最後に夜の空を見上げたのはいつだっただろう。意識なんて特にした事がないから分からない。夜は暗いのが当たり前だと思っているし、街には外灯や家の明かりがあるから困ったことなんて特に無い。転んだり何かにぶつかったりしないように足元や前だけを見て歩いてるだけだから、上なんてわざわざ向かない。でも今日、店仕舞いをしようと暖簾をしまいに外に出たとき、嘘偽り無く夜空に浮かぶまんまるの月に、思わず目を奪われた。今度試す具はゆで卵もアリかなんてアホな事を考えながら聞こえてきたのは、アスファルトを控えめに鳴らす足音。
「あ、もう終わっちゃった?」
「いや、ええよ」
暖簾とスタンド看板をしまって、遠慮がちに響くヒールの音と共に店の中へ入る。いつもは店に入るなり「お腹空いた〜!」だとか「今日は何にしようかな」なんて陽気な声を出すのに、今日はこの夜みたいに静かな雰囲気が漂っていた。
いつもメニューを見ながらどの具にしようか悩むくせに、結局注文してくるのは毎回同じなので今日もが好きな鮭とツナマヨを何も言わずに出した。カウンターのはじっこのこの席は、の指定席みたいになっている。ちいさな手でおにぎりを持ったは、薄く貼りつけた笑みとちいさな声で「ありがと」とつぶやくように言った。がこんなさみしげな顔になるなんて、理由はどうせひとつ。
「で、今日はどないしたん?また喧嘩でもしたんか」
「流石、お見通しだね」
「そらそんだけ分かりやすかったら誰でもわかるやろ」
もう何度目になるだろう、この表情を見るのは。つらそうな顔をしていたかと思えば、次に来たときは思いっきり笑っていたり。まあとりあえず、ふたりが最終的にしあわせなら何でも良いかと漠然と思っていた。
そういえばと侑が恋人同士になってから、どれくらいが経つのだろう。は小学生の頃、関東からこっちに引っ越してきた。家も近所の幼馴染みたいなもんで、バレーもやっていたというので小さい頃はよく3人でバレー遊びをしたりしていた。は中学でバレーを辞めたけど、高校まではずっといっしょだった。ふたりが付き合うって聞いたとき、一瞬驚いたけど実際はそんなに驚かなかったような気がする。誰よりもそばにいたから、何となくふたりの気持ちは察していた。けど、侑は高校を卒業しても相変わらずバレー馬鹿と言えるくらいバレーに一直線で、がこうやって影で泣きそうになる度に俺が何度も話を聞いてきた事を、あいつは多分何も知らない。
「俺のおにぎり食って泣きそうになんのくらいなもんやで」
「だって…美味しいから」
相変わらず嘘がへたくそ過ぎる。でも、つらいときに美味しい飯を食ったら泣きそうになる感覚は、何となく分かる。身体の内側から熱いものがこみ上げて来て、それが目から涙になって出てくるみたいな、そんな感じ。いつもだったら「ねえ治、聞いて!侑ったらヒドイんだよ」なんてベラベラ喋ってくるのに、今日はゆっくりとただおにぎりを食ってるだけ。もしかしていつもより深刻な事態なのかと推測しつつも、特に自分から何かを聞くようなことはしなかった。
「もし泣くんなら、あいつんとこで泣くんやな」
「冷たい」
「まあおまえが誰かの前で泣けるんならの話やけど」
毎回泣きそうになるくせに、は絶対泣かない。俺の前だから、とかじゃなくて侑の前でも多分泣かない。これだけ長いこといっしょにいるのに、子どもの頃でさえの泣き顔を見たことが無かった。でも、俺は知ってる。夜、ベッドで泣いたんだろうなと思われる朝が何度もあったことを。そんなを見て、侑はいつも「目腫れとんで、寝不足なん?」と冗談混じりに言っていた。の泣いたところを見たことがないから、まさか自分のせいで泣いてるなんてきっと思ってもいない。は多分、俺たち3人の中でいちばん強い。何年間もずっとそう、思ってしまっていた。
「あんま遅なるとおばちゃん心配するやろ、家まで送ったるから帰るで」
「もう社会人だもん、子どもじゃないもん」
「大人は「もん」なんて言わんし」
そう笑って言えば、少しは元気が戻ってきたのかにいつもの笑顔が出るようになった。でもそれは一瞬で、店を出て道を歩いていると、この夜に飲み込まれるみたいにまた静寂が訪れる。月は相変わらず鬱陶しいくらい眩しい気がして、それよりもが慣れないであろうヒールと夜道で転ぶんじゃないかということが気になって仕方ない。がいつもうちの店に来るときは、もっとラフな恰好だ。侑と合うときだけ少し背伸びをしようとする。多分、リーグであいつが活躍し始めて有名になったくらいの頃からだ。きっと、無意識的にそうしてる。今日は本当は侑に会う予定だったのに会えなかったということが、重い足元から簡単にわかった。
「…もしわたしが侑と別れても、おにぎりは食べに行っても良い?」
「別れるん?」
「もしもの話だよ」
むかしよく3人で遊んでいた公園を通る。ここの広場でよくボールを使って遊んでいたっけ、なんて思い出しながら声が震えるの横顔を見ていた。そんなの横顔を見ると、何だか少し胸が苦しくなる。ヴェールで覆うみたいに本当の表情を隠して、でもそれが逆に眩しいなんて皮肉も良いところだ。
「泣いて、ええよ」
どうしてこの言葉が、このひと言が何年も言えなかったのだろう。この言葉を言ってしまったら、今まで危ういバランスで保たれていた何かが崩れてしまうと思っていたからだ。俺が、俺を自覚してしまうからだ。その予想は大当たりで、気づいたらの腕を掴んでいたし抱き締めてもいた。戸惑っているのはだけじゃない、俺だってそうだ。そこには理性だとか意識だとかの思考は一切存在していなくて、何かの引力が働いたみたいに引き寄せてしまった。
「誰もが泣いとるとこ見とらんし」
躊躇われていたの指はギュッと俺の服を掴んでいて、頭をポンポンと撫でればそれに合わせるように下から鼻を啜る音が聞こえてきた。の泣き顔なんて、つらい思いをしてるところなんて見たくない。でも泣いてくれたから、俺は自分でも無意識に隠していたバラバラの感情を繋げることが出来た。
「おい、治。何しとんねん」
けど、隠さなければいけないこの現実を、月明かりは決して許してはくれない。
