耳を澄ませばゆるやかな波の音が聞こえてきそうなほど、静かな夜だ。遠目ではあるがバルコニーから見える青い海と白を貴重としたこの部屋を、はひとめ見てすぐに気に入ったらしい。サーファーでも無いのに何故この物件を選んだのか最初はよく分からなかったが、結局のところ生まれ育った街からあまり離れたくなかったのだろう。都心からの距離は少し遠く感じるが、駅からも近くなかなか良い物件ではある。
部屋の主役でもあるネイビーブルーのソファーはふたりで座っても余裕があり、彼女は晴れた日曜日に窓を開けながら昼寝するのがお気に入りだとよく言っていた。もちろん、星はあまり見えないが夜も悪くは無い。麦茶の氷がグラスにカラカラと当たる音に夏の始まりを微かに感じる。ふと隣に座っている彼女を見ると、その視線はテレビに向いているにも関わらず、どこかを彷徨うような雰囲気が出ていた。
「…どっか遠いとこ行きたいな」
観ていた番組が世界の絶景特集だったからだろうか。旅行で行きたいのか、それとも将来の居住的な意味で言っているのかは定かでは無いが、彼女はむかしからどこでも良いからどこかへ旅立ってみたいと偶に言う。きっと自分のことを誰も知らない場所に行って、出会ったことのない何かに出会いたいと漠然と思っているのだろう。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
「うーん…改めて聞かれると難しいなぁ」
例えば、彼女は知識や技術を学ぶため見ず知らずの土地でひとり励む人間を追ったドキュメンタリー番組なんかをよく見ては、羨望の眼差しを画面に向けていた。大学進学の為に田舎から何も知らない都会へ上京してくる友人に尊敬を抱いていたし、留学をする友人やひとり暮らしをする友人など、身近な人間にも憧れを持っていた。恐らく、高校も大学も就職さえも、自分が慣れ親しんでいる場所から出ることもせず、結局は非日常への1歩を踏み出すことが出来ない自分と比べているのだろう。
「明確な答えは無いんだけど例えばきれいな花畑とか?そういう心動かされるような場所」
彼女の言葉はいつも曖昧で不明瞭だ。読み取るのに毎回苦労させられるが、それがまた心地良くもある。それに、言いたい事はなんとなく理解る。冒険心とはまた違う、自立心というわけでもない。名前もつけられないこの願望に似た想いを持っているときの彼女は、大抵何かに落ち込んでいたりつらいことがあった時。つまり日常が嫌になった時によく見受けられる。そういえば、まとまった休みも長いこと取れていない気がする。たまにはどこかに連れて行ってやりたい。
「今年は夏休みを取れるか調整してみる」
「うん。あ、でも無理しなくて良いよ。仕事忙しいのわかってるし」
「無理ではない。それがのためになるならな」
「ありがと」
頭を撫でると、珍しく無言で腕に抱きついてきた。いつもなら屈託の無い笑顔で喜びを声にしながら抱きついてくるというのに、どうやら彼女が抱えてる問題は深刻らしい。恐らく仕事関係である事は予想がつくが、それを無理矢理聞いたりすることは無い。いつも彼女が話してくれるのを待つか、話しにくそうにしていれば彼女が話しやすくなるような雰囲気を作れば良い。
◇◆◇
「え、どうしたの?」
仕事から帰宅し、一足先に夕飯の準備をしてくれていた彼女へ「ただいま」ともうひとつ。それを見た瞬間、目を丸くさせ、瞬きを何度もする彼女の表情はなかなか新鮮だった。睫毛が長いな、なんて無意味な事を俺が考えているとは全く知らず、ただただ驚きを隠せないといったところだろうか。これを言うと馬鹿にしてると怒られてしまうが、ここまで表情に感情が出せるのを羨ましいと思うしそこが彼女の好きなところのひとつでもある。
「なんとなく、だ」
「蓮二くん、なんとなくで動く人じゃなくない?!」
差し出したのはちいさな花束。花を誰かに贈るのは初めてだ。花言葉も知識としていくつかは知っていたが、改めて意味を理解したのは今回が初めてかもしれない。
「これ、すみれ?花束に入ってるなんて珍しい気がする」
「そうなのか?」
「詳しくないけど多分。でもわたしこの花好きなんだー」
「ああ、そうだと思ったからな」
比喩の表現で「花が咲くように」という文章をよく聞くが、正に今がその通りだと言っても過言では無いだろう。彼女の表情が昨日とは一転した。「ありがとー」と言いながら花瓶を用意しに行った彼女の後ろ姿はどこかリズミカルだ。足取りのせいか鼻歌のせいかは分からないが、少しは彼女の力になれただろうか。
すぐに彼女が望むような場所へは連れて行ってあげられないかもしれない。けど、日常にちいさな変化を加えてやることは出来る。それがほんとうに些細な事だとしても、彼女が喜んでくれるのであればそれで良い。
「わ、今日は晴れてるから珍しく星が見えるね」
花を挿した花瓶を持ちながら、大きな窓の外を見上げると、確かに肉眼でも見えるくらいの星がいくつかある。東京の都心から離れているとは言え、田舎というほどでもない。満天の星が見えるわけでも空気がキレイなわけでもない。それでも只の夜が少しだけ特別に感じる。
「今日はいい夢見れそう」
まるで月灯のように静かでうつくしいそれが比較的日常であることに、改めて感謝するとしよう。