※未来設定


 それが正論ではなく詭弁だったなら、どんなに良かったことだろう。
 水彩で描いたみたいにやわらかい青と、輪郭が曖昧でふわふわとした白の雲が、世界の平和を物語っている。家の近くの海はサーファーたちや散歩をする人たち、観光客で賑わいを見せていて、周りにいるわたし以外の全員が笑顔を零していて楽しそうに見えてしまう。なんでこんなに穏やかでやさしい休日の昼下がりに、ひとりで眩しく光る水面を見ながらとぼとぼと歩かなければいけないのだろうか。太陽が反射してきらきらと輝く水面としあわせで溢れているこの光景に、瞼を閉じたくなった。

 ほんの数時間前のことなのに、きっかけなんてもう覚えていない。多分思い出したくなくて、黒のクレヨンで塗りつぶすみたいに脳裏に存在していた記憶をかき消しただけだと思う。わたしが何を言っても正論で返してくる精市に苛立って喧嘩と言うにはあまりにお粗末な、ただわたしがひとり下睫毛に沿うように溜まる涙を見られたくなくて、財布も何も持たずにドラマのヒロインみたいに逃げ出した。ドラマと違うのは、引き止めて貰えなかった事、追いかけても来なかったという事だろうか。その時は何も考えずただ逃げ出すことしか考えていなかったけど、ほんのり冷たい海風に頬を撫でられ少し冷静になった頭と心が寂寥感に似たような感情をじわじわと生んでは大きくしていく。少し歩いたところで歩道から砂浜へと続く階段に腰掛けた。思っていた以上の距離を歩いていたようで、人も恐らく地元のサーファーしかいない。硬いコンクリートの上に腰を下ろして、海と空の境目をぼんやり眺める。時計も無いからどのくらい時間が経ったのかも分からない。少しすると、わたしと太陽の間に立つように人の形をした影が現れる。曖昧な像の筈なのに、誰が生み出した影か分かってしまうのがなんだか悔しい。

「ずいぶん遠くまで散歩したね」
「…うん」
「連絡取れないから探したよ」
「よくここだって分かったね」
「中学の時から、は何かあるといつもここに来るじゃないか」
「そう、だっけ?」
「そうだよ」

 ふんわりと白をイメージさせるような柔軟剤の香りと、純真無垢な花の香りが鼻腔をかすめる。先ほどまでの喧嘩なんて、まぼろしだったみたいに精市は自然に隣に腰掛けてきた。でも、わたしには首を半回転させて精市の瞳を見つめることが出来ない。自分が100%悪いと分かっているのに、たった4文字「ごめんね」の言葉をくちびるで形作ることがなかなか出来ないのだ。そんな自分がひどく子どものように思えて、情けなくて、申し訳なくて、またふたつの目が潤んできてしまう。

「はい、これ」
「…どうしたのこれ」
に似合うかなと思って、ここに来るまでの間に見つけたんだ」

 真っ直ぐに、でも何も見つめていないようなわたしの目の前に差し出されたのは一輪の花だった。曖昧な水平線を上書きするように、視界が花びらの色で染まる。精市と比べてそこまで花に詳しくないわたしにはこの花の名前が何かなんて分からないけど、泣きたくなるくらいの情緒がこころの片隅から緩慢とちいさく産声を上げたような気がした。さっきとは別の理由で視界が滲む。たった一輪なのにラッピングがされていて、ただでさえ存在感の在る花がより可憐に見える。何か大きなものに大事に守られているようなこの一本の花が、今どうしようもなく愛おしい。

「仲直りしたくて、ご機嫌取りで買ったわけじゃないよ」
「え?」
「いつも花を見てるときはが思い浮かぶから」

 むかしから精市は花が好きで、わたしは精市が花を愛でているのを見るのが好きだった。それはたまにヤキモチなんていう下らない感情を抱いてしまうほどで、大切にされている花たちに羨望してしまうくらいにやさしく嫣然とした微笑を花に向けて浮かべているからだ。花を見るという精市にとっては当たり前の日常の中で、わたしがいない時にわたしを思い浮かべてくれているんだと思うと、嬉しくなった。そう言えば、わたしも街を歩きながらショーウインドーを眺めていると「これ精市に似合いそうだな」とか思ったり、美味しいご飯を食べていると「精市も好きそう」なんて、何の違和感も無く当たり前に思い浮かぶ。

「ごめん、だから帰ろう」
「…うん。わたしも、」

 ようやく生み出せそうだった4文字の懺悔の言葉は、ふたつのくちびるが重なることで泡沫のように消えてしまった。突然で驚いてしまい瞳孔が一瞬だけ開いてしまったけど、今この時間を永遠にしたいという願いが表面化するように、わたしの瞼はゆっくりと閉じていく。ただお互いの存在を確かめるように重なっていたくちびるが離れると、じんわりと熱を帯びたくちびるが海風との温度差でさみしい。ほんとはそうじゃないって分かってるけど、素直になれないわたしはそう思うしかない。そしてそんなわたしの単純な思考回路なんてお見通しの精市は、花を扱うように丁寧にわたしの頬を指先でふわりと撫でる。

「ずるいね、謝らせてくれないんだ」
「だって悪いのは俺だからね」
「精市がいつもそうやってわたしを甘やかすから、わたしはいつまで経っても大人になれないんだよ」
「良いじゃないか、そんなが俺は多分いつまで経っても変わらず好きだよ」

 そうだね、そんな精市だからわたしはわたしらしく生きてけるんだよ、なんて言ったらひどく我儘だろうか。立ち上がった精市が「ほら、帰ろう」と手を差し出してくれる。花を持っている手とは反対の手を重ねると、抜け殻みたいになっていたこころが再び生きていくように感じた。水を与えられる花もきっとこんな感じなのかな、なんて可笑しなことを思いながら歩く道は何も変わらないはずなのに、来た時とは全然違った景色に見える。
 良い時間も嫌な時間もふたりで共有して、そうして形成されたひとつの世界にいることが、わたしにとってのいちばんのしあわせなんだろうと、そう思えた。