Thrid
何かを訴えかけるように啼く蝉の声が、夏の訪れを告げているような気がした。学科が違うとは偶にキャンパス内ですれ違うことがある。軽い立ち話をしたり、空いている時間が会えば一緒にご飯を食べに行ったりするような日々が続いていた。友人とキャンパス内を歩いている途中に彼女とすれ違うと100%の確率で誰かと問われる。「もしかして彼女!?半年も経たないうちに学科の女の子何人も振ってるくせに…羨まし過ぎる」と言われることもあった。しかし、先輩というわけでもなければ彼女という間柄でもない。幼馴染という表現が一番近いかもしれないが、それは何故か躊躇われて適当に誤魔化していた。
そんな中、ようやく大学の試験期間が終わり、解放感に溢れる夏がやってくる。東京のジメジメとした夏にはまだあまり慣れないけれど、夜になると幾分か涼しくなる。部屋でバッグの中身を整理していると、から借りていた般教の教科書が出てきた。教科書の中にはの字でメモ書きが書いてあったりアンダーラインが引いてあったりして、も真面目に勉強していたんだと授業中に想像していたら「何ニヤニヤしてんだよ」って友人に言われたんだっけ。前期も終わるしそろそろ返そうと思いひさびさにに連絡をした。メッセージを送るよりも電話をしてしまった方が早いと思い、数回のコール音が鳴る。ただ電話をしているだけなのに、このコール音はいつも心臓に悪い。早く出て欲しいとも思うし、出ないで欲しいとまで思ってしまう。相変わらず矛盾だらけだ。
「もしもし?」
「はいはーい?もしもーし?誰〜?」
「オレだけど…」
「あ、辰也だ〜!どうしたの〜?」
「もしかして…酔ってる?」
「酔ってませ〜ん!酒は飲んでものまれるな〜!」
コール音が消え、電話に出た様子が窺えるのになかなか声が聞こえて来なくて少し心配したが、どうやら酔っているらしい。酔ってる人間は大抵が酔っていないと言う。そういえば、はオレと一緒にいるとき絶対に酒を飲まないしの酔った姿を見たことがない気がする。彼女に年齢差を感じたことはあまりないけど、まさかお酒という嗜好品でそれを感じさせられるとは思っていなかった。は部活やサークルには入っておらず、バイトをしているのでその仲間や学科の友人たちとでも一緒だったのだろうか。そんな小さいなことが気になってしまう自分こそが小さい人間に見えて嫌になるが、今は彼女の方が心配だ。
「今どこ?ひとり?迎えに行くよ」
「え〜良いよ〜。わらしひとりでかれれるもん」
何を言ってるかギリギリで聞き取れる程度に呂律が怪しい。電車が走るような音は聞こえるが、周りから人の声はあまり聞こえない。こうして電話をしているということはきっとひとりなのだろう。彼女がひとりでいることにすこしだけ安堵いた。邪な考えかもしれないが、酔って正しい思考回路が働かない女性なんて恰好の餌食以外の何者でもないと思う。電話の遠くの方で、駅のアナウンスが聞こえた。全てを鮮明には聞き取れなかったけど、が今どの駅にいるのかが分かれば充分だ。
「すぐに行くからそこから動いちゃダメだよ」
「ほーい」
どうやら3つ隣の駅にいるらしい。財布と携帯とパスケースと家の鍵だけを持ってすぐに家を出た。自然と駆け足になる。そういえばバスケ以外で久々に走ったなと思った。身体が鈍るので稀にランニングをしたりはするけど、授業に遅れそうになることも、待ち合わせに遅れそうになることも滅多にないので、運動以外で普段走る機会がほとんど無い。
電車がちょうど来てくれたので乗る込むと、各駅停車だった。オレたちが住んでる最寄駅も、が今いるであろう駅も快速が止まる。それでも次の快速を待つよりこの電車に乗った方が少し早い。それは分かっているけど、一駅一駅の時間がとても長く感じて、気持ちだけがつい逸る。時刻は23時を過ぎていた。電車の窓からは住宅街の明かりが少しだけ夜の紺色に映える。
ようやく駅に辿り着くと、ベンチでうとうと微睡んでいるの姿を見つけた。これではいつ置き引きにあっても攫われてもおかしくない。肩にやさしく触れ「」と声を掛けるとゆっくり顔を上げた。ようやくオレを認識したのか、ホッとしたような笑みを浮かべるとは安心したのか急に抱き着いてきた。こうしての身体を全身で感じるのは、が日本へ帰る時に空港でハグをした以来だ。は昔から人に抱き着くのが好きで、小さい頃はよくオレにもタイガに抱き着いていた。大学で再会した時もは抱き着いて来ようとしたが、人目があるので上手く静止させた。だから、こうしてに抱き着かれるのは子どもの時以来だ。あの頃とは全く違う。オレの知らない間にいつの間にかやわらかい女性らしい身体つきになっていて、思わず動けなくなってしまった。鼻腔をくすぐるシャンプーの香りと酒のニオイでこっちまで酔ってしまいそうになる。ここで抱きしめ返すのは卑怯に感じて、の背中に触れようとした手を必死で下げ、身体を離した。
