六畳一間のせまい部屋、朝は太陽が寝かせてくれないけど、日当たりが良くてわたしなりにお気に入りだった。どこか懐かしい香りがする畳には、座卓の脚の跡がうっすら残ってしまっている。この部屋に住んで5年。なみだも笑いも染みになるくらいたくさんこぼしてきた。座卓をひとつ置いて布団を引いてしまえば居場所なんてほとんどなかったのに、物がひとつもなくなるとこんなにも広い。ガランとした哀愁を感じさせるこの部屋にはわたしの身ひとつとちいさな鞄だけ。わたしは今日、この部屋を出ていく。
 カンカンと誰かが階段をゆっくりとのぼってくる音がする。今更わたしの部屋を訪れて来るとしたら大家さんくらいだろうか。それか銀ちゃんが迎えに来てくれたのかも。いよいよ明日、ふたりで役所に行きわたしは坂田性となる。そして、今日から銀ちゃんと一緒に新しい生活を始めるのだ。大きい荷物は予め宅急便で万事屋へ送っておいた。そうは言っても、もうほとんど万事屋に住んでいたようなものだから、今更銀ちゃんの家に持っていく物と言っても洋服とかそういうものだけ。あとはこの鞄とわたし自身。ピンポーンと甲高い音が、寂寞とした部屋に鳴り響いた。

「俺だ」

 カメラなんて画期的な絡繰は無い、ちいさくて古い集合住宅だったので、のぞき穴で相手を確認しようとしたけど、そんなことをする前に声で誰が訪ねて来たかすぐに分かった。予想外の低音は、ドアノブにかけたわたしの手を止める。今思えば、扉一枚挟んでいるというのにこんなに鮮明に音が伝わってくるなんて、どれだけ薄い扉なんだろう。一瞬、居留守を使ってしまおうかとも思ったけど、こんなに薄い扉じゃきっと誤魔化せない。それに、わたしが部屋の中にいることなんてお見通しな筈だ。深く息を吐き、止めていた手を動かした。ゆっくり扉を開けると、そこには優雅な柄を散りばめ、杜若と紅桔梗の真ん中みたいな色の着物を纏っている男が立っている。会わなくなって何年経つだろうか、多分あまり変わっていない。

「まだこんなボロ家に住んでたとはなァ」
「…今日で引っ越す予定だから」

 それ以上は扉を開けることも閉めることもなくドアノブから手を離し部屋の中に戻ると、晋助は自分で扉を開きわたしの後を追うように中に入って来た。せまい部屋なりに、玄関だけは無駄に広かったことを改めて認識する。それでも、ふたりの大人が立てば決して広くはない。せまい世界の中で妙な圧迫感が身体を貫いてくる。息が、苦しい。

、迎えに来た」

 うしろからなのに、まるですぐ隣にいるみたいにわたしの耳殻を震わせ、心にまで響いてくるような声色にどこか懐かしさを感じてしまう。手持無沙汰の手を胸に当て、片方の手で自分の手首を掴んで、揺れてしまった心を落ち着かせるようにするけど、むしろドクドクと鳴る鼓動が手から全身の血液に伝わってしまったような気がして、背中にひとすじの汗が流れた。

「わたしを置いてどこかへ行ったのは晋助なのに、ずいぶん勝手だね」

 やっとの思いで振り絞った声は、このせまい世界で振動するように震えていた。あの日、晋助がいなくなってしまってからわたしがどれだけ憂い、侘びしさを抱いていただろうか。そんな真っ暗闇のはじっこで、独りちいさく丸くなっていたわたしを救ってくれたのが銀ちゃんだった。それまでは昔からの良い友人として接してきた銀ちゃんが、ずっとわたしの傍にいてくれて、ずっとわたしを支えてくれて、やがてわたしの大切な人になった。なみだの痕を頬につけた夜も、拭ってくれたのは晋助じゃなくて銀ちゃんだから。

「…わたし、明日銀ちゃんと籍を入れるの」
「だからどうした」
「銀ちゃんは、晋助と違ってわたしをひとりにしない」

 腕を掴まれくるりと反転させられた身体は、ゆっくりと晋助の身体に埋まった。決して強引ではなかったのに、何かにすいこまれるように抱きしめられる。拒まなければいけない、けど拒めない。離れることも、抱きしめ返すことも何も出来ない。中途半端だらけのわたしの気持ちを隙間なく縫うように、晋助の体温がわたしにも繋がる。けれど、離れていた時間があまりにも長すぎる。その間、わたしはこの歌舞伎町という町でみんなと笑ったり泣いたり馬鹿やったり、楽しく生きてきた。

「お前はどこにも行かせねェ」

 あなたはわたしを置いて勝手にどこかへ行ったというのに勝手だね、そんな形にならない言葉を飲み込んで瞼を閉じると再びカンカンと階段をあがってくる足音がした。誰がやってきたか、すぐに分かる。わたしは空気を握ることしか出来なかった手を伸ばして、外を遮るように鍵をかけた。再び甲高いピンポーンという呼び鈴が息苦しいこの部屋に鳴り響き「おーい、銀さんだぞー。迎えに来てやったぞー」という間延びした声が聞こえる。窒息しそうになるほど全身の神経が蠢いた。もし晋助に抱きしめられているところを銀ちゃんに見られたら、わたしはきっと罪悪感に押し潰されて死にたくなる。わたしを救ってくれた人を最悪の形で裏切ることになる。「あれ、いねーの?ちゃーん!おーい、ー!」薄い扉という壁が一枚隔てられているだけで、外と中ではこんなにも世界が違う。物音を一切立てないよう息を潜めるけど、晋助がいつ、何をするか分からないから気が気じゃない。

「鍵を開けたのも閉めたのも、お前自身だ」

 きっと故意的に違いない。耳元で囁くように吐かれた言葉は、わたしの心を深く刺した。刀で斬られた時よりきっと何倍も痛い。真実を告げられた身体が、蝋人形になってしまったみたいに動かない。晋助の冷たい指で頬を撫でられるけど、重ねられたくちびるが熱くて、結局わたしは最後に溶けて消えてしまうんじゃないかと思わされた。息を奪われるようなくちづけは、わたしの脳に酸素を回さず一切の思考も理性も存在させない。身体を強く掴まれると、強引に扉に押しつけられる。背中が痛い。鈍い音がした。その音に異常を感じた銀ちゃんの焦った声が、扉一枚の向こう側から聞こえる。「おい、!?」わたしを心配してくれる声に返事をするどころか、言葉にもならない罪を孕んだ吐息しか漏れてくれない。

「お前を傍に置いておくためなら、悦んで悪者になってやらァ」

 

だったらいっその事、このせまい世界でわたしを殺してよ。