひとりで歩いたことなんて無いし、携帯もお金も何も持って来なかった。もちろん行き先なんて決めてない。ただ、この夜に映えるように優雅に立つ橙色に輝いた東京タワーだけが、今のわたしの道標のように感じた。
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たった数十分前、蘭ちゃんと喧嘩して逃げるように部屋から飛び出して来た。100%自分が悪いことは分かってるけど、興奮したわたしがちいさな子どもみたいに喚き立てて、つい「もういい。わたしのことなんて大事でもなんでもないくせに」と言った瞬間、部屋の中の湿度が明確に変わった。それまでわたしを躱すように淡々としていた蘭ちゃんのくちびるから「あ?」と憤懣が含まれた今まで聞いたことのない重低音が発せられて、まるで喉を潰されたみたいに息が止まりそうになった。温度も感情も無いふたつのパープルがかった冷たい虹彩が射抜くように真っすぐ見つめてくるから、わたしの下睫毛はじわじわと濡れ始める。やばい泣く、と思って、でもどうしてわたしが泣かなきゃいけないんだ、みたいなよく分からない感情に埋め尽くされて、ただあの場にいるのはもう苦しくて、何も考えずに部屋から飛び出そうとした。手首を掴まれて「待て」と言われたけど「やだ離して!蘭ちゃんなんか嫌い!」と言って振りほどくようにしたら、思いのほか簡単に離されて少しびっくりした。でも、そんな自分の感情に構うことなく扉を開けて出て行った。その成れの果てが現在である。数十分前に起きた現実を、この夜空のカンバスに散蒔いてぐしゃぐしゃに塗りつぶして消したいほど忘れたいのに、人間というのは不思議なものでそう思えば思うほど脳裏から離れてくれない。
「いたっ」
スパンコールが散らばってるみたいに輝いているけやき坂を、ひとりさみしく鼻を啜りながら歩く。思ったより冷え込んでいて、上着も着ずに出てきたから鼻水が出そうになる。大した距離を歩いているつもりはなかったけど足取りはやっぱり重くて、小さな段差で躓いて盛大に前から転んだ。恥ずかしいを通り越して虚しくなる。人のいない夜で良かったと思いつつも、スカートから曝し出された膝がじんわりと熱を帯びていた。滲み出てきた赤黒い血が、今の悲惨さを物語っているようで余計に泣けてくる。そういえば蘭ちゃんがいる時は、わたしが転びそうになっても転ぶ前に絶対支えてくれてたから、ここ最近怪我なんてした記憶が無いような気がする。隣に蘭ちゃんがいないだけで、自分がこんなに脆弱な存在になってしまうなんて知らなかった。
下ばかり向いて歩いていたからか、気づくと高架下のような場所を歩いていた。人気が無いせいか、冷たさと暗闇しか存在していないような空間に感じる。世間のニュースやテレビの影響だろうか、夜の高架下は悪い予感しかしない。まさにそんな予感は的中で、明らかに夜を楽しんでそうな派手めな雰囲気を纏った人たちが3人でその場に溜まっておしゃべりをしていた。高架下の所為か、彼らの声が反響しているように聞こえて余計恐怖心を煽られる。ここで引き返すのも余計目をつけられるような気がしたので、平静を装って早歩きで通り過ぎることにした。
「そんなあからさまに避けなくたって良いじゃん」
「わっ…!」
「どこ行くの?」
「えっと…ちょっとその辺まで」
「じゃあみんなで一緒いこうよ」
「結構です、離してください」
この光景を見ていたら、誰もが予想するであろう最悪の展開になってしまった。通り過ぎた瞬間に後ろから手首を強く掴まれて、ある程度予想というか覚悟していたとは言え実際に知らない男の人に手首を強く掴まれてしまうと、心臓がぎゅっと収縮するような感覚がして生きた心地がまるでしない。高架下でよく事件が起こるのは、暗くて人気が無いから助けを呼んだとしても誰にも気づいてもらえないからだと改めて認識した。蘭ちゃんにも夜は危ないから絶対にひとりで出歩くなと散々言われていたのに、自業自得だ。手首を掴んでいる男の人と周りの2人のニヤついた表情が、肌にざわざわと刺さるようで気持ちが悪い。埒が明かないと思ったのか、もう1人がわたしの背後から両肩を掴んで無理矢理歩かせようとする。でもその途端、手首を引っ張られていた力が緩くなり不思議に思って相手の男の人を見ると、さっきまで見せていた愉悦の表情とは一変し、この暗がりでも分かるくらい顔面蒼白していた。視線がわたしを通り過ぎてかなり高めの位置にあるので、その視線の先を辿るように首を向けると、無表情だけど明らかに苛立ちの感情を孕んだ蘭ちゃんがわたしの後ろに立っていた。
「はあー…マジ携帯くらいは持ってけよなあ」
「ら、蘭ちゃ」
「で、テメェらはいつまでに触ってんだよ」
声色の温度差に絡んできた彼らだけでなく、わたしまでびっくりしてしまった。多分彼らも蘭ちゃんの迫力に押されて動きたくても動けないんだと思う。わたしの手首と両肩に触れていた彼ら2人の手を、剥がすように蘭ちゃんが離してくれる。そのまま蘭ちゃんの片腕で引き寄せられて抱きしめられると、今生まれてる感情を明確にする前にふたつの目が自然と潤んできてしまった。
