特別暑いわけでもないのにグラスに氷を入れたのは頭をスッキリさせるためかもしれない。それなのに氷はすでに溶けきっていて、グラスから生まれた水滴がテーブルの上に染みを作っていた。宿題をしようと広げたノートは数十分前と全く変わらず真っ白。まさかと仁王のことでこんなに考えさせられるとは思ってなかった。教室でのふたりの様子は相変わらず今までと何も変わってない。ただ、胸騒ぎと言うには大袈裟だけどここ数日何故か落ち着くことが出来ない。が突然あんなことを言い出すからだ。シャーペンを適当に回しながら考えていると、ノックも無しにが勢い良く部屋に入ってきた。ノックくらいしろよ、と言う暇もなくはベッドの上に膝を抱えるようにして座り込む。
「何だよ、どうした?」
コンビニにでも行ってきたのだろうか。袋にはお菓子の袋がいくつかとミネラルウォーターが1本。それらを開けることもせず、相変わらず膝を抱えたままぎゅっとビニールの袋を握りしめてる。何かがあったことは明白だけど、それを無理には聞き出そうと思わなかった。俺はが話し出すまで待とうと、やる気のないノートに再び視線を戻す。
「…になった」
「え?」
鮮明に紡がれた言葉を聞き返すなんて馬鹿みたいなこと、本当はしたくなかった。だって部屋の中はこんなにも静かで、何も遮るものなんてないのに聞こえないわけなんかない。そうか、聞き返したのは聞こえなかったからじゃない。の口から、聞きたくなかった言葉だったからかもしれない。
「今何て言った?」
「仁王くんと付き合うことになった」
こころの中はめちゃめちゃ動揺してた。いや、何で仁王なんだよ?マジであの仁王?つーか俺、あいつはやめとけって言わなかったっけ?そんな疑問符ばかりこころの中でぐるぐる回ってる。一体いつ、どこで、そんな事になった。が少し前に仁王の事が気になっていると言ってたのは、やっぱりあの時すでに何かあったってことか。つーか何で俺がこんなに動揺してんのかも意味が分からない。
「マジ?あの仁王と?」
「マジ。あの仁王くんと」
「お前らってそんな感じだったっけ?」
「うーん、やっぱ急だよね。」
「いや、めちゃめちゃ急だろい」
少し考える素振りを見せたはようやく抱えていた膝を解放し、ベッドから下りるとスッと立ち上がった。今、ここにいるはもう仁王の彼女なんだと思うと不思議な感じがした。幼馴染なのに、何年も一緒にいたのに、別人かのように遠い存在に感じる。
「帰る」
「え、お前そもそも何しに来たんだよ」
「お邪魔しました!おばさんたちによろしく」
扉が閉まった瞬間、全身の力が抜けるように脱力した。と仁王に対する頭の整理も追いつかないし、何かスッキリしない感じも居心地が悪くて落ち着かない。宿題なんてやっぱりやる気になれず、ベッドの上に寝転がってみたけどさっきまでが座っていたせいで少し生温かい。幼馴染に初めて彼氏が出来たと言うのに祝福出来ないのは、相手が仁王だからなのか、それとも違う何かか。瞼を閉じながらシーツをギュッと握りしめると、何本もの皺が出来た。
▲▽▲▽▲
どうやら学校では付き合うことを公にするつもりはないらしい。まぁ今までの仁王のことを考えると、当然その方が良い。の突然の報告から2週間経ったけど、クラスにいる間は今まで通りと何も変わらない。相変わらず二人が直接話すことはあまり無くて、俺ばっか喋ってる気がする。ふたりでデートとかに行ったりしてるのかとか、何て呼び合ってるんだろうとか、そんな女々しい事をふと考える自分が自分じゃないようで落ち着かない。でもと仁王という俺にとって身近なふたりが付き合うというのは、思っていた以上に俺にも影響がある。
「お疲れ様。遅くまで大変だったね」
例えば今日。まさに今この瞬間。聞きなれた居心地の良い声がしたけど、それは俺に向けられたものじゃない。部活の練習帰りにが仁王を待っていた。まるで彼女じゃん、いや彼女か。…なんて、ひとり心の中で自分と会話しながら冷静さを保とうと試みる。何故なら必然的に帰り道が一緒になってしまうからだ。今日に限ってジャッカルは風邪で学校を休んだみたいだし、赤也は宿題がヤバイとかでダッシュで帰っていった。何も考えずに部室でのんびりしてしまったおかげで、前にはと仁王の後ろ姿。ふたりの後ろ姿を見た瞬間、無意識に慌てて足を止めてしまった。そして気づかれないように歩き出す。まるで後をつけてるみたいで気分が悪いけど、帰り道が一緒なんだから仕方がない。
「家どっちじゃったけ?」
「あっち。ブン太の家の隣」
会話声がちいさく聞こえ、自分の名前が出ると心臓が飛び出そうになった。前を向いてるふたりはきっと後ろに俺がいることに気づいてない。何も見えない真っ暗な海から、波の音だけが強く静かに聞こえる。朝は、俺とが一緒に歩いてる道だ。今思えば、校門の時点で部室に戻るとか途中でコンビニに寄るとかして、ふたりと帰りの時間が一緒にならないようにすることはいくらでも出来た。けど、それをしなかったのは"恋人同士"のふたりがどんな感じなのか気になったからかもしれない。
ふたりは手も繋がず、何とも言えない距離感で歩いている。周りから見たら、きっと付き合う手前か付き合いたてだと思うだろう。一体どんな会話をしているのか、そこまでは聞き取れない。けど、の家まであと少し。閑散とした住宅街で仁王の足が止まった。家庭によってはもう晩飯の時間も過ぎてる。音もない静かな住宅街の窓から漏れる明かりが鮮明に映したのは、ふたりがキスをしている姿だった。
「に、仁王くん?」
「初々しくてかわいいの」
「そうじゃなくて、ここ外だし」
「中だったら良いんか?いい加減慣れんしゃい」
当然、俺の足も止まった。というか俺の心臓が止まりそうになった。すべての思考回路が停止したように、アスファルトに足がくっついたみたいに動けない。でも、どこか冷静な自分がいて「あいつら、本当に付き合ってんだ」と思ったし「何で俺がこんなに動揺してんだよ」とも思った。でも、そういうことを考えてしまうのは、きっと自分なりの防衛だったのかもしれない。今までの何かが壊れてしまうような気がして自分で自分を繕った。
「ほら、行くぜよ」
そう手を差し出した仁王の手に、は躊躇いながらも自分の手を重ねた。そして、ふたりが歩き始めた瞬間、一瞬後ろを見た仁王と目が合った。口元にはちいさな笑みを浮かべていて、すぐに前を向いたからは何も気づいてない。あいつ、気づいてのかよ。マジで性格悪ぃ。
空虚感、喪失感、寂寞感。どれも似てるけど、どれとも違う名前が分からない今のこの感情に埋もれて窒息してしまいそうなほど苦しい。ふと上を見上げると、静かな夜に浮かぶ三日月が満月みたいに眩しくて、まるで逃げるみたいにゆっくりと目を閉じた。