First

 外と中の境界線を感じさせないくらい透き通っている大きい窓ガラスには、曇天のつまらない景色がただひとつ。いつも明るい陽が降り注ぐキャンパス内のカフェラウンジには、残念ながら無駄に明るい電気の光しか存在していない。講義の合間や休み時間には人で溢れているこの場所も、2限真っ只中の今は落ち着いている。テーブルの上に図書館で借りてきた本とルーズリーフを広げ、罫線に従いながらペンを走らせる。

「辰也?」

 名前を呼ばれて視線を斜め上に向けると、華奢なピアスをゆらゆらと揺らしたがいた。やわらかそうな髪からは、花を纏ったようなシャンプーの香りがする。桜は人々を置き去りにするかのようにとっくに散ってしまったけど、彼女が傍にいると春の木漏れ日みたいな明るさがそこに生まれる気がした。そんな馬鹿みたいなこと誰にも言えないけど、それはオレの中に確かに存在する感覚のひとつで、心が落ち着くと同時に脈が熱くなるという矛盾に挟まれる。
 缶のアイスココアを片手に持ったが、目の前の椅子に指をかけながら「ここ良い?」と聞いてきたので「うん」と答えた。それだけなのに、年上とは思えないほど無邪気な表情を浮かべて嬉しそうにする。

「何してたの?」
「来週締切の課題だよ」
「カルボの般教か〜、懐かしい」
「カルボ?」
「学食でカルボナーラばっか食べてるのが目撃されてるから」

 短く切り揃えられた彼女の爪が缶の蓋をプシュッと開けると、あまいニオイが一瞬だけ漂う。喉が渇いていたのだろうか、まるで仕事帰りのサラリーマンがビールを飲むみたいに「あ〜美味しい!」と言っている様子が少しおかしくて笑ってしまった。けど、缶の縁をゆっくりとなぞる婀娜めいた指先が視界に入ると、その指がオレの心臓にそっと触れてきたかのような錯覚を起こしてしまい、言葉が上手く紡げないほど苦しい。

「あ、ごめん。もしかして邪魔しちゃった?」
「いや、そろそろ休憩しようと思っていたところだから」

 良かった、と安堵した彼女は目の前に座り、はらりと落ちてくる髪の毛をゆっくりと耳にかけた。最後に会った時より髪はもちろん伸びていて、会っていなかった年月の長さを感じさせられたような気がした。
 


 彼女は小学生だったオレがLAに引っ越して初めて出会った女の子だ。親の転勤でオレより先にLAの地に住んでいた彼女は、2軒隣の向かい側という近くに住んでいたこともあり、とても親切にしてくれた。引っ越してきたばかりで英語がまだあまり話せず、友人もいない状態だったオレにとって彼女の存在は心強く、緊張し萎縮しながら過ごしていた日々はいつしか解れ、笑顔が増えたねと周りからもよく言われるようになった。周りから見たら、彼女はきっとオレの姉のように映っていたことだろう。彼女もオレを弟のように可愛がってくれていたと思う。けど、オレ自身が彼女を姉のようだと思ったことは一度も無い。オレにとって彼女はひとりの女の子だったし、今はひとりの女の人だ。

「コーヒーって苦くない?」
「そんなことないよ。は相変わらずココアなんだね」
「あー、そうやって子ども扱いする!」
「そんなつもりはないけど」
「わたし辰也よりお姉さんなんだからね!」
「はいはい、わかってるよ」
「ほら、そうやってあしらう感じがわたしを年上だと思ってない〜!」

 大学に入学して暫く、キャンパス内で彼女と偶然再会した時は驚いた。突然懐かしい声音で名前を呼ばれ、振り向いた先には久々に見る彼女の姿があった。彼女とこんなところで出逢えるなんて全く想像していなかったので、これが夢でも幻でもなく現実だと理解するのに暫く時間が掛かったような気がする。
 はオレがLAに引っ越してから2年後くらいに日本へ帰った。改めて思うと、過ごした時間は決して長くなかったのに、思い出は今も色濃く鮮やかに残っている。身長や髪など外見に多少の変化はあるものの、雰囲気は変わっていない。けど、元気いっぱいで可愛らしい小学生だった女の子は、オレの知らない間にひっそりと色香を纏う女性になっていた。そのことに、焦燥感や寂寥感に似た何かを感じてしまった自分はやはり愚かで彼女よりまだ幼いのかもしれない。同時に、昨日まで過ごしてきた時間が微睡んでいたとまでは言わないけれど、それまで静寂を抱いて眠っていた何かが緩慢と覚醒させられたような気がした。

「…でも、辰也って本当大人っぽくなったよね」
「そうかな?」
「背もすごい伸びたし、かっこよくなったなーって思って」
「褒めたって何も出ないよ」
「そんなんじゃないよ!だって再会した時、本当に辰也かなって声掛けるのドキドキだったもん」

 桜が咲いていたあの日に再会したことを思い出しているのだろうか。両手で頬杖をつき、くちびるにはやわかい弧を描きながらこちらを見つめてくる。「オレもがキレイになっていてびっくりしたよ」と答えると「そういうことサラっと言えちゃうのは相変わらずだけど、子どもじゃない今言われるとお世辞だってわかってても何だか照れちゃう」と、恥ずかしそうな表情を見せた。その様子があまりに微笑ましすぎて「お世辞じゃないよ」と言うのを忘れてしまったくらいだ。

 こうして他愛もない会話をしているだけで楽しいのに、宝石が散りばめられたみたいに輝くその笑顔があまりに眩しすぎて、つい目を逸らした。その先に映ったのは、明かりがひとつもなく出口が見えない窓の中の曇天だ。こんなにも心臓の奥が軋むのは、彼女の双眸にいつだって映っているのがオレではない別の男だからだろうか。


Top Next