「水買ってくるから待ってて」
「え〜、ヤダ。行かないで」
「すぐそこだよ」
「いいの。気持ち悪くないからここにいて」
駄々っ子のような我儘を言うは新鮮だった。今思えば、から我儘を聞いたことなんてなかったかもしれない。もしかしたらそれは、オレがタイガにそうしていたように、もオレやタイガには我儘を言わないようにしていたからかもしれないけど。酔った人間を面倒くさいと思う時もあるけど、がこうして今みたいに思ったことを素直に吐き出してくれるのが嬉しいと思ってしまった。そんなこと人に言えば馬鹿だと言われるだろうけど、全く不愉快ではなく上手く言えないけれどあたたかい気持ちが心に広がる。
「帰れると思って電車に乗ったんだけどね、途中で気持ち悪くなって降りちゃったんだ〜」
「そっか。あ、電車来るよ。立てる?」
「んー」
ふらふらと揺れてるが倒れないよう神経を払う。もし倒れた時に支えられるよう、けれど決して触れないように腰のあたりに手を添えておく。終電の少し前ということもあり、電車内にはそれなりの人が乗っていた。みたいに酔った人もいれば、仕事帰りのサラリーマンやOL。バイトや部活終わりの学生など、たくさんいる。
「席ないね、凭れかかってて良いから」
自分で言ったくせに後悔した。「ん」と短く言ったはオレの胸に頭を預けてきた。心臓が熱いのか、触れてる部分が熱いのか最早分からない。迎えに行くときはあんなに長く感じた3駅が、帰りは驚くほどあっという間だった。ようやく最寄駅に着くと、辺りはすでに閑散としていた。もともと住宅街のこの街は蝉の音しか聞こえないほど静かだ。
「ねー辰也ー」
「おんぶしてー」
「え?」
「良いじゃん、もう夜だし人もあまりいないんだしさ〜」
確かに周りには人の影がひとつも存在していない。今日はもうの言いなりになろうと「どうぞ」と言いながら屈むとは子どもみたいにはしゃいで「やったー」と喜んでいた。「重い?重いって言ったら怒るよ」とワケの分からないことを言っているがその声は嬉々としている。「重くないよ」とひとこと言うと「へへ」ときっと締まりの無い笑顔を浮かべているのだろう。
「楽ちんだな〜。むかしとは逆だね〜」
あれはまだ、オレがアメリカに引っ越して来て間もない頃。公園で転んで膝から血が出たオレを心配したが、焦ってオレをおんぶして自宅まで運んでくれたことがある。オレもオレの親も驚いたらしいが、は血が出たということにひどく焦り、心配をして火事場の馬鹿力的なものでオレをおんぶしてくれたらしい。あの後、がやりたいと言うのでもう一回オレをおんぶ出来るかやってみたが予想通りは重さに耐え切れず潰れてしまった。確かその時に「に何かあったら今度はオレがおんぶしてあげるよ」と言った気がする。はその時のことを覚えているのだろうか。
「風が気持ちー」
首に巻きつかれた腕も、背中に感じるの温もりも、現実だ。夏だから熱いのか何なのかはよく分からない。の家までの道が分からないので寝られたら困ると必死に適当な会話を交わしていると、ようやくの住んでいるマンションに着いた。なるほど、確かに近い。からバッグを受け取り鍵をさしてオートロックを抜ける。エレベータに乗り、もうすぐでこの状態から解放されると思うと複雑だ。安心すると言えばするし、寂しいと言えば寂しい。二つの相反する感情に挟まれる。
一応「お邪魔します」と言うと後ろから「どうぞどうぞ〜」と陽気な声が背中から聞こえた。5?程度のヒールがあるパンプスを脱がせ、ベッドまで運ぶ。の部屋はイメージ通りで、ベッドやカーテン、インテリアなんかを見ても昔から好きな色や好きな傾向というのは変わっていないんだろうなと思った。アロマディフューザーだろうか、部屋の中は良い香りほのかに漂っている。それともこれが俗に言う「人の家の香り」だろうか。部屋に入った瞬間にの香りを感じて、これ以上ここにいたらマズイと本能が告げている気がしたので足早に去ることにした。
「じゃあオレは帰るけど、鍵ちゃんと閉めておくんだよ」
「ねえ、辰也」
「何?」
「泊まってく?」
「…帰るよ。おやすみ」
「えー、仕方ないか〜。おやすみ〜」
音をあまり立てないよう扉を閉め、深い息を吐いた。何が正解で何が間違いなのかが分からない。上を見上げたところで、星も見えない真っ暗な夜空は何も答えてなんてくれない。
帰り道の途中、蝉の抜け殻が落ちていた。ぐしゃぐしゃになって悲惨な姿になっている。無残に潰されてしまった蝉の死骸が自分の心のように見えて、吐き気がした。生ぬるい夜風で冷えないこの熱い心臓をどうしてやれば良い。