「」
いつもの声で名前だけを呼ばれると、どうしようもないくらい安心してしまう。微睡の中を彷徨っている時とか、ソファーで後ろから抱きしめられるように座ってる時とかに耳元で囁くように呼んでくれる音とおんなじ。蘭ちゃんがわたしの名前を呼んでくれると、わたしは魔法にでも掛かったみたいにゆっくりと落ち着ける。多分、蘭ちゃんはわたしがそう思うことを知ってるんだと思う。
「目ぇ閉じて耳塞いどけ」
恐らく彼らは相変わらず一歩も動いていないんだと思う。「は、灰谷兄弟の…!」と聞こえた気がしたけど耳を塞ぐように言われたので言われた通り耳を塞ぐと、蘭ちゃんの手が後頭部に添えられてわたしたちの距離に隙間が無くなるくらい強く引き寄せられた。その手とは反対側の長い脚がわたしの横を急に通った気がして、音は聞こえないけどなんとなく蹴りが当たった音とひとことふたこと蘭ちゃんが何か喋ってるというのが感覚で分かる。暫くすると耳を塞いでた両手に蘭ちゃんの骨ばった手がやさしく重ねられたから、もう良いのかと思って耳から手を離す。ゆっくり後ろを振り返ると、さっきの彼らが走っていく姿が遠目に見えた。
「膝」
「え?」
「さっきの連中になんかされた?」
「え…あ!いや、これは転んだ…だけ」
「痛ぇの?」
「今は、痛くない」
傷なんかより現在生じている沈黙の方が刺さるように痛い。なんとなく蘭ちゃんの顔が見れずに俯いていると、わたしの髪を耳の輪郭に沿うように耳裏へかけてくれる。これは多分、こっち向けという無言の合図。
「で、なんか言うことねーの?」
「あ…ご、ごめ」
くちびるが謝罪の6文字を紡ごうとしたけど、完成させる前に止まった。論理的思考なんて元々そんなに持ってなかったけど、頭で考えるよりこころに生まれた感情を先に伝えたくなったんだと思う。もちろん喧嘩のことも勝手に飛び出したことも今の事も罪悪感だらけだけど、今いちばんに言いたいことは違う。普段、当たり前すぎて忘れかけていたけどすごく大事なことだった。
「ありがとう」
「…は?」
「わたしの毎日は蘭ちゃんがいつも守ってくれてたんだね」
伝えたかったのはこっちの5文字。唐突にお礼を言われたからか、蘭ちゃんが珍しくも少し驚いた表情を浮かべている。でもやっぱり申し訳ない気持ちが膨らむように大きくなって、今になってさっき男の人に強く掴まれた腕や肩が震えて「ごめんなさい」の言葉が自然と出た。わたしの足元にだけ雨が降ったみたいに地面が濡れて、こんな顔を見られるのがイヤでまた顔を俯かせていると、蘭ちゃんの手のひらがわたしの両頬を包み込んで親指で涙を少し雑に拭ってくれる。それでも一度ゆるんだ涙腺はなかなか止まらなくて、鼻水を啜る音も止まらない。もう隠せないから遠慮なく泣いた。
「ぶさいく」
「ひどい゛」
「でもかぁわい」
両頬に手を添えられたまま上を向かされて、真上から蘭ちゃんのくちびるが降り注ぐ。さっきまでは人がいないことにあんなに不安を感じていたのに今は周りに誰もいない方が良いなんて、わたしはなんて勝手な女だろう。まるでふたりしか存在してない世界にいるかのように、何も気にせず蘭ちゃんに泣きながら抱き着いた。「こわかった〜」と泣きながら言えば「オレもに嫌いって言われたから泣きそー」と声音に笑みを含みながら揶揄うように言われたけど、今はそれにさえも「ごめんなさい」としか言えなくて、蘭ちゃんは子どもをあやすみたいに暫く背中に手を当てて頭を撫でてくれた。
「落ち着いた?」
「ん」
「じゃあ帰、」
「ねえ、このまま東京タワーまで歩こうよ」
「は?オマエ膝ケガしてんだろ」
「大丈夫だよ、蘭ちゃんだってたまに血流して帰ってくるじゃん」
「オレはいーの。オマエはダメ」
ずるい、なんて言おうと思ったけど今日はたくさん蘭ちゃんに迷惑を掛けてしまったので大人しく引き下がることにした。でも「今度な」という言葉に、先程までの恐怖心だとか涙なんてあっという間にどこかへ消えていき、その代わりに嬉々とした感情がじんわりと宿る。そういえば夜の温度のことなんてすっかり忘れていたけど、蘭ちゃんが着ていた上着をわたしに着せてくれたので、ぶかぶかだけどあったかくて自然と顔が綻んでしまった。どうしてか再び蘭ちゃんの顔がゆっくり近づいてきて、くちびるが触れる程度に重ねられた。「急にどうしたの?」と聞けば「したくなったから」なんて甘ったるい顔で言われてしまえば、特別でもなんでもない言葉なのにうるさく生まれるときめきが、寒さなんて無視するように身体を熱くさせる。
「蘭ちゃん、さっきもしかして走って来てくれたの?」
「…走ってねーけど」
「うそ、だって来てくれたときちょっと髪乱れてたもん」
「何ニヤついてんだよ」
「蘭ちゃんも走ったりするんだなーって」
ただのコンクリートの道が、ふたり一緒に歩くだけで光の絨毯みたいになる。星なんて見えないこの街で、光に彩られたまぶしいけやき坂の道をひとりで歩くよりも、こうして冷たい殺風景な道をふたりで一緒に歩く方がずっと楽しくてあったかい。
